第4話「無雑」

 『無雑むざつ』は、いつもどおりに営業していた。

 

 五年ほど前、一人で散策していたときに見つけた喫茶店だ。西武新宿線の野方駅からほど近い場所にひっそりと佇むその店は、阿佐ヶ谷の自宅からはバスに乗るか、もしくは今日のように片道四十五分ほどかけて歩かなければならずアクセスが良いとはいえないが、直之は週に二度か三度、それでも必ず訪れている。

 木造住宅を改装した手作り感の漂う外観に、直之はひと目で魅了された。大型の表札のような木彫りの店名、ひさしの代わりに十数センチ間隔で取り付けられた細い丸太、店前に置かれた木製イーゼルのメニュウ板。ドアを開くと、からんころんと貝殻のウッドチャイムに歓迎された。


「いらっしゃい。どうぞ」


 マスターの山越やまこしさんが、温顔を湛えて奥の席へ案内する。開店して間もないので、まだ先客はいなかった。

 気に入りの端席に腰かけ、直之はふうとひとつため息をつく。首にかけていたイヤフォン――筐体きょうたいにメイプルウッドを使用した、木製のめずらしい一品だ――とWALKMANをポーチにしまってトートバッグに入れた。


「こんな早くにめずらしいねえ」

 山越さんが、お冷とおしぼりとメニュウをテーブルに置く。

「目覚まし時計、かけ間違えちゃって」

 メニュウを開きながら半笑いで答える。注文の内容は見なくとも決まっているが、いつもの習性として直之は必ずそれを開き、ひととおりのページをめくっていた。

「それで、休みなのに早く起きたわけか。直之くんらしいなぁ」

 

 山越さんは先月で五十になったはずだが、肌につやがあり、染めなくとも真っ黒な短髪もあいまって実際よりも若く見える。山越さんが笑ったときに頬にできるぽつぽつとした皺を見ると、直之はどういうわけか安堵する。豪快にできるのではなく、ぽつぽつとしているのがよいのだ。きっと笑顔を生成するのがうまいのだろうなと直之は思う。


「ブレンドとトーストのセットで」

「はい、少々お待ちを」

 直之が差し出したメニュウを受け取り、山越さんがキッチンへと入っていった。

 

 おしぼりの入った袋を破き、取り出して両手を拭く。おしぼりで首や顔を拭くような男性が年齢を問わず一定数存在するが、直之は決して手以外を拭いたりはしない。常連客として鉄面皮てつめんぴな行いをするわけにはいかないという良識に基づく側面はむろんあったが、仮に気遣いの不要なチェーン店であってもそうはしない。おしぼりで顔を拭くぐらいなら、トイレに立って洗面所で顔を洗うほうが清潔だという定見を、直之は早くから持ち合わせていた。

 

 泰は、直之と違って忌憚なくおしぼりで顔を拭く。直之は、でも泰が清潔観念に乏しいなどと思うことはなかった。清潔の尺度も考え方も人それぞれであり、それを押しつけるのは烏滸おこの沙汰であることを知っている。


「お待ちどおさま」

 山越さんが、アイスコーヒーとバタートースト――いちごジャムとゆで卵が添えられている――を運んできた。それらがのったトレイを置くと、エプロンのポケットから伝票を取り出しトレイの隅に添える。


「ありがとうございます」

 微笑を返し、軽く一揖いちゆうする。貝殻のチャイムが鳴り、老夫婦がひと組来店した。

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