第36話 華宮
お疲れさまでした、と声をかけ外に出る。いつもとほぼ変わらない時間。空には薄い雲が広がり、月が淡く輝いていた。
そのままゆっくり、自宅に向けて歩き出す。
「まーさむーねくん!」
すぐに後ろから呼びかけられた。声だけでなく、呼び方でその正体がわかる。遅れて、たったと走り寄ってくる足音。
うんざりした気持ちになりながら、俺は後ろを振り返った。
思わず、面食らう。言おうとした文句は全て引っ込んだ。
こちらが怯むのを厭うことなく、奴は目の前で立ち止まった。やや大きめのビニール袋を、自らの目の高さで掲げてくる。
「夜ごはん、一緒に食べよう!」
「……アンタ、その格好」
「あ、どうかな? かわいい? ぜんぜん、褒めてくれていいよ」
はにかんだように笑いながら、華宮はその場でくるりと一回転する。
奴は制服姿ではなかった。
グレーのパーカーとジーンズ、そしてピンクのスニーカー。そのシルエットはかなり細い。
だから見間違えた、わけではないが、それでも驚いてしまったのは事実。
「一度家帰って戻ってきたのかよ」
「そうだよ~。で、コメントはそれだけ?」
「とんだ暇人だな」
「うっさいよ。バイトばっかしてる、キミにだけは言われたくないな~」
「こっちは汗水たらして、世のため人のために働いてんだ」
むっとして抗議するが、ただ向こうはニヤニヤするばかり。身体の後ろで手を組んで、やや前屈みになりながら。
ポケットの中で拳を握りつつ、俺はぐっと顔を顰めた。
「やけにあっさり帰ったと思ったら……」
「だって、いつまでも店の中で待ってるわけにはいかないでしょ」
「そもそも、なぜ俺を待つ必要がある。飯なら家で食え」
「えー、つれないこと言わないでよぉ。今日はもう友達のところで食べるって言ってあるし……それに、これはどーするつもり!」
顔を強張らせて、華宮は再び袋を見せつけてきた。今度は持ち手を両手で持ち、口を大きく広げて。
仕方なく、中身にそっと目を落とす。玉ねぎと謎の根菜類、そして卵。まだ色々と入っている様だったが、視線を上げた。
「そっちが勝手に買ったんだろ」
「ひっどーい! そりゃそうだけどさ、その、思いやりっていうものとかあってもよくない?」
「アンタはもう少し、他人の都合を考えた方がいいぞ」
「都合って……どうせキミ、今日もコンビニ弁当かカップ麺だろうに」
図星だったので言葉に詰まった。
ただ、唯一反論するなら、新崎ベーカリーの売れ残りもある。
「やっぱり。せっかく作ってあげるって言ってんだから、黙って受け入れればいいのよ!」
「親切の押し売りだな、まるで」
「なんとでも言え」
べー、っと舌を出して、挑発してくる華宮。二年生は二年生でも、高校じゃなくて小学校のだな。
道理で数学ができないわけである。
困り果てて、俺はふーっと長く息を吐きだした。
「遅くなるぞ」
「平気。九時までに帰れればだいじょぶ。それに、駅まで送ってくれるでしょ」
「……今回だけな。二度とこういうことはすんなよ」
「うーん、自信ないかも」
「せめて事前に言ってくれ」
「デレだね」
無視して歩き出す。
待って~、と言いながら奴もついてくる。
どうしてバイト終わりに、さらに披露しなくてはいけないのか。ただでさえ放課後、妙な女と謎の話をしたばかりだというのに。
華宮が隣にまで来たところで、すっと腕を差し出した。
「なに? おやつでも欲しいの?」
「違う。袋、持つって」
「やっさし~。でも平気だよ、そんな重くないし」
「そうか」
なんとなく断られると思った。
特に何の感慨もなく、すっと腕を戻す。
「あ! でもせっかくだし、持ってもらおっかな~」
「どっちだよ……」
やや眉を顰めながらも、俺は袋を受け取った。
それなりの重さが腕にのしかかってくる。
こいつ、何を買ったのか。
その全容が明らかになるのは、この後家について、奴の調理が始まってからのことだった。
*
両手に深皿を器用に載せて、華宮はキッチンから出てきた。使うのは三度目なのに、もおうすっかり我が物顔だ。
「お~またっせ、しました~」
ニコニコ顔で、奴は皿を俺の前とその対面の席に置く。
後ろ手で花柄のエプロンの紐をほどくと、そのままくるりと丸めて空いた席に。
メニューは先に出てきたほうれん草のおひたしと、カルボナーラ。そのためだけに、わざわざ乾麺パスタを買ってきたらしい。
どうせ、うちにはそんなもんないだろうと決めつけて。
もちろんそれは当たっている。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ~」
「楽しそうだな」
「料理は楽しくやる、があたしのモットーだから」
「そうか」
「聞いといてその反応はなくない?」
くるくると丁寧にフォークでパスタを巻いてまず一口。
……かなり美味い。ソースは出来合いの物ではなくて、あの女のお手製。しっかりとコクとまろやかさがあって、よく麺に絡んでいる。
「あ、そうだ。コショー忘れてた」
「いいよ。別に」
「わかってないなぁ、カルボナーラにはかかせないものだよ」
「じゃあそもそも忘れんなよ」
「だって、あたし辛いのはあんまり・……」
言いながら、逃げるようにして奴はキッチンに引っ込んだ。
ごそごそと袋を漁る音がして、再び戻ってくる。その手に、粗挽き胡椒の瓶を手にして。
「一応訊いとくけど、もしかしてあった?」
「いや。調味料は混ぜ合わせの塩胡椒、そして醤油くらいしかない」
「それでよく一人暮らしが成り立つね……あれ、あたしがこの間買ってきた料理酒とかみりんは?」
「夕さんが持ってった」
「えぇ、濱川先生ゴウヨクだぁ」
「ここにおいてもダメにするだけだろって」
「うん。ケンメイの間違いだった」
呆れて薄笑いを浮かべる華宮をよそに、俺はパッパと麺の上に胡椒をまぶしていく。
改めて食べてみると、今度はピリッとした辛さがアクセントとなって、旨味が増していた。
黙々と時間が流れていく。テレビの音がなければ、完全な静寂に広がっていたに違いない。
「それで。放課後、
「…………何の話だ」
思いのほか真剣な口調と、そして、謎の違和感に戸惑ってしまった。
フォークを置いて、まじまじと華宮の方を見つめる。
奴は顔を伏せたままこちらを見ようともしない。フォークを手元で遊ばせていた。
「違った? てっきりそうだと思ったんだけどな」
「違う」
「じゃあどこで寄り道してたの? わざわざ、三時間目の後に、バイト遅れるってお店に連絡入れて」
「奈穂さん、余計なことをべらべらと……」
頭の中で言い訳を練る。咄嗟のこと過ぎて、頭はうまく回らない。
いくつかのワードが浮かんでは消えていく。決して説得力のある文が、形成されることなく。
「リサちゃんが――キミの前の席の女子ね、教えてくれたの。三時間目と四時間目の間の休み時間に二人が話してたって」
「……見間違い、とは言えないな」
「それに、放課後二人してすぐにいなくなるし。結び付けるな、って方が難しくない? あたし、そんなに頭悪いわけじゃないんだよ」
「アンタが頭悪いなんて、思ったことねえよ」
「そう?」
ようやく華宮が顔を上げた。
てっきり冷たい表情をしているとでも思ったが、ちょっと嬉しそうだった。
「森川とはそんなに仲がいいのか」
今度は俺が質問をする番だった。いや、勝手に口が動いた。
「うん。中学が一緒でね、妙に気があって。――で、何の話したのかな、
「……とるにたらない世間話だ」
やっと違和感の正体がわかった。さっきまで、あいつは森川の呼び方を変えていたんだ。
でもそれが何を意味するかまではわからない。
ただ、華宮の雰囲気をいつもと変えていた要因の一つではあったんだろう。
「そっか。世間話か。二人が仲良くしてくれると、あたしもなんか嬉しい」
「そんなんじゃねえよ」
同じような言葉を昼間も聞いた。
こいつらは俺に何を求めているのだろう。俺をいったいどうしたいのだろう。
意図がわからない。この夕食も。いや、もっと前の件も。
鬱陶しく、戸惑うのは事実。でも、俺にもわからない感情が芽生えつつあるのを、自覚はしていた。
「……なあ。どうして飯、作りに来たんだ」
「嫉妬して……な~んて、ウソウソ。カスミンがさぁ、聞いても教えてくんないから、こうなったら正宗君にーって」
「そうかよ。残念だったな、大した話じゃなくて」
「ううん。そんなことないよ」
優しい笑み。どこか儚げで脆い印象を受ける。
彼女の持つ、二面性がちらついて。
「ごちそうさま。その、美味しかった……華宮」
「あっ、今の――」
「ほら、さっさと食べろよ。遅くなっても知らねーぞ」
「だいじょうぶだって。それより、もう一回! 今度は綾芭って!」
「何のことだ?」
わざとらしくとぼけて、やや大げさな仕草で席を立った。
すぐに身を翻して、自室へと向かう。
「着替えてくる」
「えー、ちょっと、逃げないでよ~」
「なんだよ、逃げるって」
「もうっ、素直じゃないんだから」
嬉しそうに呟くのを背中で聞きながら、俺はリビングを後にする。華宮綾芭、という得体の知れないクラスメイトが残っているにもかかわらず。
今さらそんなことは気にならない。
だって、俺の日常はすっかり彼女にかき乱されてしまっているのだから。
通学路で泣き崩れていた学園のアイドルに話しかけた結果、悪戯に振り回されることになった かきつばた @tubakikakitubata
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