第5話「静穏」

 アイスコーヒーをいつも、直之はブラックで飲む。

 山越さんは常連客の好みをひと通り把握しているので、ミルクもガムシロップも付けずに提供してくれる。ひと口含むと、上質な苦味が直之の脳に心地よい刺激をもたらす。

 厚切りのバタートーストは半分にカットされており、じんわりとしたバターのかぐわしい香りが、顔を近づけなくとも直之まで届いた。小皿にたっぷり入ったジャムを適量つけて食べつつ、ゆで卵の殻をむく。口のなかで、バターのしょっぱさとジャムの甘さが絶妙なバランスで溶解されていく。

 

 山越さんは、先ほど来店した老夫婦たちの注文をとっている。

 静穏な朝。最近は、休日は疲労払拭のためにと昼前までいぎたなく眠ってしまうことが多かったので、こんなに規則正しい朝を享受するのは久しぶりだった。


 泰の「だいたい昼ごろ」に、固定化された時刻はない。

 ふたを開けてみなければわからないその提案に、直之はいつも少しばかりの愉快さを覚える。「じゃあ夜に」でも、「六時前後に」でも同じだ。また、事前に決めただいたいの時間を、ときに大幅に過ぎることもあった。

 そうした場合に少しのいら立ちも覚えないといえば嘘になるが、それ以上に、実現までの時間の幸福さという観点のほうが、直之にとっては重要な感情だった。

 相手が自分のために時間をつくり、そのために時計を気にしながら仕事を片づけたり、もしくは会ってからのやりとりや行動について思いをめぐらせているかもしれないことを想像すると、いつも不意に相好を崩しそうになる。そういう感情を抱く他人は、今の直之にとっては泰しかいなかった。


 向田邦子むこうだくにこの短編集――先週末、神保町の古本市場で五十円で購入した――を半分ほど読み終えたところで壁かけ時計に目をやると、十一時二十分を示している。『無雑』に来てから、ちょうど三時間が経っていた。いつのまにか店内はほどよい賑わいを呈しており、前方にいた老夫婦たちはいなくなっている。斜め前方のカウンター席は、一人客を中心に半分ほど埋まっていた。


「ごちそうさまです」

 伝票をもって席を立ち、カウンター横のレジスペイスに足を運ぶ。

「ありがとうございます、六百円ですね」

 テーブル席の客の注文をとっている山越さんに代わり、アルバイトの女性店員が対応した。長財布から、直之は千円札を取り出す。


「おっ、帰るのかい。いつもありがとうね」

 会計が終わるころ、山越さんがふり向き、朗笑ろうしょうを浮かべながら片手をあげる。

「ごちそうさまです。良い朝を過ごせました」

 山越さんと女性店員の両方に向けて挨拶をしてドアを開けると、貝殻のウッドチャイムが名残惜しむようにからからと鳴った。

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