猫はもう歌わない

 霧島さんは、崩れ落ちて眠ってしまった。

 僕の肩に彼女の長く黒い髪が、絡みついていた。

 髪はまだ痛んでない。顔や体の皮膚のように自傷行為の対象にはなってないみたいだった。

 脚や腕、手の甲。今日は、頬や唇までも自傷していた。昨日よりも深く、痛々しい傷。こんなもやもやした中で、箸を進めることなんてできやしない。


 霧島さんは、歌うように僕に話しかける人だった。

 霧島さんは文学的で、屁理屈ばかりの僕に詩的な言葉をくれた。

 分らなくてもそれが、霧島さんの言葉だから、きっと素敵なはずだ。――僕はそう思った。そう思っていたんだ。


 いつも清廉とした佇まいで、僕よりも背が高くて、手足の線が綺麗で。透明感のある白い肌の下から、血色の良い薄桃色が滲み出ている。僕を見つめる瞳は爛々と輝いていた。そう、今も彼女が右手につけている琥珀のように。

 何故だろう。僕には、琥珀が綺麗だなんて思えなかったはずなのに。光が鈍くて、中では虫がごぼごぼと泡を出しながら溺れている。そんなものよりも、彼女の瞳の方が輝いて見えたはずなのに。


 今は、その輝きが琥珀に移ってしまっている。


 どうしてだ? 琥珀は、過去の虫を閉じ込めている。生きているときの、朽ちてない美しい姿のままで閉じ込めている。それが輝いて見える。それは――


 彼女が、変わってしまったからか。僕が憧れていた彼女が、過去のものになってしまったからか。


 昼休みが終わるチャイムが鳴った。僕は彼女を揺すり起こし、授業の始まりを伝えた。ゆっくりと彼女の切れ長の瞳が開かれる。輝きが鈍い。腐った蜜のように濁っていた。


「あれれ……、もう昼休み終わっちゃったの?」


 彼女は、変わってしまった。


「ねぇ、空太。今日も寄り道するよね……? お弁当の続きは……そこで……」


 だから僕は、彼女のことを綺麗と言えなかったんだ。


「……、今日は真っ直ぐ帰るよ」


“えー。空太のケチーっ。”


 かつての彼女が歌ったはずの歌が、頭の中に聞こえる。どうして、彼女は変わってしまったのか。僕は、彼女から逃げるように、足を速めた。


「え、な、な……で……。ちょっと、待って……、ねぇ……?」


 いつもはその長い脚で、すぐに追いついてくるくせに。引き離されていく、僕らの距離が、たまらなく、悔しい。悔しい。


 もう、もう、彼女は、変わってしまったんだ。

 もう、歌ってくれないんだ。

 もう、僕の前で綺麗な顔で笑ってくれないんだ。

 もう、僕をからかうこともないんだ。


 私は琥珀になりたい。


 そう願う彼女は、コンプレックスに囚われて、自分の身体を執拗に傷つける。そして醜く傷だらけにしておきながら、綺麗と言ってと希う。僕に重たい不安を背負わせようとする。


「ねぇ……、置いてかな……」


 嫌だ。そんなの、霧島さんじゃない。


 僕は何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。屋上を駆け下りる自分の足音だけが頭の中に反響する。何かに追い立てられるように、僕は走った。

「空太ってばっ……」


 そして、階段のふちを上靴がかする音で、聴覚が元に戻った。そのときにはもう、視界に階段の上を飛ぶ霧島さんの姿が。彼女は、目の前の踊り場に、身体を打ち付けて転がった。


「き、霧島さんっ!」



     ***



 保健室に彼女を連れて行った。しばらくは彼女は動けなかったが、肩を貸せば歩ける程度だった。打ち身程度の怪我で済んだことに、僕は安堵した。患部に湿布を貼り、彼女をベッドに寝かせる。


「ちょっと、話がある」


 鈍い痛みに顔を歪める彼女をなだめていると、保健室の先生である秋谷先生が僕を呼び出した。先生は、カーテンをゆっくりと閉めて、そのまま何故か机の前を通り過ぎ、保健室から僕を連れて出たのだ。どうやら、霧島さんがいない方が都合の良い話だったらしい。


「彼女……どうしたんだ?」

「え? か、階段で転んで……」

「違う。頬や手の甲。脚。全身にあった。カミソリのような、鋭利な刃物で傷つけた跡」


 そこで僕は気づいた。秋谷先生が言う通り、階段で転んだ打ち身なんかよりも、彼女の自傷行為による外傷の方が甚大だったのだ。ただそれが、制服やマスク、手袋の下に隠されていただけで。実際は、軽い内出血や打撲よりも深刻だった。そして、その傷を負ったプロセスも。

「鏡を見た瞬間、自分が汚いものに見えて、皮膚が擦り切れるほど洗ったり、執拗にカミソリで皮膚を削った。まるで、憑りつかれているように。そんなこと、今までなかったのに……」


 秋谷先生はしばらく考え込んでから、そっと口を開いた。


「霧島さんは、そういうコンプレックスとは、無縁の人間のように思えたけど」


 そうだ。そうだ。霧島さんは、そうであって然るべきだ。


「……何か病気なのかもしれない。皆瀬くん、霧島さんには、このことは伝えないでくれ。今は慎重になったほうがいい」


 そうか。彼女が変わってしまったのは、病気のせいだったんだ。病気が彼女を変えたんだ。僕が憧れていた彼女は、どこかに行ってしまったわけでも、過去の存在になってしまったわけでもない。


 病気。すべて病気が悪いんだ。今の彼女は、病気なんだ。病気は霧島さんじゃない。

 だから彼女は、霧島さんじゃない。彼女が変わったのは、僕のせいじゃない。――そう気づいて、僕は安心した。


 彼女が病気で良かった、と思った。

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