私は琥珀になりたい
霧島さんの母親が迎えに来るまでの間、保健室の秋谷先生が、霧島さんの手当てをしてくれることになった。
僕は授業に戻るように言われた。昼休み後最初の授業は、古語だった。――霧島さんが好きだと言った科目だが、僕は嫌いだ。でも、学ばされるとか、問題を解くことは、彼女も嫌いと言っていた。
「学ぶのは好きよ。でもそれを測ろうとするのは嫌い」
そんなことを彼女は言っていた。
「僕は文系科目は嫌いだ。答えの定義が分からない」
霧島さんにそう吐露したことがある。三ヶ月ほど前かな。彼女がまだ、壊れていなかった頃の話。テストが返って来て、散々な成績だったのを霧島さんが剥奪。ぴらぴら風にそよがせて、点数を笑った。
「でもー、そーらーたは、答えが決まっている数学とかも苦手だよねっ」
「うるさいな」
懐かしい歌が彼女の声で聞こえてきた。
歌う猫は、僕の前の席。放課後や休み時間、主のいない机の上が定位置だ。授業中は僕の隣で、真剣にノートを取っていた。そして休み時間になれば、途端に猫は饒舌に歌い始める。その緩急が、僕には心地よかった。
「だいたい、答えがないものを測って、人の何が分かるんだよ。感受性や受け取り方を操作されているみたい」
「あー、空太がまた屁理屈言ったーっ」
「でも……、そういうの、少しあたしに近いかな」
猫は飼い主をからかい、時に頬を摺り寄せる。そんな歌う猫に、僕は惹かれていた。僕の席の右隣。涼しげな切れ長の瞳で、長く艶やかな髪を垂らしながら、シャープペンシルをしなやかな手つきで踊らせる。そして、僕の視線に気が付くとそっと微笑みかける。
――ふと追憶から現実に引き戻される。そんな彼女は、もうそこにはいないの。落胆の中、授業は終わってしまっていた。
ノートに明らかに途中までで途切れてしまっている文章がある。いつもは、こんなことがあれば、彼女にノートを見せてもらえるのに。僕は再びノックしようとした記憶の扉の前で、そっと腕を下ろした。やめよう。思い出すだけ無駄だ。
「なに、辛気臭い顔してるんだよ」
霧島さんがかつていた右隣の席を凝視していた僕に、背後から声がかかった。反対隣りの
「
馴れ馴れしいんだよ。心の中で、悪態をつくも成すがまま。僕の頭は、霧島さんの席を向いたまま固定されてしまった。僕は狩谷が嫌いだ。いつも僕と霧島さんの仲をからかってくる。
「心配だな。霧島さんのこと」
「階段から落ちたけど、目立った外傷はないって」
彼女は病気だ。病気で変わってしまった。精神科か何かに見てもらえば、どんな病気か分かる。僕は時々見舞いに行く。彼女が治ればまた、あのいつもの日々がやって来る。僕が憧れていた彼女に、きっとまた会える。
「それもだけど、あまり彼女を不安にさせるなよ」
不安。
その言葉を聞いた瞬間、身体がぴくりと反応した。彼女は傷だらけの顔で涙を流しながらこう言った。「安心させて」と。裏を返せば、彼女は、不安に苛まれていた。
「あいつ、授業中もノート、一切取らずだったからな。悩み事でもあったんじゃねえのか」
憑りつかれたように、自らの皮膚が擦り剥けるまで洗ったり剃ったりしたのも、すべては衝動的な不安に駆られたから。
でもそれは、病気のせいだ。彼女は病気のせいで、不安になってしまっただけなんだ。だから、僕は悪くない。僕は何もしていない。
「僕は関係ない」
「えっ……」
僕が、彼女を不安にさせたわけじゃないっ!
僕が、彼女を変えてしまったわけじゃないっ!
だって、彼女は病気なのだから。僕は悪くない。僕は悪くないっ!
そう自分に言い聞かせる。
「だって、僕には霧島さんが分からない」
狩谷の手の振動が、こめかみを通して伝わる。彼は僕の顔を自分の方へと向き直させ、瞳の奥をぐぐっと睨んできた。
「おまえっ、それ本気で言って――」
「皆瀬君っ!」
狩谷が言いかけたところで、始業間近の教室に保健室の秋谷先生が荒い息で入ってきた。ひどく慌てているのか、まだ肌寒いこの時期にじっとりと汗をかくほど必死で走ってきたよう。何かがあったことは予想できた。
「き……、霧島さんが、保健室からいなくなりましたっ!」
***
授業が始まる。教室に入って席に着かなければならない。
廊下に訪れた静寂の代わりに、教室からはチョークの音と先生の声がする。
授業が始まっても教室にいない僕。廊下をばたばたと足を鳴らして走っている僕。――もう、授業なんて、どうでも良かった。
彼女の面影を探して、校舎の中を駆けずりまわった。使われていない教室、理科室、音楽室、家庭科室、校庭。それでも彼女は見つからなかった。
霧島さん、どこに行っちゃったんだよ。
体育館。どうやらこの時限は、理科室や音楽室、家庭科室と同じく使われていないようだ。走り疲れて、膝ががくがく震えている。息が上がってしまっている。――いや、少し朦朧としているくらいだ。もう思いつく限りの場所は探し回った。
体育館の中も、人の気配が感じられない。千鳥足でふらふらと不安定な足どりで、バスケットボールの際に使う、床のテープラインをたどる。センターサークルまでたどり着いて辺りをぐるりと見まわす。
――でも、彼女はいない。
「霧島さぁんっ! 霧島さぁん!」
叫ぶ声が空しく反響する。返事はない。失意に塗れて天井を見上げる。骨組みに挟まったままで抜けなくなってしまったバレーボールが目に入った。
『僕は関係ないよ』
そう言った自分の声が頭の中で反響する。それに合わせて自分が彼女の名前を呼んだ声も。
関係ない。
どうしてそう言いながら、僕はこんなところまで来てしまったんだ。僕はどうしてこんな必死になっているんだ。どうして、霧島さんがいないことに、こんなに不安になっているんだ。
膝を折り、床に手をつく。ようやく動転していた思考回路が落ち着きを取り戻し、ズボンのポケットの中身を探った。
スマートフォンは鞄の中だった。まず最初に彼女に電話をかける。そんな至極当りまえのことさえ、思いつかないほど冷静さを欠いていたのはどうしてだろう。
――僕は嫌だったんだ。
霧島さんが、いなくなった。そう聞いたとき。霧島さんが、僕の世界からいなくなったことを想像した。世界が色を失っていくのが見えた。
僕は、霧島さんがいなくなったら、不平と屁理屈にまみれて、それでも誰も僕を笑わない。「そんなこと下らない。もっと楽しいことを考えよう」、そう言ってくれる人が、霧島さんがいないと。
僕は、僕は……。
拳を握りしめる。まだ、校舎を全て調べたわけじゃない。落ち込んでいる間に、息も落ち着いた。
体育館倉庫のドアを開ける。いない。
舞台袖、いない。
演劇部が使う貸倉庫、鍵がかかってる。
二階、バスケットゴールをぶら下げる狭い客席のついたギャラリー、いない。
放送室、いない。
いない。いない。
僕はまた、拳を握りしめた。歯を食いしばった。
地下の購買部や食堂は、従業員のおばさんたちがいる。隠れたりなんかできないはず。演劇部や軽音部が使う音響シアターは鍵がかかっている。
じゃあ、この体育館の棟で彼女が行きそうな場所は。
てっぺん。
彼女がそう言っていた場所がある。体育館二階ギャラリー、非常口から屋外に出る。屋根の点検用に使う梯子を上る。貯水タンクがある緩いドーム状の傾斜の屋根、危なっかしいが彼女はそこに腰かけるのが好きだった。
梯子を上る手つきは慣れていて、するすると。普段から校庭の木に登ったりと、僕なんかよりもずっと活発だった。事実、体育の成績もいい。見た目は清楚な文学少女のクセしてお転婆だ。木に登り、屋根の上で安らぐ姿も猫を連想させた。
梯子を上り終える。僕の手つきは彼女のものと違って、ぎこちない。
ドーム状の屋根の上に、体育座りをしているひとりの少女が――
「き、霧島さんっ!」
思わず走り出してしまった。ドーム状の柔らかなカーブを予測できず、足首をひねってしまった。それでも彼女のところまで走る。
「あ、そーらーたー!」
目が合った瞬間、彼女は歌った。もう聞けることのないその歌声が聞けた。もう会えることのない歌う猫がそこにいた。それだけで僕の胸は高鳴った。
「霧島さんっ! 大丈夫か? 心配したんだぞ!」
「そう……、ちゃーんと心配してくれてたんだー。よかったー」
調子も外れていない。口元を覆い隠すマスクのせいで少し籠った声になってしまっているのが少し残念だった。西に傾き始めた暖かい日差しが雲の切れ間から差し込む。昼休みに陰っていた太陽が再び地上を照らし始めた。
「もう来ないのかなーって……」
「秋谷先生が心配してたぞ。母さんがもうそろそろ迎えに来るってのに。いなくなったって大騒ぎで……」
「あたし、お母さんのこと嫌い」
「……、え……」
ぼそりと呟いた彼女を見やった、悲しく濁った瞳をしていた。
「鏡を見て不安になって、身体中をカミソリで剃った。血だらけになった身体を、母は怖がったわ。千尋は変わってしまったと……、それを聞いてしまって、また怖くなった。不安が不安を呼んで、あたしはついに顔も、見せられないくらいに傷つけて。――本当は変わっていないと思いたいよ。でも」
傷だらけになって、固まった血がべったりと付いた、ぼろぼろの手を太陽に透かす。彼女の瞳の色は濁りを強めた。
「こんな手じゃ、言い逃れできないよね。‘病気だ’って言われても、怖がられて……も……、仕方のないことだよね」
また、彼女は不安に染まりつつあった。自分が変わってしまったことを母親に恐れられ、負のスパイラルに落ちた。大切な人に突き放される疎外感。彼女が求めていたのに、求める彼女を怖がって、不安にさせた。
今の彼女は、病気なんだ。病気は霧島さんじゃない。
だから彼女は、霧島さんじゃない。
そう考えて、僕は安心してしまった。なんだよ。それじゃあ僕は、彼女の母親と同じじゃないか。
僕は何もしていない。違う。
僕は彼女に、彼女の母親がしたことと同じことをしたんだ。彼女が不安がっているのに、それに恐れをなして、臆病にも何もしないということを、彼女にしてしまったんだ。
彼女の不安を解くんだっ! 彼女が望むことを、僕がっ!
「霧島さんは、病気なんかじゃないよ」
そんな言葉が咄嗟に出た。――正直、それでよかったのかは分らない。
彼女は肩を震わせて、恐らく笑った。目が少しだけ潤んで細まったから、多分、笑った。
「ありがとう、優しいんだね。でも、もう、いいんだ。あたし、自分で分かっちゃってるから。いつか、不安に押しつぶされて甘えることしかできない。怯えることしかできない。疑うことしかできない。そんな……、無益な存在になってしまうことが」
「違うっ! しっかりしろ! 諦めたりなんかするなっ!」
悲観的な言葉を吐く彼女の肩をがしりと掴む。
「僕だって怖いさ! 霧島さんの不安が分らなくて、怖かったんだっ! 不安にさせてしまって、ごめん。今までは不安だったのは僕だった。それを霧島さんは笑い飛ばしてくれたじゃないかっ! だから、僕は、霧島さんのどんな不安にも答えたいんだっ! 霧島さんのお母さんみたいに、遠ざけたりしない! 目を背けたりしないっ! ――だから、そんな諦めるようなこと言うなっ!」
彼女は右の瞳から、うっすらと細い川を流した。そして、とても悲しそうな瞳の色で笑った。それでいて、視線の先にいた自分の呼吸が止まってしまうくらいに鋭い眼力が僕に囁く。
“おねがい、とめないで”
太陽の光に照らされて、彼女の右手の琥珀のブレスレットが鈍く光った。彼女が謳ったあの詩が頭の中に響く。「きっと、今はまだ……」そう言って、彼女が嫌いと吐き捨てたその詩。
――私は琥珀になりたい。
私の世界に、甘い樹液を流し込んで。
美しいままで、時を止めて。
「ありがとう。それを空太が言ってくれるなんて、きっと、あたし……」
――愛しい、その手で。
今すぐ、時を止めて。
恨まないから。
「それは、空太にはできない」
「えっ?」
「なーんでもないっ! よいしょっと!」
彼女は自分に向かって囁いた何かを振り払うかのような仕草をして、立ち上がった。傷だらけの手でさらりと長い黒髪に手櫛を通す。
「ねぇ、そーらーた。あたしに出逢えて幸せ?」
「な、なんだよ急に」
「恥ずかしがらずに教えて」
「きま……って……」
「えー? なーにー? そーらーた、聞こえない」
「幸せに決まってんだろっ!」
悪戯っぽく迫る彼女に逆なでされて、逆上して言ってしまった。数秒後、我に返り、途端に恥ずかしくなってしまった。でも彼女はその言葉が嬉しかった。彼女が望んだ答えだったから。やっと、彼女の望みに応えてあげられた。そんな気がした。
「良かったぁ。それが聞けて、あたし……今、最高に幸せなんだっ!」
――あなたが幸せな時間で止めて。
そうしたら、私は琥珀になれるから。
目を細めてにっこりと笑ったあと、彼女はその脚で体育館の天井を勢いよく蹴って、跳んだ。彼女の体が宙に舞う。
「き、霧島さぁああんっ!」
琥珀 津蔵坂あけび @fellow-again
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。琥珀の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます