今あるすべてが、壊れてしまったら

 ホームルームの終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。椅子の脚につけられたゴムと床がこすれ合う音が、教室じゅうを駆け巡る。家路につくものも、部活動に勤しむものもいる。


「そーらーた、部室行くよ」


 霧島さんは、当たり前のことのように言うが、僕が所属している部活動はない。所謂、帰宅部というやつだが、彼女は僕を帰してくれない。それが彼女の部活動みたいなものだった。

 部室は古ぼけた埃っぽい教室。文芸部と謳っているが、公募の大賞に作品を出す人もいれば、趣味として楽しんでいるだけの人もいる。各々が奔放に漫画や小説、詩を書いて、各々が奔放な時間に帰る。

 きりきりと耳障りの悪い音を立てて、引き戸が開かれると、文科系部活動特有の自由さが、僕という部外者を招き入れた。


 これもほとんど毎日のことだったりする。だから、実際に部員に在籍している幽霊部員よりも、よっぽど真剣な部員として僕は扱われていた。僕が席につくと彼女は、決まって僕の前の席の机の上に腰かける。彼女の定位置だ。

 そして、本来ならば座るべき場所の椅子に、学生鞄を置いて、中からクリップボードに挟まれた便箋を取り出した。


 彼女は、詩を書くのが好き。突発的に起こって、刹那に終わる閃き。雷に近いような感覚が刺激的だと彼女は言う。そんな衝動的な魅力に憑りつかれているらしいが、僕には、よくわからない。


 僕は鞄の中から、彼女が好きじゃないと言った推理小説を開いた。答えを本の中に求める僕と、答えを人の中に呼び起させようとする彼女がそこにいた。

 綺麗な脚を組んで、右脚の太ももで机を作り上げる。いつもは白い素肌がスカートと靴下の合間から見えるのに。今日は黒いストッキングで覆われていた。寒いからという理由じゃないことは、読み取れた。授業中も時たま、手を動かすのが傷を疼かせるのか、苦い顔をしていた。そういうときに目が合うと彼女は決まって苦笑いをするのだった。


「まだ痛むのか」

「もう大丈夫だよ」


 彼女は、便箋ではなく空に向かってペンを走らせる。まるで、旋律を紡ぎ出す指揮者のような仕草。目をつむって香りを嗅ぐように、鼻孔からすぅーっと息の音を奏でる。彼女の創作は答えがあっても、それをそれと明示してくれない。

 それはきっと、彼女が何もない空間から、感性というブラックボックスを使って、言の葉を摘み取ったからだろう。少し苦手な類ではあったが、創作をしている彼女の姿は見ていて面白いから好きだ。


 しばらく見ていると、何かが彼女に舞い降りたようだ。

 彼女は右手に持った万年筆を踊らせた。僕は開いたっきり、とっくに読んでいなかった推理小説の内容をほっぽりだして、ペン先を瞳で追った。


 私は琥珀になりたい。


 文体で散文詩だと勘付いた。句読点がついている。韻や掛詞を凝縮させた、洗練された詩とは違って、本能的な吐露が垣間見えるのが、彼女は好きなんだそうだ。



 私の世界に、甘い樹液を流し込んで。

 美しいままで、時を止めて。

 愛しい、その手で。

 今すぐ、時を止めて。

 恨まないから。

 あなたが幸せな時間で止めて。

 そうしたら、私は琥珀になれるから。



 そこで筆が止まった。

 そして彼女は自らが書いた詩を一瞥し、しばらく考え込んでから、大きなため息をついた。口が一瞬への字に歪んでから、奥歯までかみ合わされた白い歯が覗いた。どこか辛そうな口元だった。


「なんでこんな詩……。あたし、書いちゃったんだろう?」

「えっ……、でも琥珀は、霧島さんは好きじゃないんですか?」

「好きだよ。誕生石だし。でもあたしは、今はまだ……。きっと、今はまだ……」


 今は。その言葉が彼女の中で引かっかったらしい。


 確かに、今すぐ時を止めてというフレーズがあった。そこが自分で気に入らなかったのか。それにしても、自分で書いた詩を書いた自分が分らないというのはどうなのか。


「それが散文詩の面白いところなの。これはあたしの知らないあたしとの会話。本能の垂れ流した吐露。気の迷いや、弱さ。自分が無意識に逃げている感情が、すべてさらけ出される。――でも、これは駄作ね」


 歪んだ笑みで、そう吐き捨てると、便箋をぐしゃぐしゃにして捨てた。でもどうして駄作なのか、僕にはわからなかった。


 彼女が、散文詩を本能の吐露として愛しているのならば、きっとどんな内容でも、あるがままを受け入れるはずだ。

 でも、琥珀になりたいと願ったその詩を、彼女は受け入れなかった。

 彼女が便箋に綴った詩が、彼女の声で頭の中に響いていた。なぜだか、僕の琴線に触れたみたいだ。きっと彼女がそれを唄ったから。そんな気がした。たとえ、彼女がその詩を嫌っていても。


「あーっ、もう! スランプスランプッ!」


 頭の中にこびりついた余韻を振り払うように、首をぶんぶんっと横に振った。勢いよく机の天板から降りたった彼女は、僕に無邪気な笑みを向けた。


「そーらーた。コロッケ食べにいこっ!」


     ***


 駄菓子屋は、学校から家路の途中にあるが、コロッケ屋は遠回りをしなければいけない。本当の意味での寄り道だ。

 寄り道は好きだ。彼女が言った。帰り道が長くなるから。帰り道は長ければ長いほど好きだと。フライヤーで煮えたぎった油の匂いが風に乗せられてくる。


「すみません。あつあつコロッケふたつください」


 あつあつコロッケ。一個百円だ。


「僕が払うよ」

「おっ、おっとこまえー!」

「百円おごったくらいで言われても……」


 油がぱちぱちと弾ける音がして、ふたり分のコロッケがきつね色に揚がった。数十秒ほどの調理時間。立って待っている間に吹き付ける冬の風が、出来立てのあつあつでほくほくを欲しがるように準備をさせる。

「はい、毎度あり」


 油を吸って半透明になった紙袋越しに熱が伝わる。持っていられないくらいだ。思わず、あちちと声を出しながら、彼女にコロッケを手渡す。受け取った彼女も、僕のそれが移ったようにあちちと声を出した。コロッケ屋のすぐ隣に建っている誰の家のものとも知れない塀に、ふたりでもたれかかる。


 彼女がコロッケを頬張った。


「あっちっ」


 舌を出して彼女が笑った。それを見て僕も頬張った。お昼の弁当のものとは、雲泥の差だった。


「美味しいねー」


 彼女が僕に同意を求めかけるかのように笑いかける。気のせいか。今日はそんな表情が多い。表情が、声色が僕に同意を求めている。そして、同意すると彼女は何かを噛みしめるように笑うのだ。どこかいじらしく思えて、嬉しかった。


 コロッケを食べ終えた後の口元。パン粉の粕がついたのを彼女がハンカチで拭き取る。新しい面に畳み替えてから、僕の唇にそれをあてて来た。


「ほうーら、いっぱい付いてるよっ」


 屋上での出汁巻といい、照れくさいやり取りだった。

「そーらーた、また来ようねっ」


 コロッケ屋から歩きはじめようとしたところで彼女がそう歌った。こんな近所のコロッケ屋くらい、またいつでも来ればいいじゃないか。少しそう思ったものの、口には出さなかった。

 そして歩き出す。しばらく歩いて、彼女がついてこないことが分かった。


「どうしたんだ、霧島さん?」


 振り返ると、俯いた彼女が、ハンカチを握りしめた右手を震わせていた。やがてこちらの視線に気づいたのか。もう一度、右手をぐっと握りしめてから、笑顔を作った。こちらを安心させるように作った笑み。


「なーんでもないっ」


 彼女がそんな笑い方をしたのを見たのは初めてだった。小走りになって歩幅を詰めた彼女は、僕の手をがしりと握って来て、僕より高い肩を縮ませてすり寄ってきた。身体が震えている。

「どうしたんだよっ」

「ねぇ、あ、明日も寄り道する……よねっ?」

「え? い、いいけど……?」

「明日も学校来るよね? 会えるよね? 風邪ひいたりしないよねっ?」


 痛いと思うくらい僕の手を握りしめて、疑問符を並べ立てるものだから、少しまごついてしまった。少しずつ今日の彼女に感じてきた違和感。昨日までの彼女との違い。いよいよそれが、僕の口から漏れてしまった。


「霧島さん。今日はどうしちゃったの?」


 彼女の瞳孔が、きゅうっと縮まった。一瞬、魔王でも目の前に現れて、顎を撫でて来たかのような、この上なく怯えた表情を彼女は浮かべた。


「な、な……。なんでもないよ。なんでもないっ」


 僕の手を振りほどく。声が裏返っていた。もしかして泣いているのか。

 彼女は何かに憑りつかれているみたいだった。


「ごめんっ、用事を思いだしたっ」


 再び歯を食いしばった後、彼女は、走り出してしまった。

 遠ざかる背中に戸惑いながら「また明日」と呼びかけた。返事が返ってこない。彼女の長い手足が出鱈目に振られていて、追いかけてくる何かから逃げ惑うような。そんな走り方だった。


『今あるすべてが、壊れてしまったらどうしよう』


 昨日の電話の言葉が、頭の中で反響した。トンネルの中で石を投げたかのように、周波数を変えて何度も。何度も。

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