冷えていく体温

 その日も夕食を終えると電話がかってきた。二日連続とは珍しい。

 昨日の叱責を踏まえて、スマートフォンを鞄から出して勉強机に置いていたのが功をなした。

 通話ボタンにタッチし、新しく取り替えた壁掛け時計を見やる。昨日と同じ、七時半の辺りを指していた。


「そーらーた、今日は合格だぞっ!」


 音割れしている彼女の声。

 昨日は呼び出し音が八回くらい鳴っても出なくて切ろうかと思ったのに、今日は一回で出てくれたと。


「よく覚えてるな」

「えへへー、空太に関することはぜーんぶ覚えてるよー」


 言葉の間や尻尾が伸びている。声のフォルムがしなやかに伸びた猫を連想させる。なんだか安心した。いつもの彼女だ。帰り道で感じた、彼女の中の影は思い違いか。


「なあ、用事って何だったんだ?」


 別れ際、何かから逃げるように走り出した彼女。言い訳に感じた用事を思いだしたという言葉。嘘と読み取れてしまうような嘘が、誠だと信じたいがために、僕はそれを問い詰めた。


「ああ……、た、大した……用事じゃないから」

「そう、だったら良かった」


 ――そのまま、しばらく沈黙が続いた。

 小説や漫画を読むときのクセ。物語のクライマックスや重大な展開が入ると思わせる描写が入ったとき、そこで踏み込まず、敢えて一度本を閉じる。底の見えない崖の目の前で立ち止まってから、深淵に向かって身を投げ出すような。


 そして僕は膝がすくんで、目を背けた。でも、背後に広がる崖から距離を置くことはできなかった。だから、話題を変えずに黙っていることしか、できなかったと思う。


「ねぇ、今日のあたし、おかしかったかな?」


 そんな僕に、猫は声をかけて来た。その崖から立ち去って、谷底を覗かないで。最初は、希うような声。


「お、おかしくなんかないよねっ?」


 でも次第に、猫は毛を逆立てた。


「大丈夫だよねっ、思い違いだよねっ?」


 背中を反らせて、爪を立てた。


 僕はそれを感じ取っていながら、無視をした。猫の攻撃性も、崖の向こう側の谷の深さも。匂いを感じながらも、僕はそれを否定した。


「そうだよ。考えすぎだよ」

「……。ありがと……う……」


 そこで彼女から電話が切られた。


 まるでその言葉が欲しかったようだった。僕が谷底から目を背けてくれたことに感謝しているみたいだった。おやすみも。また明日も。じゃあねもなかった。僕に詮索の余地を与えずに、彼女は電話を切った。――また、僕は眠れなくなってしまった。

 眠ろうとする身体と眠れない頭の駆け引きが、浅い眠り独特の現実との境界線が曖昧な夢を、僕に見せた。


 夢の中で彼女は泣いていた。

 怖い怖いと泣いていた。ひとりが寂しいと泣いていた。僕に傍にいてと希った。 

 そして僕は彼女に寄り添った。

 すると、今度は僕を突き飛ばした。来ないでと突き飛ばした。

 僕は動揺した。

 彼女は、僕が怖いと泣いた。

 ――じゃあ、どうすればいいんだ?

 分からない。分らないよ、と彼女は、声を上げて泣いた。


 そんな夢だった。眠れない。そんな夢では眠れない。


 震える手で僕は、目覚まし時計を止めた。スマートフォンのアラームでは起きれそうにない、と判断して、久しぶりに電池を入れておいたのだ。

 その行動は、功を成したが、替わりに目の下にクマを作らせた。


 あくびをしながら制服に着替え、階下の居間へ。

 睡眠不足で荒れた胃は食べ物を受け付けないから、コップ一杯の牛乳だけを飲み干して家を出た。

 少しふらつくが、足取りは自然と速くなった。

 あんな夢のあとだ。一刻も早く彼女の姿を見たかった。そして、安心したかった。

 いつもより早くに着いた、あの横断歩道。

 渡る先に見えた彼女。今日は何故かマスクをしていた。


「おはようっ、霧島さん」

「お……。おはよう。そーらーた」


 いつもの歌が、調子外れていた。知らない曲を歌うときに、入るところが分からず、二の足を踏むような。そんな印象を覚える探り探りの歌だった。


「どうしたの? 風邪でも引いたのか」

「う、……うん。そうみたい……。けほっ。こほっ」


 マスクの前に拳を作って、嘘くさい咳をした。彼女の手は、分厚い手袋で守られていて、素肌は見えない。春の訪れを知らせる温かい日差しが降り注ぐ朝。僕の裸の手は、彼女の分厚い手袋を不自然がっていた。


「そーらーた、すごいクマだよ」


 声の調子がおかしい。唇を動かすことを躊躇っているように聞こえる。


「いや、昨日眠れなくて」

「ほうら、すごいクマだよー」


 そう言って彼女は、学生鞄の中からピンクのふちの手鏡を取り出して、僕の顔に向けた。そこに映った僕は、粉々にひび割れて歪んで、パーツが欠けていた。


「霧島さん。鏡割れてるよ」


 隠し切れない戸惑いが目から漏れて、手鏡を自分の方へと向ける彼女。また、彼女の瞳孔がきゅうっと縮んでいた。分厚い手袋越しで感覚が緩んだのか。彼女は手鏡を地面に落っことした。破片がいくつか、道路に飛び散った。しばらくの沈黙の後、彼女は震えた声で笑った。


「あは……、あはは……あたし、よく物落とすんだよね」


 うっかり落としてしまった。風邪をひいてしまった。全て嘘に聞こえた。

 両手を覆う分厚い手袋。口元を覆うマスク。脚を包み込むスカートと黒いストッキング。僕は、その下に隠されたものが、分かってしまう気がして、彼女から目を背けた。明後日の方向を向いたまま、彼女のぎこちない歌声に耳を澄ました。


 一時限目の授業。あくびを先生にバレないように、こっそり隠れて数回。彼女が眠たそうだと瞳だけで笑いかけた。席について授業が始まるまで、彼女はなぜか手袋を外さなかった。

 そして今はその手は、机の影に隠れている。先生のチョークが、黒板を打っているというのに。


 手を見られたくないんだ。僕はそう悟ってしまった。


「……霧島さん。手を見せて……」


 休み時間に僕はそう言った。彼女は壊れそうな瞳で上目遣いに僕を見やった。机の上に出された手の甲は昨日よりも絆創膏の数が増えていた。鳥肌が立ってしまうくらい、傷だらけだった。 


「また……やっちゃったの……」

「霧島さん……」

「わ、分かってるよ。お、思い違いだって」


 沈黙のまま、休み時間が終わりになった。

 そして、二時限目の授業で僕は、ついに睡魔に負けてしまった。数学教師がレジメで僕を軽くたたいてきた。平謝りして上体を起こすと、机の端にノートをちぎって折りたたんだ手紙があった。昨日みたいに授業中に筆談をするつもりか。そう思ったが、表に見えた文字はそれを拒否していた。


<開けちゃダメ>


 訳が分らなかった。彼女が僕に宛てたものでありながら、どうしてその中身を知ることを許されないのか。昼休みの屋上で彼女に尋ねた。


「あれは、あたしが吐き出したかっただけだから。開けたらダメだよー。ぜったいにっ!」


 謎は謎のままでいいと言った彼女らしい発言に思えた。そんな彼女の謎かけに付き合うのも僕は好きになったのかもしれない。

 彼女が顔を俯けて、僕に背中を向けた。そして弁当箱を巾着袋から取り出した。傷だらけの彼女の手が、がたがたと震えながら弁当箱の中の食材に箸を下ろした。


「どうして、そっぽを向いて食うんだよ」

「……風邪が移るかもしれないから」

「風邪なのか? 本当に?」

「……風邪だよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない……から……」

「嘘だっ」

「っ……」


 ふたりを包み込む温かい日差しとは裏腹に、彼女の背中からは殺伐とした気配が感じられた。何かは分らない。昨日から少しずつ感じてきた彼女の中の影が色を強めていた。

「もう手は……、見ちゃったんだよね?」


 太陽に雲がかかる。彼女の声が震えを増した。


「あのね、顔もね……、剃っちゃったんだ……」


 マスクを外した彼女の顔がこちらに向けられた。頬に血が滲んだガーゼが張られていた。唇から血が流れて固まった跡があった。ところどころ、生皮が剥がれていた。そして焼けただれたように赤かった。――僕は言葉を失った。


「産毛が生えていて汚い気がして、擦りむいて痛いのに……。まだ汚い気がして、何度も剃って、何度も石鹸で洗ったんだ」


 彼女を襲ったのは、自分が汚いかもしれないという不安。鏡を見た瞬間、それが自分に牙をむいたと。声になって耳元に張り付いてきたと。それを思い出すだけで彼女の声は、がたがたと震えていた。


「ねえ、空太……お願いがあるの。昨日みたいに、あたしを綺麗と言って。安心させて」


 もう彼女は歌えないように感じた。ほんの昨日まで僕の横で歌っていた猫は、土砂降りに降られてボロボロにされたように、弱弱しい声を漏らしていた。


 だけど僕は、ずぶ濡れの猫から、目を背けた。


 ――僕は、怖かった。彼女が、霧島さんが、分らなくて怖かった。

 どうして、霧島さんは自分を綺麗と思えないんだろう。

 どうして、霧島さんは鏡が怖いんだろう。

 どうして、霧島さんは自分を傷だらけにしてしまったんだろう。


 僕は不安を覚えた。何もできずに、傷だらけの顔で涙を流す彼女を、至近距離で傍観した。


 僕は彼女を綺麗と言えなかった。


 でも、彼女の肩の震えは止まった。そして僕の肩に向かって崩れ落ちた。どうやら彼女も、昨夜は眠れなかったようだ。

 彼女の体温は、昨日までとは違った感触だった。やがてゆっくりと冷えていく、命を失った屍のように感じてしまった。


 僕は、その冷たさを想像して凍えた。春の訪れを知らせる温かい日差しを受けながら。

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