第3話 千堂ユキ


 若干の気だるさはあるが、体は非常に軽い。

 昨晩は土曜日の夜とは思えないくらい早く眠りについたのがその原因だろう。こんなにも健康的に日曜日を迎えるのはいつぶりだろうかと数えようとしたが目の前に雑に置かれているゲームのコントローラーを見ると、そんなことは忘れてしまっていた。

 もしも今日コントローラーを握る機会があれば瞬く間に昨日の汚名を晴らすことができるのに。


 日曜日の朝からメイク、ネイル、服選びなんていう慣れないコマンドに意味がないとわかっていても時間をかけてしまう。こういうところは私も女の子といったところだろうか。とはいえもうアラサーの私にとって『女の子』というフレーズは適切ではないのかも知れないが、適切かどうかはどうでもよいのだ。

 少しでも気分を盛り上げるためにあえて普段ならしないであろう思考回路が次々と頭の中で繋がっていくように感じた。


 私がこれだけ時間をかけて見た目を気をつけるのは今日会うのが『ユキちゃん』だったからである。彼女の隣を歩くのであれば常識的に考えてそれなりの身なりを整える必要はある。


 千堂ユキは会社内では唯一私のような陰キャとも話してくれる優しい陽キャラちゃんである。

 彼女の特徴を一言で説明しようとするとおそらくほとんどの人が同じ回答をするのだろう。

 「顔がとても可愛い」

 間違いなくその答えに収束するはずだ。それくらいに彼女は魅力的な女性だと私から見ても感じる。

 ユキちゃんが顔の可愛いだけの女の子であればきっと私は彼女と距離を縮めるようなことはしなかっただろう。


 彼女は顔が可愛いだけにとどまらず…というよりとどまってくれればまだ私もプライドを保持できたわけだが。

 私は学生時代にある程度勉強をしていたし自分が卒業した大学も世間一般では知名度も偏差値も高いと評価されるものではあったが、ユキちゃんはそれ以上の大学を卒業している。仕事もこれまたテキパキとこなすデキる女なのもあり、ただの頭でっかちということでもない。

 入社当時の私は今考えてみると恐ろしくプライドが高く、何故か自分がとてつもなく優秀な人間であるような錯覚に陥っていた。そういうこともあって初めて同期入社した彼女と軽い会話をしたときは正直いい印象は抱かなかった。わかっている。もちろんただの嫉妬だ。

 しかし、その後この子が私に害を与える存在ではなくただ優しくて優秀で性格の良い明るい女の子なだけであることを痛感させられることになる。

 嫉妬でどうこうなるレベルの話ではないのだ。なんというか次元が違う。そのような感覚だった。


 これから綴るエピソードは私に同期の友人を作ることができたと同時に変なプライドを解消するきっかけになったものである。



________2年前_________

 私の職場は時期によって仕事の量が大きく変化する。一度忙しい時期に入ると慌ただしく仕事をする状態が長く続くことがあるのだが、その慌ただしい日々の中のある日に私の体調はすぐれなかった。


 いつも通り昨晩自分が設定したはずのアラームを恨みながら停止させてから起き上がるときに大きな違和感があった。

 背筋が凍るような寒気を感じるのにも関わらず、頭はショートしたかのように発熱している。

 一人暮らしを満喫している私だがこの日だけは母に会いたくなってしまった。「卵がゆ食べたい」と今だけは無謀な願いを口にした後に、ショートしきった頭で損得勘定を始めた。

 風邪であることは明白なので有給を取ろうとも考えたのだが、私は知っていた。この繁忙期に休暇を取るのがどれだけ職場で目立ってしまう行為なのかを。

 きっと皆、私の陰口を言いながらせっせと働き、終われば私をネタにお酒を飲むのだろう。

 それだけならいい。

 それだけに留まらず、その悪意のある態度を長い間続けるのだ。それはもう思春期の女子グループ並みに長い期間だ。人は誰かを陥れ攻撃したい生き物である。その対象にわざわざ自分からなってくれるのはいささか不満が残る。

 このような考え方に至ってしまうのは私にも年不相応な思考のズレのようなものがあるからなのだろうか。

 会社内では私もそこそこ仕事はできる方だ。というのもヲタ活のためにできる限り残業をなくしたいという一心で身につけた技術である。好きなもののために成長できるというのは素敵なことだろう。

 そうすることで、気の許せる同僚なんていないこの決して居心地がいいとはいえないこの職場でも、ある程度の立ち位置を確立したのだ。

 これをたった1日でみすみす失うのは耐えられない。


 結果、私は出勤するしかなかった。そうすることで、年間を通して有給を使うプランを崩さずに済む。


 「石川さん」

 左右から何回も名前を連呼され、『石川』と呼ばれたら仕事をしてくれるロボットのような扱いを受けているような気分になったが必死に食らいついて業務を行った。

 散々オフィスを右往左往した結果、無造作に積み上がりきった書類を見て今日はこれが終わったら帰ろうと決め、わずかなモチベーションを確保する。

 座ってからわざとらしく大きく息を吐いてパソコンと向かい合い、いつもより画面が眩しいと感じながら素早くキーボードを叩く。

 パソコンの画面を見つめていると自然と涙が出てくる。きっと今の私の顔色はひどいものなのだろう。目も充血しているのはわかっている。だが、このオフィス内にそんなことを心配する人間などいない。

 それはそれで私も周りに気を遣う必要がなくなるのでプラスだと考えるようにしている。


 かろうじて。なんとかこの日予定していた分の書類をまとめあげることができた。


 周りを見渡すと忙しそうなのは変わりないが昼ごろほどではなく少しずつ落ち着きを取り戻そうとしている頃だった。

 申し訳ないが体調もすぐれないし今日は早めに退社しようとデスクの片付けをし始めた時、一つの宣告をされる。


 「石川さん!」


 迂闊だった。本当に迂闊である。

 普段なら早めに退社するときはこの人が休憩するタイミングを見計らって出て行くのに、今日はそれをしなかった。いや、できるほどの判断力が鈍っていた。

 「プレミか」とついゲーマー気質な反応が脳内で再生されてしまう。

 見るからに不調そうな私に対して五条先輩は続けた。

 「終わったならこっちもお願い!」

 夢ならばどれほどよかったでしょう…

 きっとこのフレーズが脳内に流れるということは夢オチというわけにはいかないのだろう。と確信したころには綺麗に片付けたデスクにわざと私を縛り付ける理由づけをするかのように、これはまた無造作に置かれている書類を見て目の前が真っ白になってしまった。

 ゴールをめがけて全力失踪した後に、延長戦を突然申告されたようなこの感覚は不調な私に精神的にも体力的にも手痛い一撃をお見舞いしてくれた。

 

一番腹が立ったのは書類を私のデスク置く際に「困った時はお互い様だね!」とか抜かしてきやがったことだ。

 「このクソババア…」という悪態が後少しで言葉に変わってしまう寸前で思いとどまった。

 

 終わらない…終わるわけがないのだ。

 「少し風にあたってきます。」

 誰も返事をしないとわかっているのに、なんとなく無駄な承諾を得てからラウンジに向かった。

 社会は、なんのために、誰のためにということは問題ではなく、許可をとらなくてはならない団体だ。とはいえ、こうも脳みそが活動してない状況になってみると何も考えずに適当に許可だけ取っておけばいいという環境に今だけは感謝した。とりあえず報告しておけばいいのだ報告を。


 ラウンジには私の他に誰もいなかった。閑散としていてオフィス内でも仕事以外の話を誰かとすることはないので、誰もいないという状況はより鮮明に『私が孤独』であることを強調していた。

 しかし不思議と嫌な気分にはならない。

 無作為に一つ椅子を選びとにかく早くこの重い腰を下ろしたいという希望を叶える。

 オフィス内で詰まっていた息が解放されて、出勤してから初めて呼吸したような感覚に陥る。それと同時に怒りもこみ上げてきた。五条先輩は3つ上の上司なのだがとにかく休憩の多い人だ。

 この人を…こいつを一言で紹介するのであれば『休憩の多いババア』といったところだろうか。

 休憩をとるのはもちろん悪いことではない。だが、タバコ、コーヒー…と休憩時間を人の数倍とった挙げ句の果てに終わりきらない仕事を自分より下の人間に任せてくるのだ。

 私はもちろんこの女が嫌いだ。3年も先に生まれたくせに自分の分の仕事も満足にできないのか。ほとほと呆れてしまう。

 五条先輩は若手女性社員の中心であり、まあ女ボスといったところだ。私に仲のいい同僚がいないのも、職場の雰囲気が息苦しいのも全部この人のせいだ。

 珍しくこんな考えてもどうしようもないことが頭の中でグルグルと離れない。


 どれくらい休憩しただろうか。瞼が重いし腕がしびれている。

 ふと正面を見ると誰かが座っていた。


 驚いた。


 よく見るとそこには千堂さんがコーヒーを片手にこちらを見ながら座っていた。

 「おつかれさまです。」

 予想もしなかった相手からの突然の挨拶にとっさの返事ができずに、しばしの沈黙が流れた。時間にしてたった10秒ほどだろう。まるでとても長い沈黙を作り上げてしまったことに罪悪感を感じながらやっと返事ができた。

 「お、おつかれさまです。」

 まるで新学期初めてのクラスメイトと最初の挨拶を交わしているみたいだ。別に千堂さんと話すのは初めてじゃないのに。

 彼女は私に疑問をぶつけた。

 「今日、体調悪そうですね。大丈夫なんですか?」

 またも驚かされた。彼女は私の驚きのツボでも抑えてきたのだろうか。

 私がこの会社で働いてて誰かに気遣われることは初めてだった。というより仕事以外の話をするのは本当に久々だ。入社した時以来である。

 いつも雰囲気に飲まれないように気丈に振る舞ってきた。今日だって体調が悪いということをわざわざ言っていないし、気にかけられるほど態度にも出していなかったはずだ。

 そんなことを思っていたら頰をつたって水滴が落ちてきた。

 何年振りだろう。こんな人前で。悲しさからなのか、嬉しさからなのか分からないまま突然我に帰ったように恥ずかしさを思い出した。

 「え、どうしたんですか?やっぱり辛かったんですか?」

 千堂さんの顔は眉が綺麗な八の字になっていてそれはそれで可愛い顔をしていた。そして顔には二文字の漢字が浮かび上がっている。『困惑』だ。


 それはそうだろう。誰だって体調を聞いただけで突然泣かれでもしたら困惑する。というか迷惑だ。私なら顔に『迷惑』と書かれているに違いない。


 「ごめんなさい。大丈夫だから。」

 仕事に戻らなければ。私は逃げるように自分のデスクに戻った。


 今思えばなぜこのとき、こんな行動をしてしまったのか。このときの私の態度をユキちゃんはどう思ったのだろう。素直になれなかったのはプライドだけの問題でもなかったような気もする。


 オフィスは賑わっている。一部の女性社員が会話をしているだけなのだが。

 非常に不快だ。女性社員のトークが不快なわけではない。その中心に五条先輩がいることに不快感を覚えたのだ。

 仕事は終わったのだろうか。

 私はこの女に流された仕事を終わらせなければならないのに…

 いい加減しんどくなってきた。私の疲労の加速するペースに反比例するかのように作業ペースが落ちていく。


 どれだけの仕事を残しているんだあの女は…

 終わるわけのない仕事量を前に私はついにギブアップをした。というよりはレフェリーストップといったところだろうか。この場合レフェリーに相当するのは誰なのだろうか?そんなくだらないことを考えながら私は再びデスクに頭を置き目を閉じようとした。


 「こんなとこで寝たら悪化するだけだよ。明日も辛いよ。」


 誰にでも敬語で話す千堂さんが珍しく敬語を使わずにこう続けた。

 「私が元に戻しとくよ。」

 違和感のあるフレーズだったように感じる。

 元に戻す?なにをどこに戻すのだろう。私なにか出しっ放しにしてたかな…

 ここから先は思考が止まった。というか意識もなかったのだろう。なぜなら次に私の意識がはっきりする時には自分の部屋にいたのだから。







 「お疲れ様です!」

 トークが盛り上がっている五条が中心にできている暇な女性社員の輪の中に正面から切り込む。

 「千堂さんおつかれー!今帰り?」

 「はい、私はもう帰るんですけど…」

 ニコニコと笑顔を崩さずに、さらに続ける。

 「石川さんにさっき渡してた業務なのですが、彼女ちょっと体調が悪いみたいなので申し訳ないのですが引き受けられそうにないです。」

 一応、石川さんの代わりに申し訳なさそうな態度と受け取られるような表情を顔に貼りつけながら要件を伝える。

 「え?いやでも、私もそろそろ帰ろうと思ってたし」

 五条のこの返答にはさすがにイラっとしたが、このやり取りを早く終わらせるために深呼吸一つで冷静になった。

 しかし、この時点で既にニコニコとした作り笑いは消え失せていたように思う。所詮は作り物だからなあ。

 「いえ、ガールズトークをしながらでいいのでもう少しだけ残業して帰ってください。もともと五条さんの分のお仕事ですし。困った時はお互い様ですからね!」

 言い終わる頃には再びにっこりと笑いながら、それでも淡々と正論をぶつけていた。

 学生の頃は「笑顔なんだけど目が笑っていない」とよく言われたのを何故か今思い出した。

 

 私が言いたいこと、その雰囲気は少なくともこの女性グループには伝わっていたのだろう。

 女性はこういう時にとても敏感な感性を見せる気がする。

 五条は不満そうな顔を浮かべていたが話の腰を折られてしまったことをきっかけに散ってしまったグループを見て渋々、本来は自分がやるべきであったが時間の使い方が下手なことが原因で部下に天下りした仕事を引き受けることを了承した。


 つまり元に戻ることになったのだ。


 「石川さん石川さん!帰りますよ!」

 「え?でも仕事…」

 石川さんは力のない声で私に疑問をぶつけてくる。こんなに体調が悪くなるまでオフィスに残るのも責任感の強すぎるところからきてしまうのだろうか。

 「真面目な人だなあ」と思った。真面目すぎて自分を蔑ろにしてしまう部分には共感できないが、私はこの人がなんとなく自分にないものを持っている同僚のように感じる。







 「大丈夫です!元に戻してきました!」

 だから元に戻すってどういうことなのだろう…でも、もう疑問を投げかける気力はない。

 このままタクシーに乗せられて自宅まで帰ることになった。

 千堂さんはそこまで言わなかったが、おそらく家についた後も私を布団まで運び戸締りまでしてくれていたのだろう。


 次の日、結局会社を休んだ私は千堂さんにお礼の連絡を入れてからこの日は体調回復に努めた。



 私はこの日のことをとても感謝している。だからこそヲタ活よりもユキちゃんを優先するのだ。するときもあるのだ。


 後日、千堂さんへのお礼も兼ねて食事に行った時に意気投合して、現在の関係性にまで至るわけだが、それはまた別のお話。

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アニヲタ女子の非日常 やつれん @yatsuren0820

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