クロフネ3世 ホラー短編集
クロフネ3世
第1話 裏返る目
淡い赤や黄色、それに青まで混じった綿の塊がそこら中を行き交っている。甘ったるい香りを振り撒きながら、広場一帯をカラフルに彩っていた。女子高生を中心とした若い女性たちはそれぞれ思い思いの場所でスマフォのレンズを向けている。人によっては、頭から靴まで全身カラフルに染め上げて雨上がりの虹もその恥ずかしさに白くなりそうなほどに目だった女性も闊歩しているのだが、むしろそういう人間ほど周りから写真撮影を求められていた。どうやら、その場では派手に目立ち若者たちから注目を集められた人間が勝者のようだ。
誰もが楽しそうに笑顔を振り撒いている様に、企画した西城秀彰は満足そうに頷きながらベンチに腰かけた。
連休中に公園内で開催されるイベントの企画を依頼され、西城はとにかく停滞し陰鬱な世の中にたいしてカウンターを与える空気間を演出したかったのだ。世間みんながもっと派手で大胆に行動していないと世の中がよくなる訳がない。それが西城の持論である。だからこそ、大胆に公園を派手に彩りたかった。夜になれば、暗くなっても公園内は電飾でもっと派手に彩り花火も打ち上げる予定である。そうなれば、若い人たちは更に高揚して西城の演出にときめいてくれるはずだ。西城は確信している。
西城は、もう一度ベンチからゆっくりと首を降りながら派手に彩られた公園を眺めようとした。その彩りが実に心地いい。
しかし、その彩りを楽しめたのはその瞬間までである。
「……フギュッ!」
自分でも聞いたことのないような声をあげながら、西城は首を曲げられる限界にまで曲げそのまま気を失った。
最後に見た光景は、味気なく真っ白い球体の塊であった。
刹那的に見えたそれは、野球のボールに違いない。
そういえば、子供たちが河川敷で野球をやっていたな。薄れゆく意識の中で、西城はそんなことを思い出した。
「あっ……あっ、あー!」
奇声を上げた後、西城の視界が裏返り裏世界へと入り込んだ。視界全体が大きく霞み歪む。全体的に灰色がかり、黒い線が何本も走っている。
これで何度目だろうか。西城は少し記憶を探ろうとしたがすぐにやめた。回数などに意味はないい。その世界に入ったことに意味があるのだ。西城は、口の端を吊り上げて嬉々とした笑顔を浮かべた。周囲にいた会社の同僚が、その表情に気づいてまたかと苦い顔をした。
西城の眼球に野球ボールが直撃し潰れかかり、緊急手術が行われた。幸い、担当した医者がその手の名医であり驚くほどに西城の眼球は修復された。しかし、全てが修復されたわけではなかった。
西城の視界は手術後頻繁に裏返るようになった。
眼球が裏返ると、西城の視界は裏の世界を見せる。裏の視界とはいえ、それは西城が勝手に認知しているのであり本当に裏の世界があるかは分からない。しかし、視界は大幅に歪み現実的でない光景を西城の脳内に投影するのだ。
そこは、実態のない世界である。確かに目の前に誰かいるのは認知できる。しかし、それはくっきりとした人の姿をなしているわけでない。光の線のようであり、波動でもあり、時として音が鳴り響きその存在を知らしめている。
たとえば、隣にいる入社三年目の結城由依は今奇声を上げた西城を見つめてベースのような低く震える波動を西城に放っている。由依の特徴である大きな瞳は全く見えない。その代わりに低く響く波動と紫と藍色を混ぜた色がうねっている様だけが確認できる。声は全く聞こえない。何か言っているのかもしれないが、裏返った世界では人の声は西城に届きはしない。西城が声を発しても、それが声となって相手に届いているのかも分からない。
パソコンを覗いたって、そこに何が表示されているかも分からない。そもそも、パソコンがそこにあるのかも分からない。物質は殆ど黒い波動を放つにすぎない。全てが同じに感じられる。
こうなってしまえば、仕事どころではない。基本的な生活もままならない。西城は、視界がもとに戻るまではただじっと周囲の波動だけを感じて動かずにいる。最初は頭が打ち付けられたかのような強い波動が周囲から浴びせられた。西城の周辺にいた人間の黒い感情が波動となり西城を襲っていたのだろう。
「おのれ!」
と西城は呪詛の言葉を漏らして黒い波動に耐えていた。
視界が元に戻ったときの周囲の現実的な表情を西城は忘れはしない。
それから、西城が出す企画案は通りにくくなった。
「何を意図しているのか理解できない」
何度この台詞を聞いただろうか。
元々、西城の企画は奇抜な内容が多く通る確率は少なかったのだが、それでも通ればスマッシュヒットとなるため社内ではそれほど疎まれる存在ではなかった。
それが、手術後に世界が裏返るようになり西城の企画は変わった。感性そのものまでが変わった。いや、変わったというよりも過剰になったと表現できる。時に何色ものペンキをぶちまけたかのように過激な企画を打ち立てたかと思えば、人の死を取り扱うような陰鬱な企画をぼそりと提案することもある。すっかりと人が変わった。いや、過激になった。
ある日、西城の企画が通りそうになったときがある。神社やお寺関係者がエンターテイメント性を含みながらのイベントを企画していることに刺激されたのか、世界の宗教を取り扱ったイベントを開こうというのだ。上司が聞けば、既に力のある宗教関係者とは接触し好感触を得ているという。
神社仏教イベントの成功もあり、会社側は西城の復活も兼ねて期待を望んだ。だが、企画が本格的に動き出す直前で急に中止が決定された。もちろん、西城は憤りを表した。世界は裏返り、どす黒い波動が会社全体を包んでいるように感じられ、耳をつんざくようなノイズが耳を襲った。西城は、あまりの苦痛に呪詛のメールを直属の上司に送り会社を一日休んだ。
しかし、会社側の判断は正常な感覚なら正解である。
西城が紹介した宗教者は、呪術を扱うシャーマンだった。
呪いなど、エンターテイメントを重視する企画会社では到底扱いきれない。
会社の人間は、この一件で西城が本当に危うい状態にあることを強く認識したのである。
「西城さん、最近は死んだ煮干しのような目だな。それじゃ、いい出汁とれないよ」
いつも独特の言い回しで西城に話しかけてくる同僚の矢野。丸っこい顔が人懐っこく、周囲からすかれている。
そもそも、煮干し事態が死んでいるだろ。
といつもの西城なら淡々と突っ込んでいたところだ。
しかし、西城は矢野の顔を見るや顔をしかめた。
「なんですか? その顔?」
矢野は少し体を引いて訝しがった。いつもの西城なら、快活な態度が期待できたのに。あまりに予想外な反応に戸惑いを隠せない。
矢野は出張中で知らなかったのだ。西城の様子が激変したことを。だから、いつもの調子で気軽に西城に話しかけてしまった。
矢野は、西城にとって会社で数少ない企画の理解者である。矢野は西城の感性を買っていて、企画会議の時は一人でも強く推し進めていることが多い。そんな理解者の矢野を西城は剣呑な目付きで見ていた。予想外の態度に、矢野は次の言葉がすんなり出てこない。
西城は、まさに裏の世界に入り込んでいて矢野を明確に認知できていないのだ。その代わりに、矢野から薄い黄色い波動を感じ取っていた。薄いとはいえ、裏返る世界を見てから初めての暖色系の波動である。初めての感覚なだけに、西城はその受け取り方に困惑を覚えているのだ。ネガティブな波動こそが裏返る世界では当たり前だっただけに、この感覚の受けとり方には迷いが生じる。
「西城さん?」
もう一度矢野は声をかけたが、そこで近くにいた由依がこっそりと声をかける。
「矢野さん、ちょっといいですか。向こうで」
由依が指差した方には、小さな個室の打ち合わせスペースがあった。
由依の真剣な目付きに矢野は何かを感じとり、静かに頷き促されるままに打ち合わせスペースへと移動する。
「西城さん、ダメかも」
部屋に入るなり由依の口から出てきた言葉がそれだった。少しため息混じりの言葉に、由依の落ち込んだ態度がうかがえる。由依もまた、どこかで矢野の企画を評価していた人物の一人である。
「何があったの?」
陽気な矢野も、さすがに由依の態度に怖くなっていた。
「分かりません。ただですね、手術から戻ってきてすごく暴力的になりました。正直、隣に座っていて怖いんですよね。突然刺されるじゃないのかと。怖いですよ」
「いやいや、大袈裟な」
矢野は顔をしかめながら答えたが、由依はそれでも真剣な顔つきを変えない。
「大袈裟だって笑いたいんですけど……本当に怖いんです。急に奇声を上げるし、目線がどこか定まらないし。三日前だったかな、ハサミをじっと睨んでることもあったり」
由依の変わらない言葉と態度に、矢野は少しずつ真剣さを受けとり出す。そして、矢野の心の中にも恐怖の感情が少し芽生え出していた。
「でも、何があったのよ?」
「分からないです。何もなかったようにしか思えないです。みんな首をかしげてますよ」
そこで、由依は大袈裟なほどに首をかしげて見せた。それを見て、矢野も真似して首をかしげて見せる。
そこで、部屋の扉が突然開かれた。
二人が驚いて入り口を見ると、そこには目を見開いた西城が立っていた。
興奮しているのか、目が血走り鼻息が洗い。
その姿を見て、矢野は西城がすっかりと豹変してしまったことを確信した。
西城は、見えない視覚の中でおかしな波動を感じ取った。
真っ正面から受け止めているっと針で体の至るところを刺されるような刺激的な波動に。色はどぎついピンクと黄色が混じりあったような色。多くの人間がやりすぎと感じられるような色合いだ。
しかし、西城にとってはその波動がどこか刺激的でその針のように刺す波動も受け入れることができた。今まで会社では味わえなかった波動である。会社で味わう波動はどれも不快でやる気を削がれるそればかりであった。それだけに、その刺激的な波動は西城にとって驚きと感動すら与えるのだ。
だが、違う。
それではない。
西城は、その波動に余計な何かが混じっているのを察知した。
それはまだ小さな波動にすぎない。しかし、刺激的な波動の中に何かぬるっとしたような気持ち悪さが混じるのだ。本当に些細な感覚にすぎないのだが、過敏な感覚になり果てている西城にはそれが気になって仕方ない。
刺激が心地よいだけに、その感覚が余計に邪魔に感じる。
西城は、その波動にあえて意識をじっと集中してみる。
その波動に混じる不快の正体を探るために。不快な要素を取り除くために。
だが、凝視すればするほど、不快さはねっとりと波動の中に広く溶け込み出し、波動の色までもが青や灰色のような味気ない色へと変色し始めてきた。
その変貌に、西城は激しく動揺する。刺すような刺激も取り払われ、なんだかぬるま湯を引っかけられたような気分になっていく。
お前もか? お前もなのか!
西城は、弱りゆく波動を前に力強く自分の手で自分のこめかみを殴った。
「えっ……どういうこと?」
矢野はあまりにも予期せぬ光景に言葉を失い、何度も視線を西城と由依の間を往復させた。由依にこれはどういうことかと説明を求めているつもりなのだが、その由依も説明しようがなく戸惑っている。西城の変貌ぶりはかつてないようなほどに感じられ、由依は身を引いているくらいだった。
今の西城は、憤怒の鬼と言わんばかりに激昂した顔を作り自らの手で何度も自分を殴っている。
「そんなに叩いたら、アイデア抜け落ちますよ」
矢野はそっと作り笑いをにじませながら西城に話しかけた。
けれども、西城は矢野の声が届いていないのか手を止める気配がない。
「西城さん!」
あまりにも西城がおかしいので、穏和な矢野もついには不安に耐えられず怒気を強めながら西城の手を掴んだ。
そこで、西城は悪夢から目覚めたように呆然とした顔をしながら殴る手を止め荒い呼吸を繰り返す。
「西城さん?」
矢野はそっと呼び掛けるのだが、西城は呆然とした顔のまま何も答えない。
その内に、矢野の顔を少し見つめると不意に踵を返して自分の机へと引き返し、そのまま荷物を持って会社を出ていってしまう。
「西城さん!」
矢野は呼び止めようとしたのだが、そんな声はもう西城の耳には届いていなかった。
それから、西城は会社を無断欠席するようになった。
上司が電話をかけても、矢野がスマフォアプリ経由で個別のアカウントに連絡を入れても反応はなかった。
無断欠勤が一週間続いた朝、さすがに矢野は西城の家へ直接向かうことを決意した。むしろ行動するのが遅れたと思えたくらいだ。会社の人間が誰も真剣に気にかけなかったのは、もう西城という人間が疎ましいだけになっていた、その証拠かもしれない。
会社から聞いた西城の住所を見ると、矢野は首を大きく傾げた。矢野が知っている住所とは違ったからだ。違ったから傾げただけではない。その場所にも違和感を覚えたのだ。以前までの西城は、都心付近の東京湾を一望できるマンションに住んでいたはずである。西城から直接住み心地を聞いたこともある。しかし、会社から告げられた住所は、都心から若干離れた下町方面であった。
しかも、駅から離れているアパートである。西城の給料から考えると、明らかに場違いな住まいだ。これは、矢野も首を傾げざるをえない。
更に。実際に矢野が教えられた住所へたどり着くと、またも首を大きく傾げたのだ。
築五十年は経っていそうな古びたアパートであった。
都心に建つタワーマンションから、給料が落ちたわけでもないというのになぜ下町にある古びたアパートに移り住んだのだろう。時おり掴めない性格を覗かせる人間ではあったが、ここまで大きな変化を見せることはなかった。それだけに、矢野はアパートの前でじっと首を傾げたまま立ち止まっているのだ。
不可解な疑問が矢野の中でじんわりと溶け出し、それはやがて会社で見せた西城の狂気と混じり合い恐怖の感情を喚起し出す。西城の部屋はアパートの二階であったが、外に備えられた階段を上がる時に発せられたコツコツという音が急に不気味に感じられてきた。
西城は、こんな古びたアパートで会社を無断欠勤してどんな生活を送っているのだろうか?
「ここか……」
矢野はアパートのとある部屋の前までたどり着いた。扉前には西城の名前は見当たらない。けれども、確かにそこは会社で教えられた住所の部屋だ。
矢野は、右腕を胸の前に差し上げたあと数秒動きを止めたが、意を決して扉を力強く叩いた。
「……西城さん?」
声が僅かに上ずった。緊張の現れだ。
いきなり扉が開いて、西城が襲ってこないだろうか。
そんな不安混じりの想像までしてしまう。
しかし、それは矢野の勝手な想像だということが数分後にわかる。
いくら待てど、扉の奥からは何の反応もなかった。扉越しに耳を澄ませて中の様子をうかがっても、物音ひとつ聞こえてこない。どうやら、西城は留守なのかもしれない。
矢野は諦めて踵を返し一旦会社へ戻ることにした。
「……念のため」
階段を降りたところで、矢野はスマフォを取りだし西城の番号を呼び出そうとした。
刺激的な音や波動を求めていると、西城は自然とある場所へと導かれていった。何も考えずに電車を乗り継ぎ、全く訪れたことのない地へと向かっていった。そこに疑問は感じなかった。むしろ、感じるままに向かうことこそが生存本能ではないかと思えた。
会社に出社する気はもはや失せていた。仕事に時間を費やしたところでそこから新鮮で刺激のある波動を感じることはないだろう。僅かに感じるときもあったが、刹那的な瞬間にすぎなかった。会社で時間を消費しいたところで何も得られはしない。だからこそ、西城は平日の昼間にも関わらず感じるままに先を進んでいた。
見知らぬ駅で降り、古びた一軒家も立ち並ぶ寂れた住宅街を突き進み、やがて西城は一軒のアパートへとたどり着いた。
明日取り壊しにあってもいいような古びた二階建てのアパートである。壁が黒くくすんんでいて階段は全体が完全に錆びついていた。全室が埋まっているようではなく、パッと見は一階の四部屋中三部屋に人が住む気配がない。表札に名前はなく玄関前には何も置かれていない。一室だけが、表札は出ていて窓から覗ける部分に物が置かれているのが分かる。ただ、生活音は聞かれない。留守なのかもしれない。
しかし、西城が気になったのはまさにその部屋だった。
西城は、やや興奮したのか息を荒げながら扉に近づいた。
表札には、荒木という名前が書かれてある。ただ、西城にはその文字は読み取れない。目が裏返っている状態では文字がうまく認識できない。その代わりに、部屋の中から桜色のような仄かな波動を感じていた。
西城は、扉の中から溢れ出してくる波動を受けながらにこやかな笑顔を作っていた。
そして、そっと扉を開けようとドアノブに手をやる。
だが、ドアノブは半回転で抵抗し解放してくれはしない。西城の手元からは冷たく黒い波動しか感じられない。何度もドアノブを回していると、やがて波動だけでなくキーンという耳障りな音までもが響いてきた。
そこで、西城はあまりの不快さに身を引いた。
少し距離をとって様子を見れば、また暖かな波動は感じられる。確かに、部屋の中には西城に心地のよい波動を送る主が存在する。是が非でも直接接触して感じとりたい。けれども、扉が西城の侵入を拒みそれは果たせない。蹴破れば開きそうなほど脆弱な扉だというのに、ドアノブから不快な波動を放ち抵抗している。
思いきって、蹴破ってしまおうか。
そんな考えもが西城の頭には浮かんでいた。
しかし、できない。
躊躇っていると、背後からドアノブ以上に不快な波動を感じたのだ。
そこで、タイミングよく視界が元へと戻っていく。
少し離れたところにある一軒家の玄関越しで、見知らぬ年老いた男が西城をじっと見つめていることに気がついた。不快な波動の正体は、その男に違いない。
きっと不審者だと思われているのだろう。空き巣か何かと思われているのかもしれない。
西城は、慌ててその場を立ち去ろうとした。
けれども、そこでふと立ち止まる。
とあるアイデアが急速に西城の頭を支配しようとしている。
「あのー、すみません」
西城は、思いきって男に話しかけようと男がいる一軒家へとゆっくり歩き出した。
「もしかして、このアパートの大家さんじゃないですか?」
「……ええ、そうですけど?」
男は、話しかけられるとは思ってもみなかったのか、西城の態度に慌てて逆にキョドる姿勢を見せた。
「ああ、よかった。僕、部屋を探しているところだったんです。見たところ空いている部屋もありそうですけど、借りることってできないですか?」
「借りる? 部屋を……え、部屋を借りたいのかい? あのアパートの」
これまた予想外だったようだ。男はすっかりと戸惑って目を丸々と開いている。あんなおんぼろアパートに住むなんて、そう言いたげな顔だ。
「はい、すっかり気に入ってしまって。できたら、もう今日からでも」
西城は、これでもかというにこやかな笑顔を作って男を見つめた。
電話が鳴る音がする。どこからははっきりと掴めない。けど、確かにすぐ近くでなっている。
矢野は、全感覚を耳に集中させ音の鳴る位置を探る。
結果、とある部屋の中から聞こえるのが分かった。アパート一階の部屋だ。ちょうど、西城の部屋の真下にある部屋である。矢野は扉に耳をつけて中の音を探る。
ここで間違いない
矢野は、そっと玄関脇にある小さな窓から中の様子を探る。
だが、暗くて何も見えない。表札には荒木という文字が読み取れたので空き家ではないはず。
スマフォの音が鳴り響く以外物音が聞こえない。
誰もいないのか。
矢野はどうするか迷った。
西城のスマフォが中にあるのは確かなようだ。ならば、素直に引くことはできない。
「すみません!」
意を決して扉を叩き家主を呼び出してみた。
だが、反応は全くない。もう一度扉を叩いてしばらく待てど、誰かの気配すら感じられない。
どうしたものか。
「あんた、どちら様? 荒木先生とお知り合い?」
不意に背後から呼び止められた。
振り向くと、年老いた男が訝しげな目で矢野を見ている。
「すみません、ここの人とは知り合いでないんですけど……別の知り合いのスマフォにかけたら中から音がして……」
矢野は気まずそうに説明をした。
「音?」
男は、眉を潜めて扉に近寄り耳を澄ますしぐさをする。
「……うむ、するね。これ、あんたの知り合いのかい?」
「はい、今かけてます」
そう言って、矢野はスマフォを男に示した。
「……うむ、荒木先生、最近見かけないな。うむ、うむ……」
男は、一人考え込むようにして何度か頷くと。
「ちょっと待ってな。合鍵持ってくるから」
とだけ告げると、踵を返して向かいの一軒家へと走っていった。
しばらく待っていると、男が鍵の束を手にして戻ってきた。
「荒木先生、大家だけど、開けるよ!」
大家は、大声で部屋の中に声をかけるとすぐに鍵を扉に差し込んだ。
ギギギと立て付けの悪そうな音を発しながら、扉はゆっくりと開く。
そして、部屋の中を露にする。
埃臭い空気が漂い出した。
「ありゃ、汚いね」
大家が呆れた声を漏らした。
それは、矢野も同じである。
部屋の中は物で溢れていた。何が入っているかわからない段ボールや画集らしき大きな図版の本が所狭しと積まれている。
「一体何をしている人ですか?」
矢野は積まれた本の表紙を眺めながら男に聞いてみた。
矢野が適当に手にした本は、骸骨と鮮やかな赤に染まった花が無数に描かれた絵画の表紙であった。
「荒木先生のこと? 一応、画家っていってるけどね、殆ど無職のようなものだよ。もう六十近くなんじゃないのかな。それで売れない画家だったら、もう無職でしょ」
「画家ですか……」
なるほど、それで先生と呼ばれているのか。
矢野は男の呼称に納得はいったものの、なぜ画家の家に西城のスマフォがあるのか、余計に気になった。
「あっちの方だね」
大家は、スマフォの音が部屋の奥、窓側からすると指差した。
窓際近くも、本がうず高く積まれ、またイーゼルに立て掛けられた大きなキャンパスも障壁となりその先に何があるのかが矢野の位置からはわからない。
「西城さん、いますか?」
矢野は本の山へ問いかけた。
だが、反応はない。聞こえるのはスマフォの音だけ。
「西城さん?」
矢野は、もう少し大きな声を出して本を跨ぐようにしながら部屋の奥へと進んだ。
大家は、何か恐れているのか部屋の入り口からそれ以上入ってこようとしない。
窓の一部がわれているのに矢野が気がついた。鍵付近がわれているところを見ると、侵入目的なのが分かる。西城がやったのだろうか。
床を見れば、ガラスの破片が散らばっているのが見えた。
物取りでも入ったのだろうか? こんなおんぼろアパートに? 西城がやる動機が見えてこない。だが、物取りがこんな家を選ぶだろうか。よほどセンスのない物取りなのかもしれないが。
そして、矢野は破片だけでなく別の何かを見つける。
「さい……ウヒッ!」
突然、矢野は間抜けな奇声を上げて本をなぎ倒しながら背後に倒れ込んだ。
ドミノ倒しのように、積み上げられた本が崩れだし埃を巻き上げる。
「どうした?」
大家が慌てて声を上げたが、その体は半分玄関へ戻っている。
「……人が、死んでる」
大家に問いかけられてから数秒開け、矢野はようやく力ない声で反応した。
矢野が震える指先で示す先には、本の山の隙間に僅かにできた空間にパズルのピースを嵌め込んだかのようにぴったりとはまった人影があった。一瞬、人形かと思うほどにその影は小さく細い。だからこそ、一瞬矢野は人がと表現したが自分の言葉を疑ったくらいだ。だが、混乱する頭でも辛うじて残った理性をもとに倒れた人影に近寄りきっちりと顔を確認する。
ダメだ、人だし、死んでいる。
矢野は、二度目の驚きを小さく見せ、口を押さえながら二歩ほど後退した。
死体が細いのは、荒木がすっかりと痩せ細っていたからだ。ミイラかと思えるほどに骨と皮の状態になっている。その状態から察して、荒木は餓死した可能性がある。
「大家さん、警察……警察呼びましょう。この人、死んでますよ」
「警察……か。そうだな。待ってなされ。今呼んでくる」
二人とも、死体を前にして気が動転して言葉がすらりと出ていなかった。
それでも、事態をなんとか理解して大家は警察を呼ぼうと自宅へと走り出す。
一人残された矢野は、気味が悪くとてもじゃないが部屋で待っていられない。同じように出ていこうとした。しかし、そこで肝心なことに気がつく。
西城の姿がない。
部屋にあった死体は西城のそれではないのは間違いない。スマフォは、死体のすぐ近くに転がっているのが分かった。では、西城はどこに。
そこで、矢野は部屋を出るのをやめる。
そのまま、視線をもう一度部屋の中へと走らせる。
室内はとても狭い。いくら物で溢れているとはいえ、探すところは限られている。
台所と一緒になった一間しかない。
パッと見は西城の姿はない。しかし、どこかに西城がいる気がして矢野の足は止まったままだ。
そこで、矢野はある箇所に目が止まる。
部屋の端にある扉だ。
ここは?
矢野は、ゆっくりと本の山を跨ぎながら扉へと近づいた。
中はトイレだろう。考えなくても分かる。
さて……。
扉の前へたどり着いた矢野は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
背後の死体の影響で扉を開けるのにも度胸が要求される。
ガチャリと軽い音がして扉は簡単に開く。
「……西城さん!」
そこに、西城の姿はあった。
便座に、踞るようにして腰掛けている。両足も便座に上げていて、体育座りのような格好だ。顔は足に閉じ込めるようにしているので表情はわからない。
ただ、小刻みに体が震えているので少なくとも死体になっているわけではないのは分かる。
「西城さん? こんなところでどうしました?」
矢野はそっと西城に話しかけた。
だが、西城から反応は返ってこない。
「西城さん?」
矢野はもう一度話しかけながらトイレの中に入り込んで西城の肩に触れようとした。そこで気がつく。西城が何かを抱えながら踞っていることに。
なんだろうとよく見ると、それはキャンバスだというのが分かった。
恐らくは、荒木が描いた作品のひとつなのだろう。ここまでガッシリと掴んでいるところを見ると、思い入れがあるのかもしれない。
「西城さん、警察が来ますから、一度部屋を出ましょう」
矢野は改めて西城に声をかけて肩を少し強めにつかんだ。
そこで、ようやく西城は埋めていた顔を持ち上げた。
「……ウヒッ!」
矢野は荒木の死体を見つけたときと同じような奇声を上げ、同じように背後へ倒れこんだ。
西城の顔を見ての反応。
何がどうなってるんだ?
矢野はせっかく落ち着いてきた頭がまたすっかりと混乱し何をどう整理すべきなのかもはや考えられなくなっている。
その現況こそ、西城の顔にあった。
見上げた西城は目を開けていない。いや、もはや開けられない。
しかしながら、その両目からは真っ赤な血が流れ落ちた痕跡がおぞましいまでに刻まれていた。恐らくは、目に重大な傷を負ったのだろう。もう見えていないのかもしれない。矢野は見ているだけでも痛ましくて目を伏せる。しかしながら、西城のおぞましさはそこだけでなかった。
笑っているのだ。
そんな傷を負いながらも、西城はまるで傷が快楽をもたらしているかのように愉悦の笑みを浮かべている。血の涙を流しながら。
体が微細に揺れていたのは、笑っていたっからなのだ。
「西城さん……」
無意に矢野は西城へ呼び掛けていたが、もうその声は西城には届いていない。
体が痺れ頭が熱くなる。全身が性感帯になったかのように激しい快楽が西城を刺激し続けている。絶え間ない刺激は、もはや何時間も前から西城の理性を奪っていた。
西城は、自身が抱える物体から今までに感じたことのない強い波動を受けていた。
それは、何キロも離れた位置にあった西城を引き寄せたくらいに強い波動だった。
運命に引き寄せられた恋人が邂逅するとかそんなちゃちな出来事ではない。それは、西城にとっては巨大な自然現象に巻き込まれたようなものだ。
だが、災害ではない。むしろ神が舞い降りたとも同じ事象。
まさに、西城は天に召喚されたかのごとく至福の快楽を与えられたのだ。
西城は、その至福から自ら逃れないように裏返った目を潰した。潰すことにより裏返ったままの世界にとどまるためだった。正規の世界などもう西城にとっては意味を成さない。裏返った世界こそ西城が住むべき場所。
西城は、ただその天へのチケットである波動を発する長方形の何かを抱え快楽に溺れるだけだった。
それが荒木の描いた人生最後の絵だということも、今の西城には無意味な情報なのだ。
了
クロフネ3世 ホラー短編集 クロフネ3世 @kurofune3
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。クロフネ3世 ホラー短編集の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます