第3話 白い花(後編)


 ふつうの娘なら、一角にこんなふうに迫られたら、抵抗しようがなかった。一角の息吹にかかり、肌と肌をふれあわせれば、魔法にかかったように甘美な心地になる。誰でもすみやかに大切な宝物をさしだしてくれる。


 ソルティレージュはたいへんな美青年だし、こばまれたことなど一度たりとなかった。


 それなのに、頰を上気させて、ガーディニアは身内から湧きあがるものを抑えるように悶えながらも、手ひどくソルティレージュの頰をひっぱたいた。


「ダメよ! わたしにはマジノワールがいるわ。わたしの愛しい人はマジノワールだけ。あの人以外には指一本ふれさせない」


 娘のけなげなようすに打たれて、ソルティレージュは目が覚めた。自分がとても恥ずべきことをしたのだと気づいて、できるものなら、このまま地獄の果てまで逃げだしたかった。


 そうしなかったのは、これ以上、ガーディニアに軽蔑されていることが耐えられなかったからだ。こんな純真な娘に愚劣な男と思われているだなんて、一角には死よりも恥ずかしいことだ。


「悪かった。私は君が兄の花嫁にふさわしいかどうか、試しにきたんだ。私の誘いに乗ってくるようじゃ、兄がかわいそうだからね。だが、君なら申しぶんない。兄にふさわしい、世界で一番の花嫁だ」


 ガーディニアは勘違いだったと思いこみ、くちなしのような白いおもてを赤く染めた。


「ごめんなさい。わたし、恥ずかしいわ。でも、誤解だとわかって、よかった」


 恥ずかしいのはこっちだ。

 ソルティレージュは兄にあわせる顔がないので、その日はそのまま自宅へ帰った。


 だが、これでガーディニアが気高い魂の持ちぬしだとわかった。これからは兄とガーディニアが幸せに暮らせるよう、自分のありったけの思いで祝福することを、ソルティレージュは心に誓った。


 あとはマジノワールがガーディニアの肌の誘惑に打ち勝てるかどうかだが、兄の決心も固かった。


 ある日、訪ねてきた兄が言った。


「ガーディニアを正式な妻にしようと思う」

「ああ。あの娘はいい。だが、兄さんはあの娘が死ぬまで、一生、本能を抑えることができるのかい? それは苦しい毎日だぞ」

「覚悟の上だ。私が苦しむぶんは耐える。こんなに一人の娘を愛しいと思うことは、もう二度とないだろうから」

「じゃあもう反対しない。祝福するよ。兄さん。ガーディニアを幸せにしてやってくれ」


 もしかしたら、マジノワールは、ソルティレージュの気持ちに気づいていたのかもしれない。兄の愛する花嫁に、彼も恋してしまったのだと。その上で二人の幸福を心から願っているのだと。


「ありがとう。この世でもっとも幸せな花嫁にする」


 それから数日後に、マジノワールとガーディニアはめでたく結婚した。

 式に呼ばれたソルティレージュは、二人の愛が永遠に続きますようにと、祝福の呪文を贈った。


 そのあと、ソルティレージュは失恋の痛手をいやすために旅に出た。行くさきざきの街や村で、愛くるしい娘たちを百人斬りにしていった。


 ソルティレージュが乱痴気騒ぎを続けているあいだ、マジノワールとガーディニアは平穏な日々を送っていた。

 ただ、いつまでも自分を乙女のまま置いておく夫に、ガーディニアはだんだん不安を募らせていった。一年がすぎても優しいだけの夫に、ついに耐えきれなくなって、ある日、涙ながらに訴えた。


「マジノワール。ほんとのことを言って。あなたはわたしを愛しているの? わたしが思うほどには、愛しく思っていないんじゃないの?」

「なぜ、そんなことを考えたのだ? 私はあなたが世界中の誰よりも愛しい」

「じゃあ、どうして、わたしを妻にしてくれないの? わたしにさわるのも嫌なの?」

「……それは、あなたの思い違いだ」


 マジノワールがどんなになだめても、ガーディニアは泣きやまなかった。マジノワールはそれ以上、花嫁を騙していることができなかった。彼は真実を打ち明けた。


「ガーディニア。おぼえているだろうか? あなたは以前、この森のなかで、黒い馬を助けたことがあったろう? 足に怪我をして動けなくなっていたが、あなたが手厚く看護して治してくれたのだ」

「おぼえているわ。とても立派な黒馬で、きっとどこかのお城から逃げてきたんだと思ったわ」


 マジノワールは嘆息した。

 これを言えば、自分は愛しい人に嫌われることを確信して。


「じつは、その馬は私だ。私の本性は一角の獣。悪魔なんだよ」


 もちろん、ガーディニアは驚愕に打ちのめされた。

 目をみひらいている少女の前に、マジノワールは自分の真の姿をさらした。金色の角のある黒い馬。瑠璃のような瞳の……。


「すまない。私を嫌いになったなら、あなたを両親の家に帰そう。おわびの宝物も好きなだけあげる。でも、これだけは信じてほしい。私があなたを愛したことに偽りはないと」


 ガーディニアは一時の驚きから覚めると、目の前に立つ神秘の獣を見つめた。その姿はたしかに魔性だが、玲瓏れいろうな双眸は、いつもと変わらぬ愛した人のものだった。


「わたし、怖くない。あなたがどんなに誇り高いか、知ってるもの」


 そのとき二人は、この上なく幸せだった。魂と魂が結ばれあって、もう他には何もいらないくらい。


「あなたとなら、どんなことにも耐えていける。私の愛するくちなしの花。だが、あなたは私の妻であり続けるなら、一生、女の歓びを知ることはできない。それでもいいのか?」


 マジノワールが一角獣の性癖を説明すると、ガーディニアは心から納得してくれた。


「あなたが望むなら、一生このままでいいわ。あなたこそ、年とって、しわくちゃのお婆さんになったわたしを捨てないでね」

「心配ない。あなたの魅力は姿形ではない」


 こうして、新たな約束のもと、二人は今まで以上に幸福に暮らした。


 ところが、さらに一年がすぎたころ。森のなかに不穏な影が訪れた。お城の王様が大勢の従者をつれて狩りに来たのだ。

 運悪く、マジノワールは街へ買い物に出かけていた。ガーディニアが一人で留守番していたところに、いきなり大勢の兵士をひきつれた王様が、ずかずかと家のなかへ入ってきた。


「これ、茶など持て。褒美はとらす」


 王様は狩小屋がわりに休憩をとろうと入ってきて、そこにいるのが、なかなか愛らしい乙女だと知ると、とたんに悪い心を起こした。


い娘よのう。参れ。可愛がってやろうぞ」


 いやらしい目で言うので、ガーディニアは怖くなった。


「お許しください。わたしには夫がいます。あの人を裏切るわけにはいきません」


 王様は夫が悪魔だなんて知りもしないから、嫌がるガーディニアをむりやり寝台へひきずっていこうとする。兵士たちは見て見ぬふりだ。誰も王様のすることには口出しできない。


 ガーディニアは必死になって抵抗した。王様をつきとばし、頰をひっかき、手に噛みついた。だが、男の力は圧倒的で、最後まで純潔を守りきれないことを、ガーディニアは悟った。


(乙女でなくなったら、マジノワールはわたしを愛さなくなる。それだけはイヤ。あの人に嫌われることだけは……)


 悲しい決意をして、ガーディニアはテーブルの上のナイフを手にとると、王様が止めるまもなく、自分の手で、自分の胸をつき刺した。


「これで……二人の愛は永遠よ。マジノワール」


 清らかなクチナシの花のような娘は、純潔のまま、ひっそりと息絶えた。

 王は腹を立てて帰っていき、やがて、帰宅したマジノワールは冷たくなったガーディニアのむくろを見つけた。


「ガーディニア……なぜ、こんなことに……」


 マジノワールは嘆き悲しみ、悲嘆のあまり心が壊れてしまった。愛しい娘を死に追いやったのが王だと知ると、怒りのまま復讐ふくしゅうに駆けだした。


 長い乱行の旅から、ソルティレージュが帰ってきたのは、このときだ。

 ソルティレージュは兄がしようとしていることに気づき、けんめいにあとを追って止めようとした。


「兄さん! ダメだ。そんなことをしたら、兄さんは——!」


 マジノワールは弟の制止を聞かなかった。

 王の城の城壁に立つと、邪悪な死の魔法を使い、黒い炎を呼びおこした。炎は地獄の業火になって城を包みこみ、三日三晩、燃えさかった。そこに住む人間は、王もろとも骨も残さず燃えつきて、ちりとなった。


「兄さん!」


 恐ろしい魔法が終わったとき、マジノワールは心臓がやぶれて死んでいた。天使よりも澄んだ魂を持つマジノワールは、自分の魔法が招いた凄惨な結果に耐えきれなかったのだ。こうなることを知っていて、なお、彼は黒い魔法を使ったのである。


「兄さん……兄さん……」


 動かなくなった黒の一角を抱きしめて、ソルティレージュは森の隠れ家へむかった。兄の体とガーディニアの体を、ならべて大地にうずめた。


「誰よりも幸せでいてほしかったのに……」


 幸福の呪文をかけたつもりだったのに、力およばなかったのだ。


 その夜、ソルティレージュは泣いた。


 永遠の愛を守って逝った二人の上には、いつしかクチナシの木が育ち、白い花を風にゆらした。




 了

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