番外編 紫苑城での生活1
朝、目を開けると、フカフカの白い枕が目に入った。
身体を包む、白いシーツに包まれた上掛けの布団も、軽くて気持ち良い。
白いシーツの手触りは柔らかく、木綿とは思えない様な滑らかさと柔らかさ、そして温かみを感じる。
『ああ、良かった。夢では無かった。今日も、ちゃんと私はここにいる』
今朝も私はそう思った。
紫苑城と呼ばれる、屋根が紫色の優美なお屋敷は、フレデリク・ザクアーシュ・ヴィ・ヴァルモントル公爵様の住む場所だ。
そもそも、一般庶民の私が、このようなお城の敷地の中に居る事でさえ不思議な話なのだけど、彼の浄化師として雇われて、ここに住むようになった。
でも、なぜだかこのお城には私とザク以外は、『人に非ざる者達』しか居ないようだった。
ここに来て、暫く私は、朝飛び起きていた。それは何故かと言うと、これまでの習慣によるものが大きい。
今まで、家族と住んでいた家では、全ての家事を一人で行っていたので、朝早く起きて様々な事を回さなければ、自分の勉強する時間が持てなかった。
早く起きて、あれもこれも済まさなくてはならない、という強迫観念に取りつかれていた様だ。その、朝に飛び起きる癖はなかなか抜けなかった。
家出をする前までは、まず朝起きて、洗濯物を洗うと、雨が降っても濡れない様に屋根のある場所に干す事から始まった。
学校に行っている間に雨が降っても、母が洗濯物を取り込んだりはしてくれないのだ。自分の服が雨に濡れても知らぬふりが出来るなんて、私には理解出来ない。
もちろんダメ元で雨が降ったら洗濯物を取り込んで欲しいと言ってはみたけれど、ダメだった。
「あら、何故私がそんな事しなくてはならないの?」
まずそこから始まるのだ。
話をしても無駄だと理解してからは、自分でどうやったら家事を上手く回せるのか考えるようになった。頼る者がいなければ、自分でなんとかするしかないのだから。
洗濯物を干す場所を考えたり、場所を作ったりするのも全て自分だった。
そこで、ふと父親の事を思い出した。
父親は、空気の様な存在だった。良い意味ではない。
話をすれば返事はしてくれるけど、毎日の学校の先生という職業も結構大変そうで、いつも心ここに在らずといった感じ。
積極的に家の事を考えたり、私の事を気にしたりはしてくれない人だった。
何か相談しても、『お母さんに言いなさい』と、必ず言うのだ。
言っても無駄だからお父さんに言っているのに。お母さんが大切にしているのは、兄と妹だけで、私は別枠だという現実を分かっていないようだった。
一生懸命それをなんとか伝えて分かってもらえないかと考えて見たが、無理なのだと分かった。
家族五人の生活をかかえている事は大変な事だろう。教職というエルメンティアでは聖職的な仕事は誰にでもなれるものではない。その事では教員をしている父の事は尊敬もしている。
真面目な性格から人の教育には手が抜けないのだろうけど、少しは家の事も考えて欲しかった。
ただ、洗濯物を干す干場を作る時、頼んだらロープを張る手伝いをしてくれた事がある。それだけだけど・・
洗濯物と言っても、記憶の中にある文明の発達した国とは違い、洗濯機なんて物があるはずもなく。
木の盥(たらい)に釣瓶を使って井戸から汲んだ水を入れ、洗濯板や足を使って汚れを落とすのだ。体重のない私が、足で踏んで5人分の洗濯物の汚れを落とすのは結構な重労働だった。
一口に井戸から水を汲むと言っても、身体の小さな子供にしてみれば、それだけで大変な労力を使う。しかもその後しっかり水気を絞らなくてはならない。
大きな物は絞るのが大変なので、片方を固定した木の棒に巻き付けて絞る事を考えついた。
過酷な労働状況で、私の身体は痩せぎすと言っても間違いではなかった。
使う燃料は常に摂取する分を上回っていたのだ。無駄な肉はない。
筋肉ならあるけどな。
そして庶民にとって石鹸はとても高価な物なので、少しずつ大切に使った。
そんな風になるべく家計の助けになるように、ちみちみとした節約での積み重ねでがんばっていても、母親はよく不必要な品を買ったりしていた。
もちろん私が文句を言った所で、止められるはずもない。
だけど、まあ、こういう事だって、やっていれば自分の身に着く事だし、自分で働く様になれば、家を出て暮らすのに役にたつのだ。
わりと前向きな考えで日々を過ごしていた。じゃなきゃやってられない。
前提として、学校の先生になって家を出るって目標があっての事だったけど。
水仕事は、夏はまだ良いが、冬などは手や足の肌は荒れて割れて、子供の皮膚とは思えない程の大変な有様だった。よく面倒を見てくれていた伯母が見かねて貴重な『馬の油』を分けてくれた事がある。
洗濯が済んだら、家族の朝食の支度をして、お昼に食べる簡単な弁当を作る。
兄が家に居る頃は、父と兄と母と私と妹の分を作っていた。その合間に、朝ごはんの支度もするのだ。
母は家に居るけど、当然の様にお昼はそのお弁当を食べていた。
私は、時間がないので家族の弁当と朝食を作りながら、その辺の余り物を口に放り込んで済ましていたのだ。だけど、だからと言って自分の分をケチるなんて事はしなかったけどね。倒れたらおしまいだもの。
家の中の掃除や片付けも、しないでいれば直ぐに溜まっていく。
結局はその分私の負担が増えるだけだと分かり、日々の事をコツコツと済ませるようになった。
勉強には手を抜きたくなかったので、少しでも時間があれば勉強した。
兄の部屋に残っていた、母が兄に買い与えた勉強の本等も、こっそり持ち出して読んで勉強していた。本や紙を使った印刷物はとても高価だったので、母が私にそんな物を買い与えてくれる訳がなかった。
と、そんな事を思い出しながら、もう一度潜り込みたい位、気持ちの良い布団をめくり起きだした。
本当に軽くてフワフワで、気持ちの良い布団だ。
この布団に使われている綿花や木綿の布はフィサリス辺境伯爵領の特産品だそうだ。
綿花と言っても、綿の花の事ではない。種子を包む、白い綿毛の事を指すのだ。
フィサリス辺境伯の領地は、南の大陸ロードカイオスに隣接しており、水捌けの良い乾いた土地だ。
土の質や傾向が綿花の栽培に特に適していたそうで、そこで栽培されて木綿に加工された布は高品質で、絹よりも価値があると言われ、大変に高価である。
綿花は、湿度の多いジメジメした土地では、カビが生えて開かずに駄目になってしまうそうだ。
私の寝具は、そんな絹よりも価値のあると言われているフィサリス産の木綿の布と綿を使った布団とシーツなのだ。
この白いシーツなんか、細かい花や鳥や蔦の刺繍模様が布と同色の白で、これでもかと刺してある。なんという贅沢な品だろうか・・
中の真綿も全てフィサリス領地の物が使われているそうだ。フッカフカである。
フィサリス辺境伯領で育てられている綿の種類は主に二種類あって、繊維の短い物と、長い物に分けられる。
短い物は弾力性に優れ、綿そのものを使う。そして繊維の長い方は、絹よりも価値があると言われる木綿の布地になるのだ。
私が、家族と住んでいた家で着ていた生成りの綿のワンピースや、使っていた布団などとは雲泥の差と言う奴だ。
その着心地は大変悪く、ガサガサしていて時々チクチクもした。不純物が取り除かれずに加工された粗悪品である。
綿の加工の際の技術や手のかけ方すら、庶民と貴族ではこうも違うのだろうか。
私の使っていた物は、下級貴族の犬の敷物にも劣る品質だったと思われた。
兄や妹の着ている服は、私の物より大分品質が良さそうだったけど、母は汚れても気にならない様な洋服を選んでいたのだろう。物は言いようと言うしね。
ここで貴族と庶民の生活の差を綿の品質で例えるならば、庶民で言う所の最高級品の木綿は、貴族の使う木綿の中級の下、いや、下級の上位に当たると思われる。
それ程の差はあった。
だけど、庶民がフィサリス辺境伯領の最高級の綿花を使った布団で眠る様な事は、まず起こる事がないので、知る必要の無い知識なのだろう。
ふと、ベッド脇の小さな傍机に目が行く。
そこには美しい色ガラスで出来た小さなキャンディーポッドのような入れ物が置いてある。
蓋を取ると、この中には爽やかな香草の香の、緑色がかったクリーム状の塗り薬が入っていた。
夜寝る前にシルクが、この塗り薬を手足に塗りに来ると言うので、自分が必ず寝る前に塗るので大丈夫だと断ったので、毎日ちゃんと塗っているのだ。
べた付かず、サラリとしていて、塗ると直ぐに肌に馴染んで浸透していくようだ。これのおかげで、私の荒れた手足は、子供らしい肌の艶を取り戻した。
あれだけ荒れてガサガサだった皮膚は水分を含み、今では柔らかくしっとりとしている。
暫く、ぼーっとそれを見ていたらしい、ノックの音で我に返った。
「はい、どうぞ」
「お嬢様、おはようございます」
「おはよう、シルク」
いつもの様に、軽やかな動きでシルクが足音もなく入って来た。
押されたワゴンの立てる音しかしない。
「温かいミルクをお持ちしました。お嬢様のお好きな隈取蜂のハチミツ入りですよ」
「わあ、ありがとう」
隈取蜂のハチミツが入ったミルクはほんのりと甘くとても美味しいので大好きなのだ。
どうしてわかるのか不思議だけど、私が朝早く起きた時など、すぐにこうしてシルクが温かい飲み物を持ってきてくれるのだ。ちょこっと脇に厚焼きビスケットが添えてあるのが嬉しい。サックサクだ。
朝から甘味を頂けるなんて、物凄い贅沢だなあと思う。
「お嬢様、旦那様が朝の散歩にお誘いですが、行かれますか?」
それから、ザクが朝の散歩に誘ってくれる。
「うん、散歩に行きたい」
「すぐにお着替えの用意をしてまいりますので、飲み物を飲んでお待ちください」
「うん、わかった」
そうして、いつもの様に、ザクと一緒に朝の散歩に行くのだ。
手を引かれ果樹園に行って珍しい甘い果物を採ったり、ザクの不思議な魔法で、いろんな所に連れて行ってくれる。
朝採った果物は、デザートやその日の焼き菓子にして出される事も多かった。
そうして、私はこの紫苑城に少しずつ馴染んで行った。
どうしてこんなに、ここの皆は私に優しいのだろうか?そんな風に戸惑う事は多かったけど、優しい時間を沢山もらった。
いつだったか、ザクと離れのソファーの所で、魔力循環の練習をしている時の話だ。
いつもの様に丁寧に私の指を確認していたザクは、私の手にもう傷が無い事を確認した後、何も言わなかったけど、その口元がうっすら微笑んでるのに気付いた。
それで・・私はとても心が温かくなった。
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