24. 谿

 巌鞍いわくら山地の北っ側。

 大葛谿おおくずらだにの南の崖。


 切り立つ岩の途中から、黒いガジャの樹が伸びている。

 根元にちいさな、ほんのちいさな岩棚があり、

 その岩棚に、鬼が一匹すんでいた。




 邪悪の権化というでもなく、

 山の神の落ちぶれというでもなく、

 地獄から迷い出たというでもなく、

 まつろわぬ民の成れの果てというでもなく、


 ただ角のある鬼のすがたで、日がな岩棚に腰かけていた。


 人を襲ってらうでもなく、

 人に迫害されるでもなく、

 人にわざわいをふりくでもなく、

 人にがれるわけでもなく、

 そも、その姿が人目に触れたことすらなかった。


 言葉も発せず、脚を動かすこともせず、ただ崖のなかに座っていた。




 どれほど時がったのか。

 ガジャの大樹は年輪とともに太さを増し、岩棚を崩さんばかりにふくれあがった。

 それでも鬼は座っていた。

 尻ひとつぶん、ようやく残った岩のへり、腰を落ち着け、背をガジャの幹に触れさせながら、そのままじっと座っていた。


 その目の先にはやはり崖、大葛谿のむこう側に立つ岩の壁。

 黒く、険しく、黙りこくって切りたつ崖を、鬼も黙って眺めていた。


 一度だけ、あちら側の崖の、人影がちらりと見えたことがある。

 ヘルメットを付け、作業着をきた男の姿がのぞいて消えたことがある。


 ただ一度だけ、それっきり、測量作業の道に迷って大葛谿に近づいたような人影は二度と見えることはなく、

 鬼もまた、姿を見られることはなかった。

 黒くおおきく崖からそびえるガジャの樹は、もしかして、作業員の目をちらりとかすめたかも知れないが、

 根元に座る鬼の姿は人目に触れずじまいに終わった。


 山地の北をとおる車道も、谿たにから離れてひらかれて、

 谿はどこか、また一層と沈黙にしずみ、

 鬼もまた、身じろぎすらせず座っていた。




 それからまた、長い月日が過ぎ去った。




 そんな長い月日の果てに、ある冬の晩、不意にガジャの幹が裂け、

 黒く太ったおおきな幹が、老いて崩れたはらわたをこぼし、ついには腰から上をまるごと谿底ふかくへ投げ出して、

 それでもやはり、それを目にする人はなく、

 ただ一人、ガジャの根元で見届けた鬼も、身動きひとつしないまま、ただただ変わらず座っていた。




 さらにまた、永い年月が過ぎ去って。



 岩棚をしがみ続けるガジャの根が、黒く崩れてしぼんでも、鬼は動かず座っていた。




 そして、そんなある夏の晩。

 U県全土に大雨洪水警報と、雷注意報が出され、空がたけったあの晩のこと。


 夜になり、さらに暗くなる天は、滂沱ぼうだの雨ととどろく怒号を吐き続け、

 大葛谿も嵐が狂い、きつける雨は滝となって崖をくだり、

 ガジャの根が息絶えたように横たわっている岩棚のふち

 鬼はやはり座っていた。


 雨に殴られ風に蹴られ、雷鳴の声に打たれながら、それでもやはり身じろぎもせず座っていた。


 暗雲を着た夜闇がいっそう濃くなりまさり、嵐はさらに猛り狂い、紫電はひときわ大叫びしたその時に。




 鬼が、えた。




 ほとばしらんとす雷は、雲のなかで身をすくめた。

 暴れ叫んでいた嵐は、その場に手足を凍らせた。

 黒くいかめしく、この一面を支配していた暗い天さえ、一瞬、たじろいだかに見えた。


 鬼の咆哮は、大葛谿に響きわたった。

 岩という岩、崖という崖、それらすべての堅いおもてをゆるがして、

 そこからさらにこだまとなって、十重とえ二十重はたえに谿を渡った。


 谿のすべてがえていた。

 すべての巌がたけっていた。


 数百年の沈黙をいまこそ破り、暗い嵐をはじき飛ばしてぬり潰し、

 輝くばかりの咆哮が、谿のすべてをぜ尽くした。




 嵐が止んで夜が明けた。

 雷雲は去り、朱鷺とき色をしたあけぼのが、東の空から谿を照らした。


 谿を引き裂いたあれほどの鬼の咆哮も、よすがも残っていなかった。

 岩棚には、むくろのようなガジャの根がただ横たわっているだけで、鬼の姿はぬぐったように消え去って。




 鬼の座っていた場所に、一輪の花が咲いていた。




 しずかに冴えた紅い花は、黄金の光を浴びながら、明けゆく空に応えるように、ただその面を上げていた。

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