愛されたそのひとは

津久美 とら

愛されたそのひとは

 その昔聖女と呼ばれ魔女と呼ばれた女性がいました。その女性は今は幽霊と呼ばれています。

 修道服を纏った彼女は優しく穏やかで、愛し愛される幽霊でした。

 教会に住む彼女は、そこにある井戸の水を飲まなければどんどん体が透けてしまいます。そしてまるで鎖につながれているかのように、彼女は一定の距離以上、教会から離れることができませんでした。

 彼女は人々に愛され、神に祝福されています。なれどもそれは同時に、呪いでもありました。

 これはそんな幽霊の、昔々のお話です。




 その町にはひとりの少年が住んでいました。その町には十五歳にならないと働いてはいけないという決まりがありました。

 しかし少年には親も親戚もいません。みんな戦争に行くか、病に臥すかして死んでしまったのです。彼は十二歳。親も親戚もいませんが、まだその町で働くことができませんでした。

 けれども少年は生きています。生きていかなければなりません。少年は食べ物をお店から「拝借」して、なんとか毎日を過ごしていました。


 ある日、少年がパン屋さんからパンを「拝借」した帰り道のことです。

 この町で一番大きな通りを荷馬車が三台、通っていきました。三十人ほどでしょうか。首に金属の輪を付け、鎖に繋がれた人々が列を成してその後ろを歩いています。男の人もいれば女の人もいて、年齢もバラバラでした。

 人々には一見すると似たところなどありませんでしたが、みな一様に目を伏せ、ひどく疲れ切っているようです。そして人々は汗や埃にまみれてべたべたとしていて、強いいやなにおいがしていました。

 彼らは遊牧民として各地を転々としていたところを連れて来られ、この町で売られるか殺されるかする「奴隷」にされた人たちでした。先頭の荷馬車で偉そうに大声を出しているのは、奴隷商人のお頭です。


「今日は東の遊牧民だよ! こいつらはなんたってよく働く! 女の気立てはいいし、男はみんな腕力自慢だ!」


 そう言ってお頭は商売を始めます。

 安息日の今日は、大通りにはたくさんの人が集まっていました。露店もたくさん出ています。その一等地で、奴隷のオークションは始まりました。

 十五歳以下が働けないこの町では、いつでも人手が足りません。


「十五歳くらいまでの女はあるか。美人でないといけない」

「へえ、だんな。あるにはありますが、どのような使い道で?」


 人だかりの中からお頭に声を掛けたのは、この町で高利貸しをする男の人でした。お金持ちの彼はにやりと笑ってこう言います。


「養女に迎えるのさ。うちはずいぶん前に家内に先立たれてね、子どもがないんだ」


 お金持ちの彼に子どもがいないことは確かでした。

 彼がお頭から買った子どもは、これまでに十人を超えていました。その全員が女の子でしたが、不思議なことにみな三年ほどで病で死ぬか気がふれて死んでしまっているのでした。

 大人たちはお金持ちの彼に何も言うことができません。彼は町の権力者でもあったのです。

 そして奴隷商人のお頭も、そのことは十分に知っていました。それでも人を売り買いするのがお頭の仕事です。毎度お約束のこのやり取りは、絶対に忘れないのでした。

 巡回のために通りがかった衛兵はちらりとその様子を見て、何事も無かったかのように去って行きます。これも、毎度のことでした。


「じゃあだんな、こいつは如何ですかい」


 そう言ってお頭が乱暴に引っ張ったのは少年と同じくらい、十二歳ほどの少女でした。

 少女は他の奴隷たちと同じくひどく汚れていましたが、美しい顔立ちには目を見張るものがありました。亜麻色の髪と瞳は、教会に飾られた絵の中の天使を思い出させます。白く滑らかな肌はとても遊牧民とは思えません。そしてなぜか、少女は柔らかく微笑んでいました。

 荷馬車の周りに集まった人たちもお金持ちの彼も、遠巻きにその様子を眺めていた少年も、ほぅっと息をつきました。


「ここ何年かで一等の美人だよ。九千でどうだい」

「ふむ。……六千」

「いいやだんな。これだけの上玉だ、そんなには下げられねえ。八千五百」

「七千五百」

「だんな、他の町ならもっと高値がつくかもしれねえ。八千」

「……いいだろう、八千」


 こうして美しく微笑む彼女は、奴隷としては破格の値段で買われていきました。

 少年の目には少女の穏やかな微笑みと、お金持ちの彼の嬉しそうな笑みがいっぺんに映ります。それは少年にとって、とても嫌な光景でした。

 少女を待ち受ける未来が、決して美しいものではないことを少年は知っていたからです。

 少年にはどうすることもできません。とても歯がゆくもどかしい気持ちでした。


 その時です。

 少年の頭がひどく冴え渡りました。


(あいつを)


 少年が思いついたのは、お金持ちの彼にこれまで買われた少女たちと、これから買われるかもしれない少女たちをも救う、ただ一つの方法でした。


(いまはだめだ。夜中だ。夜中まで待たなければならない)


 幸い少年には物を「拝借」する手段、追っ手を振り払う足の速さと体力がありました。

 彼女を救えるのは自分しかいない。彼はそう確信したのです。

 少年は、少女を心から愛した最初の一人でした。


 その晩、少年は「拝借」したナイフを持ってお金持ちの男の人の家に忍び込みました。

 その家はとても広く豪華です。そしてキンキンと静まり返っていました。

 耳を澄ますと、遠くから男の人の声と何かを激しくぶつような音が聞こえます。声と音は、どうやら二階の端の部屋からのようでした。その音のする方へ、少年は一目散に走りました。


(早くしないと、あの子が死んでしまう)


 少年は今までのどんな時よりも早く走りました。少年は声と音のする方とは反対側の、一階の窓から忍び込んだのです。

 少しだけ入り組んだ屋敷を走って、少しだけ息を切らして少年がその部屋にたどり着いた時、少女のその無垢は既にお金持ちの彼のせいで無くなっていました。

 少女は微笑んでいました。その姿はやっぱり美しく、気高くも見えます。彼女の高潔さだけは、誰にも奪うことができなかったのです。

 少年は少しだけほっとして、信じられないほどに怒っていました。彼女をよごしたお金持ちの彼と、間に合うことのできなかった自分を心から憎みました。

 二人分の怒りと憎しみを込めて、少年は「拝借」したナイフをお金持ちの彼に突き立てます。何度も何度も突き立てます。少年も少女も、その行為が間違っていることはわかっていました。けれど誰もそれを止めません。

 いい加減少年の腕に力が入らなくなったころ、少女が一言呟きました。


「あなたと彼の罪を赦しましょう。神はその心の内も見ておられます」


 静かで、それでいて凛とした透き通った声でした。

 少年は自分の行いと心の醜さ、いつの間にか頬を伝っていた涙に気が付きました。美しい彼女を彼は愛していましたが、共にいることはもうできません。少女の気高さはそれほどまでに神々しく、彼の気持ちは頑なでした。


「ここを出たら教会へ行くんだ。司祭さまに全てを話して、神様に赦してもらうんだ。そしてきみは教会で暮らせるようお願いするんだ。それが一番いいはずだから。教会までは僕が連れていくから」


 少年は亜麻色の瞳を見つめて言いました。さすがの彼も体力の限界です。けれども彼女を教会へ連れて行かねばなりません。このままでは、気高く美しい彼女が人殺しにされてしまうからです。


「そうしたら、あなたはどうするのですか」


 透き通った声が透き通った質問をしました。

 答えを聞かずとも、少年がそのあとで生を手放すだろうことはわかっていました。けれどそれは決して受け入れたくはないことでした。


「僕は大丈夫。きみに赦してもらえたのだから」


 少年は精一杯の強がりと一緒に、精一杯の愛を伝えました。

 少女の手を取り、町の端にある教会へと走ります。走る速さはいつもよりも随分と遅いのに、教会へはあっという間に着いてしまいました。

 息を切らす二人は、どちらからともなく握っていた手を放します。

 藍色の空に金糸雀色の有明月が浮かんでいました。


 次の日の朝、少年は教会裏の山の中にある湖に浮かんでいました。その顔はとても穏やかで、満ち足りたように見えました。




 少女はその後聖女と呼ばれ魔女と呼ばれ、今は幽霊と呼ばれています。

 彼女は人々に愛され、神に祝福されています。彼女の願いと祈りは神の耳へと必ず届きました。

 それは温かく幸せなことでした。

 なれども終ぞ、少年と再び会うことだけは聞き届けられませんでした。

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