30. 紐


―― 夜中に目をまされたときは、決してお目を開かないでくたさい。

―― 万が一、お目を開かれたときも、決して天井をご覧にならないでください。


 宿泊客に、こんな得体の知れぬ注文をつける宿など、やめておくのが最善だった。



 真っ暗な、年季のはいった畳部屋のなか、気がつくと目が覚めていた。開いていた。

 当然ながら、宿からの注意など思い出すような間もなくて。

 目の先には暗く染まった板張り天井。

 中央には、黙りこくった室内灯。

 そのさらに真ん中から、スイッチひもでもあるかのように、ひとすじの糸がぶらさがっている。


 けれどスイッチ紐ではない。室内灯の中心にあるスイッチなど見たことがない。

 何よりも、こんなに赤い、血のように赤い悪趣味なスイッチ紐など、得体の知れぬ宿とはいっても客室につけるはずがない。

 夜闇のなかに、天井からさがる紐は赤い筋を毒々しくもまっすぐに引いて

 その先には、一人の男がぶら下がっている。


 男といっても、高くもない天井から下がった紐、その先に、釣り餌のようにぶら下がっているのだから、小さなものだ。

 三センチほどの蜘蛛を思わせた。

 蜘蛛なら尻から糸を出すが、この男は ―― 親指ほどにも足りないのに、なぜか細部までありありと見えるこの男は ―― くびに紐を巻き付けていた。

 そう、首吊りの格好だ。


 赤い紐は幾重いくえにも男の頸に巻き付いて、そしてそこから飛び出たはしは、その男の、口の中へと伸びている。

 歪んで引きつる口の中へ。

 邪悪なみをありあり浮かべたその口から、闇の中にどくりとはしる赤い筋が、部屋そのものに禍事まがごとをかける呪詛じゅそに見えて。


 ね起きて、逃げ出そうとした時には、体全体が縛られたように動かないのに気がついた。

 動かない身に迫るように、男の邪悪な笑い顔はますます大きく見えてきて。

 視界のすべてが禍々まがまがしい顔に埋まる前に、赤い紐を、力のかぎり噛み切った。

 私の口から伸びていた紐を。


 ぷつん。

 電灯の消えるかのように、すべてが闇にけ去った。



 朝になった。明るくなって、昼ごろまでには客室には警官や鑑識かんしき官がつめかけてきた。

 どうやら私は、部屋の長押なげしに紐をかけて、首を吊ったと、そういうことになっているようだ。

 抗議しようにも、いまや私は警官にも、旅館の者にも、誰の目にもうつらぬまま、こうしてもう何年も、天井からぶら下がっている。

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