28. 春が来る


「春はお空からやってくるのよ」


 病に倒れた妹は、ずっとそうつぶやいていた。

 町でひとつの病院は古く、灰色の病室はいやにじめついて寒かった。

 兄も姉も、父も母も、看病にんで、もはや訪れることさえなく、

 経営がかたむき、看護士の頭数あたまかずどころか、質もりないこの有様では、妹の身と心の世話はすべて私がやっていた。

 だから、妹を厚着にさせて車椅子に乗せ、屋上まで連れ出しても、見とがめる人など誰もいない。


 せまく暗く、ゆれるエレベーターに乗って着いた屋上は、どす黒く汚れ、あちこちびて、だだっ広いだけで人の気配など残りさえも感じられない。

 かつてはレクリエーションの一環として、園芸の真似事まねごとなども行われていたようだけれど、

 いまやその残りかすは、白いペンキの剥げて錆びたフェンスの足元、

 枯れ草と泥土とでぐしゃぐしゃに汚れたプランターの群れと、

 もはや形さえ崩れかけた花壇もどきの残骸だけで。




 それでも、


「春はお空からやってくるのよ」


 荒れはてた屋上よりも陰気に曇った空を見あげて、妹はそう、嬉しそうにつぶやいた。

 その眼差しに応えようとするかのように、不意に、鉛のような雲が割れ、

 そこから差しこんできた光は、春先の白い日の光ではなく、

 割れ目にのぞいた空の色は、冷えた蒼色そうしょくと似ても似つかず、


 赤に紫、瑠璃るりに銀色、黄金こがね色。

 網膜からそのまま脳髄にまでし寄せてくる、そんな極彩色ごくさいしきにまみれた見るも巨大な芋蟲が、そのまま空をぬめぬめと裂いて、この灰色の下界めがけて、瀑布ばくふのように雪崩なだれてきたのだ。


 車椅子を必死に回して、屋内へ逃げ込もうとしたけれど、ひどく軽かったはずの椅子は、固く冷えたコンクリートに根でも張ったように動かず。

 いや、本当に根づいていたのだ。あれほど細かった妹の足は、巨木の根のようにふくれあがって、

 私の見る前でごりごりと育ち、枯れ枝のように色さえ抜けた両の腕が、芽吹めぶきでもするかのようにはじけて


 ――春はお空からやってくるのよ


 妹が空へと伸ばした指先が触れたとたん、極彩色の奔流ほんりゅうは、すべてを吹っ飛ばしてぜた。




 世界をはじきとばしたような衝撃に、私の意識などすっかり消し飛んで。


 ようやく覚ました目のその先には、露草色にんだ空が一面にかがやいていて。

 花壇の残骸も、プランターの亡骸なきがらの群れも、錆びたフェンスも、黒くけがれたコンクリートの茫漠さえも、

 土から、プラスチックから、腐った石や金属から、根と葉と茎をほとばしらせて、色とりどりの花の饗宴に覆われていた。


 視線を回したその先には、車椅子が鎮座していて。

 妹はいまや、万色の渦の中心のような巨大な花の塔と化して、春の光に咲き誇っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る