日傘を差した女
僕の左横には、女がいた。
いつからそこに立っていたのか、日傘を差しては顔は見えなく、白いスカートの裾を風にそよがせている。
僕は久し振りに、馴染みの街を訪れていた。
当時から懐かしいと感じていたが、今やそれに輪を掛けて懐かしいと感じる。海の見える、坂の多い街だった。
何故不意にこの街を訪れたのかと云うと、いやはや、家でつい古めかしいフィルム式のカメラを見付け、さて写真でも撮ろうかと思い立った為だ。
フィルム式と言っても、一眼レフカメラのような大それたものではない、デジタル式のカメラが普及する前の家庭用のコンパクトカメラである。
直ぐに撮った画面を見られるカメラも便利と思うが、少々まどろっこしいものを使ってみるのも楽しいかと、そう考えたや否や、この街に来ていた。
ようよう海を車窓に眺めては駅に着き、構内のファストフードで軽く昼食を済ませて駅前に出た時だった。
この時点で既に二、三度はシャッターを切り、出来の楽しみであった所である。
バスのロータリーを横目に、信号の変わるのを数度繰り返し見留め、片道三車線の道路の向こうに見える海の写真を求めて一度シャッターを切る。
夏のうだる暑さに混じる、寒いとも暑苦しいとも取れない裏の山の蝉の声を聴き、額の汗をぬぐいながらボヤッと人の往来を眺めていた。
すると、左に人の気配を感じた。
駅の出入り口には、昔開拓の時代に使われていた鐘が飾られている。
かつてどんな響きを人々に届けたであろうかそれと、僕のちょうど間くらいの位置だろうか。
僕の左横には、女がいた。
いつからそこに立っていたのか、日傘を差しては顔は見えなく、白いスカートの裾を風にそよがせている。
口元の造りは微かに大人の女のようであるが、唇はまるで少女のようにあどけなくもあった。
この女は待っているのだろう、と思った。
誰を待っているのだろうか知らないが、その待ち人はきっともう来ないのだろうという事もわかった。
しばらくそうしていただろうか、女を観察し、観察と言えば聞こえは悪いが、人からしてみればそうだったろう。
五分と経った頃に僕はその女に話掛けてみる事にした。
軽薄な行動かとも取れなくは無いが、謂れの無い事にこの女に限ってそれは無いだろうと思った。
「待ち合わせでしょうか」
そうと確信してはいたがそう尋ねた。
「ええ」
女は答えた。夏のせいか、まるで風鈴の音ような声に感じた。
「来ませんか」
僕は来ない事も知っている。
「ええ、もう、来ないんです」
目の前のタクシー乗り場の、車のドアが閉まる音が響いた。
女は、もう来ないと言った。来ないとなれば、待ち人は、死人だろうか。
「そうでしたか」
「ええ」
僕は続けた。
「僕は誰を撮るとも知れず、街の写真を撮りに来たのですが、いささか味気ないと思っていたところです」
女の表情は、日傘に隠れて伺えない。
「ちょうど日傘を差した女性でも、画面の隅に写らないかと考えていたのですが、どうでしょう」
「そうなのですか、私もちょうど、待ち人が来ないところです」
日傘を差して顔の見えぬ女などちょうど良いと、それは本心から考えていた。
風景だけではどうしても締まりに欠ける時もあるが、かと言って人が写ると顔や感情が写ってしまう事に違和感があった。
そこで、あたかも自然に顔の隠れる女が居たとなれば、それは正に僕が今必要としている被写体である。
「では、先ずは旧路線の辺りにでも行こうかと考えていましたが如何でしょう」
女は前を見たまま答える。
「行きましょうか」
「良いのですか?本当に来ないのでしょうか」
そう答えるのはわかり切っていたが、女は、待ち人はもう来ないと答えた。
それが漸く駅前を後にした経緯である。
僕はそれほど背の高いわけではないが、女との身長の差だろうか、それとも、女が一切顔は見せる気が無いのか旧路線の方へ行くまでやはり、決して見える事は無かった。
旧路線と言っても古ぼけた線路が地面に敷かれ、周りには草の生い茂った公園のような場所である。
僕は女を少し先に歩かせ、屈んでは敷かれた枕木に沿わせるようにシャッターを切った。
疾くに写真の上手いわけでは無いが、女を置く事によって心無しか絵面は締まった気がした。何にせよ現像してみるまでわからないのが面白い所ではあるのだが。
其の儘歩かせて写しても面白かったが、僕の指示した場所に立たせたりなどし、幾枚か分のシャッターを切ってその場は跡にした。
移動をする間、女とは少しばかり言葉は交わしたが、中身のある話題では無かった。よく馴れた女と歩く時のような感じだろうか、はたまた別れる直前か最中の恋人同士であろうか、そのような距離感が例えるならば近かった。
色々な場所へ行った。
僕の好きな観光街の煉瓦の街並みを写し、何時から在るのか知れぬ水汲みの古めかしいポンプの写真の隅に女を写した。
街中に不自然に小高く取り残されたような小山の上の神社で、海を背景に吸い込まれそうな急階段の前で写真を撮った。
余談であるが、街合いの住宅地は、昔かつて山だった所を人手を以って削り、更地に仕立て上げたのだと誰かが言っていた。
ここはその削り残しだろう。鳥居の向きが変なのも、参道が二向きにあるのもそんな街の歴史を伺い知る事に一役買っていた。
昔訪れた祭りの頃の賑わっていた境内も、今は僕と女の二人しか居らず、記憶と現在のコントラストがやけに物寂しかった。
「次が最後です」
先ほどまでは昼下がりだった筈の街並みは少々赤みに暮れかけ、宵の先触れが先ずは冷えた温度になって僕の肌を撫でた頃だった。
「最後なんですね」
無表情な声で女は返す。風鈴のような声は少し肌寒かった。
最後に向かうべくは運河の方向であった。
今日は天気も良かった事であるし、最後は運河の写真でも撮ろうというのは最初に決めていた事だ。
僕たちはまた、殆ど喋らずに運河の方へと向かった。
道中考えていた。
僕はこの女を知っている。しかし、この女はどうだろうか。一体誰を待っていたのだろうか。
もう会えないと言っていたが、きっとずっと待っていたものを放り出すくらいなのだから、余程来ないと判り切っていたのだろう。
横に幾ら目を遣っても顔は見えない。
意味の無い事だと悟り、考えるのを止めた。
運河は人通りもまばらに、幸いにも余計なものは入り込む余地が無く絶好であった。
フィルムは残り一枚だと、古めかしい電卓のような表示が1の数字を示している。
そんなに撮っただろうか、きっと少なからず、夢中になっていたのだろう。
「さて」
と僕が呟くと、頼んでもいないのに女は夕焼けを背にし、生真面目に僕の方に向き直った。
カメラを構え、少し女をファインダーの端に寄せ、素人なりには見良い構図を工夫する。
いよいよシャッターを切ろうとすると、何故だか上手く切れずに少し間が空いてしまった。
ファインダーから一度目を離し、女を見るとやはり日傘に隠れて顔は見えないが、少々名残を惜しんでいるようにも見えた。
「撮るよ」
と、自分に言い聞かせるように呟いて、指に力を込めた時、風が吹いた。
目に砂が入る。
チャキッ…と遅れてシャッターの切れる音が聞こえた。
強風か、穏やかな夏の夕暮れには決して似合わぬ一陣の風が抜ける。
不本意に涙の滲んだ目をこすり、顔を上げた頃には女は居なかった。
後日、現像から上がった写真を眺めていた。
駅前、旧路線、観光街、神社。女のいる写真もあれば、居ない写真もあった。
何れも僕が撮った記憶にある写真だ。仕様も無い写真であるものだと思いつつも撮った写真は須くそうであったし、自信のあった神社の写真などは、迚も良い写真であるという自負が得られた。
一枚だけ、最後の写真だけは僕が意図をしていない出来の写真があった。
最後に写した運河の写真である。
シャッターの切れる瞬間に不意に目を閉じたあの時、女の傘は風に煽られ、まるで驚きと微かに嬉しそうにも見える表情と、そして今にも泣き出しそうな目元が映し出されていた。
僕は被写体として、日傘を差した女を写したかっただけである。
女は待ち人に会えたのだろうか。
その写真は灰皿の上で焼いて、灰に変えて捨てた。
女の話 @sapporo_taro
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