12. 稚児

 古稀こきを前にして急死した祖父は、町では「天狗爺てんぐじじ」と呼ばれていた。


 父を養子にむかえた直後に妻と離縁したことが原因となって、山伏やまぶし修行にのめりこみ、生活もおろそかにするほどに没頭したあげくに験力けんりきを体得したのだという。

 もっとも町のうわさは、魔境にちたのだとか、本物の天狗よりほうを授かったのだ、というほうが一般的であった。

 西洋人よりも長く尖った鼻、鋭さでは鼻に負けず劣らずの凶眼、その上にいかめしくしげった白眉はくびは、まさに天狗の風貌そのものであった。

 天狗とは御伽おとぎ絵本えほんに語られるような牧歌的なものでは本来なく、古くは人をまどわし仏道に背かせる悪魔ディアボロス的なものを指したという。

 思い返せば、黒羽織くろばおり外套マントのごとくにはためかせて町の上空を飛行する祖父の姿は、確かに西洋悪魔を彷彿ほうふつとさせるものだった。

 さらに術を用いて人家に侵入しては、面白半分のように物を盗みだし、嫌がらせのようなじゅを残してゆくとあっては、これは完全に悪魔とまれても仕方のない話ではあろう。

 祖父を大っぴらにののしったり、これを成敗せいばいしようとくわだてた者は、ひときわひどわざわいを受けるのだった。母と幼い私とを連れて祖父の家を出た父が、さらに遠くの街へとのがれる算段をしているうちに、狂って焼身自殺をげたように。

 この災厄をうれいていた町の人士も、対策のことごとくが敗れ、ただ祖父の復讐ばかりを招くことに疲弊しきり、しぼりきられた脳髄に最後にいたのが、かの「久米くめの仙人」の伝説であった。

 つまりは、女性の艶態えんたいを目にすることによって祖父の精神がくじかれ、通力つうりきを失う可能性にけようというのである。


 春もたけなわの頃であった。

 祖父がよく上空を飛行する町の公園。そこに白昼堂々、何人もの淫売婦いんばいふが集められた。市長の裁可と市の予算とを得てこれが実施され、周囲には警官隊が配備されたというからあきれたものである。無論、かくのごとき惨状を起こさしめた祖父の悪行三昧ざんまいに対してあきれるのである。

 桜の舞うなか、莫大ばくだいな謝礼を提示された淫売婦たちは思いつく限りの痴態ちたいを演じ。

 祖父の襲来を恐れる町の者ら、ことに女は家からさえ出ず。

 ただ情欲にすぐれる男たちのみが作戦の詳細を見守らんと公園へと押し寄せ、警官隊に制止される。

 なんとも異様な光景であったと聞いている。

 聞いている、というのは、私はその場に居合わせなかったからである。


 早熟な同級生どもが公園へとはしるのを尻目に、中学はじめての授業を終えた私は家路を急いでいた。

 学校のかわやは古く、不潔はなはだしかった。何とか自宅の厠で用をたそうと、痛む下腹を抱えながら帰路を走っていたのだが、数ちょうとゆかぬ内に、はらわた千切ちぎれんばかりに痛み、尻の穴は決壊間近まぢかの脈動を見せていた。

 ついに観念した私は、人気ひとけのない小路にしゃがみ込むと、制服洋袴ずぼんふんどしとを下ろしたのだった。

 首筋にふと、ただならぬ気配を感じたのは、尻を露出したのと同時のことであった。

 背後に首を向けると、祖父が黒羽織くろばおりをはためかせ、空中を飛行しているところだった。

 否、正確に言うなら、私のほうを真直まっすぐして飛んでくるのだった。

 その両眼は普段にも増して爛々らんらんと燃え、顔面は常ならぬ熱気に紅潮していた。

 しかし何より異様だったのはその高い鼻であった。もはや赤黒いまでに鬱血うっけつした鼻は、平素の二倍に達するまでに勃起し、まさに天狗の鼻のごとくに猛々しく屹立きつりつしていた。

 切なげなほどに、びくん、びくん、と脈動しつつ突進する鼻は、その切っ先を突き出してきていた。むき出しとなった私の尻を、貫通せんとばかりに。

 羞恥。

 恐怖。

 そして、祖父の目と顔そして鼻にまぎれもない欲情を読み取ったことによる、更にまた倍加した恐怖。

 狼狽ろうばいのあまりに忘我ぼうがした私の肛門もまた、たがが外れたがごとくに弾けたのだった。

 黄色い泥のような軟便と瓦斯ガスとが、盛大に破裂した。

 酸と腐敗の臭気をはなつ飛沫しぶきが、祖父の見開かれた目、半開きののど、そして怒張しきった鼻を蹂躙じゅうりんした。

 化鳥けちょうの断末魔を思わせる絶叫が響いた。

 高速で飛行してきた祖父は態勢を崩し、きりのように回転しながら私のかたわらをかすめ、路地の石塀へと激突した。

 地面にへばり落ちた祖父の身体は、糸の切れた操り人形のごとくだった。とりわけ、糞便まみれとなった首は、明らかにあらぬ方向へとへし曲がっていた。

 それが祖父の最期さいごだった。


 あれから数十年が経ち、私もまた祖父となった。

 ことし十を数える初孫ういまごは私によくなついてくれるが、そのあどけない笑顔や後ろ姿を見るたびに、むずむずと充血し膨張してくるこの鼻に悩んでいる。

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