第01話

 なだらかな丘の上に立ち、長旅の果てにたどり着いたリェールの村を一望したミントは、明らかになった村の全貌に感嘆の息をもらした。

「うわぁ……」

 苔むすような背の低い草におおわれた丘陵が、はるか地平の彼方まで連なっている。少し西にかたむいた太陽の光をいっぱいに浴びて、大地そのものが緑色に輝いているようだ。

 それらの間隙に点在しているのは、ひと家族が住まうに十分な広さを持ったログハウス。贅沢なことに、これだけの土地面積がありながら民家の数は片手で数えられる程度しか見当たらない。せせこましい都会の集合住宅に身を置く者ならば誰だってこの広さに一度は憧れを抱くのだろうが、同時に、ご近所さんとの万里の距離に疲れを覚えるだろう。実際ミントの感嘆は、その両方が含まれた複雑な響きがあった。

 これだけ広いとお買い物も大変だろうなー、などと高みの見物に徹し──実際ミントにとっては他人事だ──、携帯食糧などを入れた背負い袋を肩にかけ直して再び歩き始める。

 村の広大さをもう一度改めて最悪野宿の可能性も考慮したが、幸い不安は快く彼女を裏切ってくれて、陽の色が変わる直前に目的の丸太小屋ログハウスへ到着することができた。

 全体的な大きさは他の家よりも小さいかもしれない。子連れ家族が住まうには少し不便だろう。井桁状に積み上げられた丸太は風雨と日差しによって変色しており、長い年月を感じさせる。玄関にかかげられている白ぬきの十字標は医者の所在を明らかにする目印だ。とはいえ、探し人の不在を否定することにはつながらないので、体が緊張で強張っていく。

 きっと歓迎されない。それでも引き下がるわけにもいかない。

 硬い決意を胸に、彼女は玄関と思しき扉をノックした。だが、返事どころかそれらしい反応もない。

 不在だろうか。

 半歩あとずさってなんとなく十字標を見上げるも、ただの標が語ってくれるはずもなく。

 もう一度、木製の扉をノックしてみた。相変わらず返事は得られなかったが、今度は家人の動く気配を感じた。椅子を引く音、近付く足音、そして、

 ……ギィ。

 控え目な軋み音に合わせてドアが開いた。

 女だ。

 顔の造作は美しい。卵型のかお、あごは細く、唇は厚く艶がある。特に印象的なのは目だ。奥に深海を秘めたような深い青からは、若い女性特有の輝きがすでに失せており、老獪ろうかいな手練れを彷彿とさせる。あらゆる存在を圧倒する強烈な眼力。

 それにうっかり囚われたミントは、自身の体中の細胞が委縮し、硬直する感覚を味わった。なんとなく覚えのある追体験だ。ふと知り合いの顔を思い浮かべる。

 協会の、第一区長に似ている。区長とはさる理由から目を合わせたことはないが、まとう空気が、印象が、とてもよく似ている。

「……誰」

 声は張りのあるソプラノだが、意図的に音調が落とされているせいか、アルトの響きも持ち合わせていた。誰何すいかは厳しい。誰の訪問も許していないようなそんな心意が窺える。

 それでも心持ちを取りなおして、彼女に話しかける勇気をふるい立たせた。

「あ、あの、わたし、ミントと申します」

 痺れるような束縛から逃れ、名を名乗る。

 しかし女は名前を気に止める素振りも見せず、ミントの足から頭の頂点へと視線を滑らせた。値踏みするような目に居たたまれず、再び身を縮める。身長はさほど変わらないのに、真上から見下ろされているような気分になるのはなぜだろう。

「……勧誘はお断り」

「ち、ちがいます! 勧誘じゃありません!!」

 ドアが閉じられようとしてあわてた。

 たしかに協会の制服を着たままでは勧誘と思われてもしかたがない。

 ドアにしがみつき精一杯抵抗するが、ミントの腕力ではあらがいきれず徐々に隙間が狭くなっていった。このままでは完全に閉じられるのも時間の問題だ。

「イデア協会の区長様の代理で来ました。あのっ、もしかしてあなたがアイさんですか!?」

「……そうだけど」

 すきまから彼女がこちらへ視線を送ってくる。その間にも容赦のかけらもない力比べは続いており、ミントは息が途切れがちになるのを自覚しながら叫んだ。

「じゃあ……じゃあ、あなたがマイガスさんの助手だったアイさんなんですね!?」

 扉を隔てていても彼女が息を呑むのが伝わった。

 鋭利な緊張が走る。時同じく、彼女の手が扉からはなれ、押し合い引き合いされていた木製の扉はミントの牽引力に引き寄せられるまま全開になった。反動で、ミントは盛大にしりもちをついた。

「いった……」

 腰まで響く鈍痛に情けなくうめいた。慣れない長旅で疲労が重なった足も、しばらく動きそうにない。ただ、首は動く。目を上に向ければ開き切った扉が見え、ついで、家屋の内と外とを仕切る境界にミントを睥睨へいげいする女性の全身もあらわになった。

 その花のかんばせを歪める怒りを表現するに相応しい言葉は、この世には決してないと思えた。きっと「すべて」が存在するイデア界にもないにちがいない。

「あ、あの……」

「帰って」

 冷水を浴びせられたのかと錯覚するほどに素っ気ない声。

 物音を聞きつけたのだろう、家の奥から一人の少年が現れ「どうしたの」と女性に声をかけてくる。しかし彼女は振り向きもせず、わずかにあごを引いて「なんでもない」と言い切った。声には抑揚もない。

「帰りなさい」

 それはミントに向けられた一言だった。命令でありながら、この空虚な言葉はなんなのだろう。言葉とはもっと、人間の思惟しいが込められた、想いを伝えるための手段ではなかったのか。

 帰れと求められているのに、単なる言語の一句にしか聞こえず、ミントはしばしその場に凍りついた。

 扉を閉めようと、女性が手を伸ばす。

 その動作に、ミントは急速に現実へ回帰した。

「帰れません!」

 そう、戻れない。区長と約束したのだ、必ず彼女を説得すると。

「お願いします! あなたのイデアの知識をわたしたちに貸してください! わたしたちはどうしてもあの穴を──〈カズムホール〉を正さなくてはいけないんです! そのためにはあなたの知識が必要なんです!!」

「ばかなことを」

 表情を一切動かさず、アイは冷淡に言った。

「あんな大きな穴を修正できるはずがないでしょう」

 一瞬ミントが小さく驚いたのは、世を捨て隠棲したはずの彼女が〈カズムホール〉の詳細について知っている様子が垣間見えたからだった。こんな辺境の村に引きこもっているが、彼女の耳は世間の音を受け入れぬほど狭量ではないらしい。──と、判断すると同時に、知っているのならばなおのこと、不可能だ、なんて断言して欲しくないと思った。

「そんな……! あなたはマイガスさんの……!」

「聞く耳は、ないわ。帰って」

 扉が動く。

 腕力で敵わないことは実証済みだ。ここで再び引き合いをするのは徒労でしかない。ミントは扉には手をかけず、ただひたすら叫んだ。

「帰りません。ここで、待たせていただきます」

 返事はない。ただ、バタン、と、扉が閉められる。

 その音は交渉の終了を告げ、同時に、長期戦開始の鐘の音となった。


 * * *


 日の出と共に起き、日の入りと共に眠る。それは清貧を第一とする協会に身を置く者の常だ。だから朝日の眩しさに睡眠を邪魔され起きなければならずとも、また、手元にランプもなく手持無沙汰の夜は眠るしかなくとも、ミントにとって苦労ではなかった。

 リェールの村に到着してもう四日経つ。ミントは相変わらず丸太小屋の玄関先に逗留し続けていた。

 幸いだったのは、この辺りが極寒地でないことだ。朝になったら凍死、などという命の危険はない。多少冷え込むものの、手がかじかむほどの寒さでもなく、ミントは背負ってきた荷物の中の厚手の上着で冷気をしのいでいた。

 水は毎朝、家の裏手に掘られた井戸から拝借した。一度アイに断わりを入れたが、肯定も否定もされず現在にいたる。正式な許可を得ずに水を汲み上げるのはくすねているようで気が引けたが、背に腹は代えられず一日一度の水汲みは続けさせてもらった。

 問題は食事だ。調理器具は持ちあわせていないし、なにより食材がない。多めに詰めこんだ携帯食料がミントの栄養補給を助けてきたが、四日も経てばそろそろ底が見えてくる。職業柄、粗食には慣れていても、携帯食料一つでは日頃の食事量を大幅に下回るのだ。空腹に腹が鳴る日々は日ごとミントの向こう意気を削っていく。

 気力との戦いも限界が近くなった、五日目の朝。

 その日は、まだ夜が明けきらないころから雨が降り出した。初めは小降りだったが、厚い雲の向こうで陽が昇ると雨はさらにひどくなった。ミントは雨に打たれっ放しだった。雨具がないので、毛布代わりにしている厚手の上着を頭からかぶるも、すぐにずぶ濡れになってしまう。それでも雨が直接肌に当たるのを防げるから、と続けていたら重くなってきた。水を吸い上げた上着が重量をいや増やしていた。

 正午を回って雨脚は強まり、間断なく降り続ける雨水によって視界が煙ってきた。

 だが、目の焦点が定まらないのはそれだけの理由ではなさそうだ。肌は体温を奪われ、氷のように冷え切っているのに、顔は熱もって火照っている。唾を飲みこむときに感じるのどの痛み、じっと座っていても続く関節の痛み。

(風邪、かぁ……)

 不明瞭な頭で診断を下した、そのときだった。雨ではない音がミントの鼓膜を刺激した。

 振り返ると、小屋の玄関が開いていた。草緑色のロングワンピースに丈の短い灰色のジャケットをを羽織った女性は、ドアノブをにぎって、初めて会ったときとなんら変わらない瞳をミントに投げかけていた。

 反射的に立ち上がると、深呼吸一つ分の間だけ彼女と見つめあった。

「……根性はあるみたいね」

「はい」

 苦笑とも微笑ともおぼつかない顔になる。皮肉とも思えるその言葉は、きっと彼女なりの褒め言葉なのだ。拒否ばかりされていたアイに、ミントはいま存在を認められている。そう思うと少しだけ嬉しい。

「それだけは自信があります」

「……なるほど」

 深いため息が女性の口からもれた。ミントが初めて見る、アイの「表情」だった。初対面のときから一貫して崩れなかった彼女の顔に浮かんだ感情。それはごくごく小さな──注意深く観察していなければ分からないほどわずかな変化だったが、この五日間、ずっと彼女の冷視を受け続けたミントには決定的な転化だった。

「でも、もういい加減にしたらどう? 顔色が悪いわ。あなた──」

 熱があるんでしょう、と、続くと思われた言葉は、しかしどうしてか続かなかった。ミントに向けられていた不快感も顕著なアイの視線が、まるで引き潮のように彼方へそれていく。

 不思議に思って、平原──あるいは村の央部へ向けられたその目を、ミントも追走すると、雨のカーテンの向こうに黒豆のような異物があることに気づいた。ぼんやりと霞がかった脳に必死に呼びかけ、目の焦点を定めてよくよく観察すると、小粒の黒豆ははっきりと人間の形になる。

「アイ、アイぃ」

 と、名前を連呼しながら次第に大きくなる人影は、雨をしのぐフードつきのポンチョをかぶっていたものの、男性であることは分かった。しわがれた声から、初老か、それよりも上の年齢だと推察できる。しかし肉体的な衰えはうかがえない。黒い医療バッグを両手でしっかり抱んで丘陵を猛ダッシュし、必死に健脚をアピールしていた。

 なにをそんなにあわてているのだろうか。

 小首をかしげると、ミントのものではない忌々しげな舌打ちが聞こえた。

「あのじじぃ……」

 豪雨の中に飛びだすアイ。その背中を見送ったミントは、視線をすべらせてようやく事態を察知した。

 老人の背後にモンスターの群衆が迫っていた。

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