33. 奇怪(おか)しの家


――かり、かり、かり。

 暗くうつろな家のなかに、木をかじる音が響きます。


 いたむ膝をきしませて、うずく腰をかばいながら、かまどを離れ、隅の柱に近づきます。

 夜闇に満ちた部屋の隅、蝋燭の一本もなければ、ろくに見えすらしないでしょう。

 おまけに私のこの目ときたら、歳をかさねるそのたびに、どんどん暗くくもっていって、今では一エルレの先すらも捉えきれない有り様なのです。

 それでも長く暮らしたこの一軒家、今ではこの目で確かめずとも、大体のことは分かります。

 ましてや木をむこの音は、いちど鳴り出すと、妙に私の気をひきつけてしまうのです。


――暗い夜道にひかる白い石のように。


 暗闇にむけて指を伸ばすと、ほら捕れました。鶏の小骨にようく似た、白い小さなかじり虫――この地方では“ハンス坊ヘンゼル”と呼ぶ虫でした。

 右手に虫をつまんだまま、左の手で柱に触れます。

 柱の表面おもては、いたるところ穴だらけ。まるでパンブロートの切り口のように。

 この家に現れるようになってから、このヴルムらはずいぶんこの家の柱や屋根をかじったはずです。

 なのにいっこう太りもしない。食べても食べても小骨のようにやせっぽち。


――森に捨てた、あの子のように。


 かまどのそばへよろよろ戻り、燃える火のなかに、やせたヴルムを投げ込みました。

 椅子に座って息をつきます。



――あの年は、ひどく荒れた年だった。

 麦はせ、キャベツはとれず、そのくせ木材は値下がりして、もとから貧しい木こりの一家はなすすべもなく餓え果てた。

 家のなかは空腹と絶望とで満ち満ちて、その中を、力も意気も失った夫、せた体でがつがつ食べる二人の子、そしてきりきりきしむ腹から怒りの炎をのぼらせるようになった私がいた。



――かつ、かつ、かつ。

 屋根の上から音がします。


 叩くのではない、ついばむ音、つまもうとする音。

 板葺いたぶき屋根をパンケーキプファンクーヘンだとでも思っているのでしょうか。

 見ずともわかる。屋根のうえには白い鳥。

 暗い森のなか、まれにその白い姿を輝かせると言い伝えられる珍しい鳥。

グレーテ嬢やグレーテル”と呼びならわされるその鳥は、夜の鳥ではないそうですが、時おり屋根に現れて、かつかつ屋根をついばむのです。

 こんな暗く、さびしい晩に。

 家に入れて欲しいのでしょうか。それとも家をうちこぼとうとしているのでしょうか。

 あるいは呪っているのかも。わが子を捨てた非情な母を。



――子供たちを捨てた翌年は、打って変わって実り豊かな年だった。

 麦畑は黄金で満ち、かぶはみるみるうちに太った。キャベツの葉っぱも青々としげり、秋には林檎りんご人参にんじんも真っ赤にれてくわわった。


――この半分、その半分、そのまた半分だけでもよかった。

――前の年に実っていてくれたらなあ。


 つぶやく夫は、ひまさえあれば暗い森へとわけ入った。

 捨てた二人の子供をさがして、それでも影すら見つからなかった。

 

――森に迷った子供たちは、悪い魔女に食べられる。


 村の古い言い伝え。子を捨てた親はそれを信じる。私も信じようとした。

 夫はそれをあきらめなかった。

 新たな子供は授からず、それがますます夫を森へとり立て。

 そしてあの冬、ついに歩けなくなった夫は、正気にてか狂気にてか、森の暗がりよりもさらにくらい道へと歩み去った。

 このかまどの火に身を投げて。



――かり、かり、かり。

――かつ、かつ、かつ。

 音はかわらず響きます。だんだん大きくなってきます。耳をかじり、胸をつつき、ついには私をまるごとあぶりはじめるのです。

 この暗い家の中が、まるごとかまどになったよう。


 子供を食べた悪い魔女。子供たちを捨てて幾ばくかの食糧を浮かし、それを喰らったおぞましい魔女。

 悪い魔女は火刑になるのが定めです。ならば私は。この身を焼くような恐ろしい音は、巨大なかまどは。


――かり、かり、かり。

――かつ、かつ、かつ。

 見えない煙と幻の火にあえぐように身もだえし、家の外へと逃げようとしました。

 戸を開ける。


 月の光に照らされて、くらい森へと通じる道に、小さな二つの人影が。

 あの日のままの、二人の影が、黒く、黒く、立っていました。


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