22. 冬の海

 体もこころもこごえさせる、正月明けの夜明けの空は、憎々しいほど澄みわたっている。

 瑠璃るり色の空のうえには雲ひとつない。あそこにはきっと、硝子がらすよりも透明な凍りつく風が吹き荒れている。

 そんな風の声だろうか。そう聞きまごう咆哮が、夜明けの空と、暗い海とを切り裂いた。


 夜明けの空気に目をこらす。

 あおぐろい海を、大きな影がうねってゆくのが見て取れた。


 魚ではなく、鯨でもない。

 七尺はある巨大な鹿が、冬の白波を浴びながら、沖へむかって泳いでいる。

 牛より太いその吠え声は、間違いない、この一帯で「山の主」、猟師マタギたちは「ふたがし」と呼ぶ大鹿だ。ここから見てさえ巨大な角は、たしかに二本の樫の枝にも思えるほどだ。

 巨影のあとを追うように、別の巨影が波をくぐる。

 青い夜明けの光のなかでもかすかに赤く見える影は、峠むこうの山に棲むという「赤大将あかだいしょう」と呼ばれる大熊なのではないだろうか。

 獣たちは、寒風に吠え、荒波の中をわたってゆく。

 牛ほどもある大猪、「ふたがし」に負けず劣らずの大鹿たち、赤子くらいは一呑みにできそうなほどの巨狼の群れ……。


 獣たちの大群は、冬の海をわたってゆく。

 その先には、蒼くけぶるもやのなか、うっすらとした影がある。

 大三郎島。海峡むこうの離れ島。わたしの故郷。

 もう何年も帰っていない。帰る見込みもありはしない。

 寒い潮風に打ちのめされた、岩と枯れ野におおわれた、それでもしつこく、わたしの胸を離さぬ故郷。

 不意に、胸に痛みが走る。その奥から、鉄の臭いとなまぐさい味があふれかえってほとばしる。

 大量に血を吐いたせいか、目がかすむ。なのに海のむこうの島は、ますますはっきり浮かび上がる。

 海峡をわたる獣たちの後を追って、わたしは海へと下りていった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る