金碧珠の名花
ひつじ綿子
第一章 プロローグ ~ 辺境の村 リェール ~ 宿場町 テール・ドンブル
第00話
我々の世界は多様な界が層になった、多重層構造をしている。
――中略――
とりわけイデア界は、イデア界を構成している〈イデア〉が、「上位世界は下位世界に影響を与える」(=エントロピー)法則にのっとって、我々の世界に絶えず〈影〉を落としている。
我々が目にするあらゆる物質は、不可視の〈イデア〉の影響を受け、また、その物質内に〈イデア〉そのものを内包しているのだ。
言いかえれば〈イデア〉は万象の真であり、我々の世界は〈イデア〉の影と言えるだろう。
――マイガス著 「イデアとイデア界の証明」より抜粋
長い廊下の突き当たりには、さながら番犬のように二人の
前もって予測していたことだ。と、アイは動じない。
かかとの低いオープンパンプスで合成樹脂の床を踏み叩きながら、ゆるやかにカーブする廊下を駆けていく。
彼らが身につけているのは、これまでに遭遇した襲撃者たちと同じ――頭部を保護する戦闘用メットとボディアーマー、それに五十セチほどのアサルトライフルだった。腰には短銃、大腿部にはナイフ。ベルトに予備の弾倉。
戦闘職としてはおそらく軽装のうちに入るだろうが、たいした問題ではない。なにせ襲撃先は一介の個人所有の研究所である。所内にはシャーレを片手に顕微鏡をのぞきこむ種類の人間しかいない。重装備を負う理由もない。
研究所がこんな短時間で制圧されてしまったのも、所員に抵抗する術がなかったからだ。
だが――それだけではないはずだ。
地下の部屋に〈彼〉の姿はなかった。アイが駆けつけたときにはもう襲われたあとだったのだ。……あの場所は、所内でも一部の人間しか場所を知らず、目的も明かされていないというのに。
それが意味するところは明らかだが、いまは考えている場合ではない。
残された
この二年間、彼を観察し続けた研究者としての勘だが、アイはほとんど確信していた。
そして彼を手に入れた敵は、より効果的に彼を使おうとするはず。せっかく手に入れた駒だ。世論の後押しを受けているとはいえ、非合法な手段を用いて人命をかけるのだから、見返りは大きくしたい。具体的には、今後現れるかもしれないマイガスのような狂学者を牽制するために、みせしめへの転用が望ましい。
となると、〈彼〉を伴った敵の行き先はひとつ、マイガスの部屋、この研究所の所長室――つまり、あの二人の番犬の向こうの部屋だ。
「おい止まれ!」
銃口を向けられてもアイは止まらなかった。むしろ決意の硬さを示すように、ヒール特有の、かかとの音の凄みが増す。
そんなアイに触発されたのか、あるいは最初から牽制など建前だけだったのか、二人組はためらいもせず引き金を引いた。安全装置が外されたままの銃はワンアクションで簡単に火を噴き、凶弾が飛び出した。
引き金に指がかかった瞬間を見極めたアイは、合成樹脂で固められた床を強く蹴り、壁に飛んで難を逃れた。なんの因果か、弾倉がカンコンと一定のリズムで床を叩く音と、壁を進むアイの足音とが調和する。そして重力の影響を受けるよりも早く再び跳躍。その足跡には赤い光の残滓が灯り、消えた。
「な……」
バカな、と硬いマスクの下のうめき声が聞こえた。
アイは空中でくるりと一回転して、反撃前の二人の前方に軽やかに着地。白衣のポケットに忍ばせていたハンドガンを握り、サイトで標準を合わせた。
狙いは右の男。通常のオート・ピストルとはやや仕様が異なるアイの銃は、スライドを引き初弾を薬室に装填する必要はない。引き金を絞っただけで易々と赤い光を帯びた「なにか」が放たれ、空薬莢もなく消え去る。意思を込めるだけで次弾が装填。倒れ行く敵に二発目を見舞い、確実に
「くそ、
言葉の後半を無線に向かって投げつけた二人組の相方には、余計な情報をバラまいてくれたお礼に回し蹴りを献上してやった。ローヒールとはいえパンプスのかかとはそれなりに攻撃力があったらしく、ヘッドガードの内側に鼻面を強打した襲撃者は、二、三歩たたらを踏んだ。その間に二発撃って廊下に沈めると、床に落ちた敵の武器を一丁手に入れ、廊下の突き当たりに用意されたスライドドアの電子ロックを、自前の銃を握ったままの拳で叩き割るように解錠する。
電子の命令を受諾したドアは迅速に反応を見せるも、その動作はアイにとって点滴よりも緩慢だった。もどかしさを感じ半開きのそこに細い体をねじ込み、強引にぬける。室内の様子を確認してその場に立ちつくした。
何度も訪れたことのあるその部屋は、アイの研究室の四倍ほどの広さがある。左右の壁は天井まで本の背表紙が並んでいて、上段の本を取るために一脚ずつ脚立が立てかけられている。最奥には、部屋のヌシのための机と椅子。部屋の大きさに比例して作られた机はあますことなく書類が散乱していて、ヌシは来訪者の顔を見極めながら革張りの背もたれにゆったりと背中を預ける──ここまでは、いつもと同じ。
異なっていたのは、普段は閑散としている室内に二十人あまりの武装した人間が詰めかけていたことだ。彼らは一斉にアイに注視を向けた。並みの人間ならば大半はここでたじろぐだろうが、アイの意識は別のところにあり、武装集団など一顧だにしなかった。素早く全体を走査して執務机の前にうずくまる黒い影を見いだし、鋭く息をのむ。
がっちりとした立派な体躯。いましがた切りそろえたように乱れを知らない濡れ羽色の髪。両目をおおい隠し視界を遮るのは異能を奪うまじないが施された白い布。後ろ手に自由を奪うのは緊縛の縛具。屈したように膝を折った肢体は、痛ましさよりもいっそ甘美に劣情を誘う。
──〈彼〉だ。
アイをここまでかき立てたあの男が、手を伸ばした向こうにいる。ほんの十メルにも満たない距離。思わず手が伸びる。
「捕らえろ」
そのもう少し、という距離を、誰とも知れぬ男の命令で阻まれ、アイは苛立たし気に奥歯を噛んだ。
邪魔、しないで!
声にならない声で
「……ッ」
走るしかなかった。アイを捕まえようとする男たちの手を払い、アイを阻む足を銃で撃ち、隙間をすり抜けてひたすら疾走した。
あと三メル……。
身体から強烈な危険信号が発信される。屋内での研究に慣れ切った肉体はとうに限界を越えているのだ。これ以上酷使すれば後々に影響する。それでも止まれない。
歯を食いしばり、腕を振り、知らず溢れる涙を風に流してあと一メルという距離を駆け抜ける。
ゆるゆると時間が引き延ばされていくような不思議な感覚を体験しながら、弾切れになった借り物の銃を投げ捨て──何者かにつかまれた腕を無理やり外し──二歩、三歩と床を蹴り──。なにかに惹かれるように、視界の端に映り込んだ見覚えのある顔に注意を向けた。
──マイガス。
所長の椅子にゆったりと座っていた男が、めったに崩さない顔に驚きの感情を浮かべて、緩慢な動作で席を立つ。
その顔を見たとたんアイの胸に浮かんだのは、彼に対する後ろめたさだった。
マイガスではない他の男に対して必死になっている自分を見られたことへの羞恥。いくらかの懺悔。
だが、それも一瞬のこと。
祈るような気持ちで一度だけまぶたを落としたアイは、しかし次に瞳を見開いたとき、なにもかもを捨て去って、マイガスではない別の男のそばへ近づいた。同時に時間の遅延は止まり、世界に色と音が戻る。人垣をかき分け、身体を滑りこませると、彼女はようやく目的の場所へたどり着いた。
乾いた銃声が響き、熱がアイの肩を深く抉ったのは、そのとき。
「────ッ」
呻き声など上げてたまるものか。
奥歯が砕けそうなほど歯を食い縛って、悲鳴をのどに押しとどめる。
痛みをこらえ、顔を上げれば、そこには夢にまで見た男の顔が。
呪術がほどこされた布は、どうやったのか片目分だけがほどけ落ちていた。彼自身が解呪したのか、それとも、術が不完全だったのか……。
「……なせない……」
どちらでもいい。
驚愕にふち取られている漆黒の瞳に、己の姿を焼きつけるべく、彼女は銃を捨てた右手で男の襟首をつかみ、至近距離に引き寄せた。肌の暖かさが鼻先に触れる。口付けを交わせるほどの距離で。
今はただ、記憶よりも鮮明に、強烈に、その魂に刻み込め。
「絶対に、死なせない……!」
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