第三話 白い花

第3話 白い花(前編)



 ソルティレージュには魔界に血をわけた兄弟が一人いた。

 ソルティレージュは銀の角と純白の毛なみの一角獣だが、同じ一角の兄は、金の角と漆黒の毛皮を持っていた。

 人間の世界にいるときは、二人ともちゃんと人間の姿をしている。自慢の角は金銀細工のひたい飾りのように見せていた。


 兄のマジノワールはめったに人の世界に来ることはないが、ある日、めずらしくもソルティレージュの魔法屋を訪ねてきた。


「恋をしてしまった」

 深刻な顔をした兄が、開口一番に言った。


 ソルティレージュは絶句した。

 黒髪に瑠璃色の瞳。黄金のような角。

 すべてが自分とは正反対のマジノワールの端正なおもてを見つめる。


「冗談だろ? 兄さん」

「私が冗談など言えると思うか?」

「いや、まさか。兄さんは、じつに一角らしい一角ですよ」


 一角獣は悪魔のなかでも、特殊な存在だ。高潔で誇り高い。ほかの悪魔とは違い、卑怯なことが大嫌いなのだ。


 ソルティレージュは一角獣にしては破天荒すぎるものの、魔法の報酬をいただくためには、その魔法にかかわるすべての人を幸福にしないと気がすまない。


 ましてや一族のなかでも、もっとも一角らしい兄は、たいへんに潔癖で生真面目なのだ。天使にだって、ちょっとこれほど高貴な性質のものはいないだろう。


「で、相手は誰なんです? まさか人間じゃないでしょうね? それだけはお勧めしませんよ」


 ソルティレージュが言ったのは、一角が人間に恋すると、不幸になることがわかりきっているからだ。案じていたのに、この世にもあの世にも一人きりしかいない兄は、こう言った。


「ところが、人間の娘なのだ。それで困っている」


 ソルティレージュは弱りきって、銀の角のあるひたいに手をあてた。


「なんてことだ。そりゃあ人間の娘は可愛いが、恋をするには最悪の相手ですよ」

「わかっている」


 なぜ最悪かと言えば、それは一角獣の性癖のせいだ。

 一角獣は男を知らない乙女にだけ、熱烈な情愛をいだく。娘が男を知ったとたんに愛は冷める。どんなに愛した娘でも、たとえ自分が最初の相手だったとしても——だ。

 男を知った女の肌の匂いには幻滅してしまう。それは一角獣の生まれついての種族的な本能なので、変えようがない。


 だから、一角獣と人間の恋は、ほかの悪魔と人間のそれより、はるかに難しいのだ。相手をずっと愛していたいと思えば、娘を死ぬまで乙女のまま置いておかなければならない。


 そのあいだ、一角は契りたくても契れないジレンマに悩まされ続けなければならない。娘のほうも、ずっと自分を放置しておく恋人に、たいていは心変わりして逃げだしてしまう。


 もし、娘に忍耐力があって、逃げださなかったとしても、一角の乙女の肌の匂いに対する情熱は、とても激しい。いつかは我慢しきれず契ってしまう。とたんに娘のことなど、どうでもよくなって捨てるのだから、今度は娘が不幸になるわけだ。


「困ったことだ。その娘とは相思相愛なんですか?」

「うむ。むこうは私を人間だと思っているが」


「でしょうね。しかし、まだ知りあったばかりなんでしょう? 悪いことは言わない。今のうちに、やってしまいなさい。深入りするほど、たがいに別れがつらくなるんですから。今なら、それほど苦しまなくてすむはずです」

「それは、わかっているが……」


 果断な兄が、いつになく歯切れが悪い。これは、いよいよ本気の大恋愛なのかもしれない。


「兄さん。私は人間の世界に長いが、愛しいと思った娘は、手当たりしだいにいただいていますよ。それが人間界で気持ちよく暮らすコツです」

「私はおまえのようにはなれない。おまえはいつも奔放で、うらやましいくらいだ」

「うらやましいだなんて……私のほうこそ、一角のなかの一角であるあなたを誇りに思っているのに」


 ソルティレージュは思い悩む兄に釘をさした。


「忠告しましたよ? 今度、私と会うときには、憂いをといた、いつものあなたに会えると信じています。いいですか? こんなことで大切な兄を失いたくないですからね」

「うむ……」


 マジノワールはかすかに口元に笑みを刻んで去っていった。

 その笑みがひどく弱々しかったので、ソルティレージュは嫌な予感がした。気になって、兄のようすを水鏡の魔法でのぞいてみることにした。


 マジノワールの愛した娘は、ガーディニアと言った。くちなしの花のような、しとやかで優雅な美少女だ。


 マジノワールがいくつもの街をぬけて、となりの国にある森のなかの隠れ家へ帰ると、ガーディニアはおとなしく彼の帰りを待っていた。


「お帰りなさい。マジノワール。弟さんは元気だった?」

「うむ」

「夕食を作っていたのよ。ちょうどできたところ」


 その娘を水鏡を通して見たソルティレージュは、うなり声をあげた。


 なるほど。美しい。

 いや、美しさだけの問題ではない。美貌というのなら、悪魔仲間の妻になったエメロードのほうが、数倍も美しい。


 だが、ガーディニアには他の娘にはない、一角獣にとってはたまらない魅力があった。

 それはかぐわしい肌の匂いだ。乙女の肌はみな、その優美な匂いで一角獣をそそるのだが、ガーディニアの香りは人一倍、甘美な芳香をはなっていた。くちなしの花のように独特の甘さがあった。これではマジノワールが恋に堕ちるのもしかたない。


 ソルティレージュは自分自身が兄の恋人に恋してしまいそうになったので、あわてて水鏡の魔法を解いた。それでもまだ、水盤を通して少女の肌のなんとも優雅な香りが部屋に漂っていた。その香りの誘惑にさからうには、なみなみならぬ努力がいった。こんな誘惑に、兄はよく何日も耐えているものだ。


 ソルティレージュは数日、煩悶はんもんしたのち、思いきって、マジノワールの隠れ家を訪問してみることにした。


 相手があの少女では、兄が恋心を変えることはあるまい。このまま、ほっといても、ろくなことにならない。

 あの娘もきっと、他の人間のように兄を捨てて出ていってしまう。そのとき深く傷つくのは兄なのだから——と、調子のいい理屈をつけて、ほんとのところはやっぱり、あのかぐわしい香りの少女と遊んでみたい下心があったのかもしれない。


 ソルティレージュは兄が狩りに出かけたすきに、隠れ家のなかへ入っていった。ガーディニアは家のなかの仕事をせっせとこなしていた。入ってきたソルティレージュを見て、微笑みをなげかけてきた。


「まあ、マジノワールにそっくり。まるで色違いのお人形のよう。ひとめでわかったわ。あなたが隣国にいるマジノワールの弟ね?」

「ああ。そうだよ。兄は黒。私は白。正反対だと思っていたが、そんなに似てるかな?」

「もちろんよ。でも、マジノワールのほうが少し凛々しいわ」


 明るくて人なつこい、可愛らしい娘。

 ソルティレージュはその肌の匂いを間近でかいで、本気で娘を欲しくなった。まったく警戒していない娘に近づいていって、乙女には絶大な魅惑を発揮する、一角の息吹を耳元にかけた。


「兄は金。私は銀。だが、愛の調べをつむぐ力では劣らないよ。これから私と、いいことしようか?」

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