初めて
手の甲にカミソリ負けがあった。女性でもムダ毛が生えるというのは何となく知っていた。でも、霧島さんの手は、白くて線が細くて、しなやかで綺麗だ。今は傷だらけでも、その面影は残っている。
これ以上考えていると、無意識に彼女の手を見てしまうだろうか。また、彼女は恥ずかしがってしまうだろうか。
「ねえ、文理分けの試験授業。今日はどうするー?」
震えていた声が、いつもの語尾が伸びた歌うような声に変わった。なんだか安心した。彼女の声が震えているのは、どんな理由であれ、胸に悪い。
「ああ、文系に決めたんだろ」
「まあ、そうなんだけどさー。ちょっと理系も受けてみようかなーって。文系選択が変わるわけじゃないけどっ」
「じゃあ、受けるだけ無駄じゃないか?」
「……そういうこと言わないのっ」
どうしてそんなことを言うのだろう。昨日は理系科目は解けても性に合ってないなんて言ってたくせに。
「そんなことを言って、全然わからなくても知らないからなっ」
一時限目、地理。
二時限目、数学。
三時限目、物理。
昼休みのチャイムが僕には、審判の合図に聞こえた。スリーストライク、バッターアウト。
全然理解が追いつかなかった。彼女が隣の席から、にやにやと笑っている。少し腹立たしい。
「霧島さんは分かったのかよっ」
強気な口調で尋ねたが、玉砕される準備はできていた。
「分かったよー」
霧島さんは僕よりも頭がいい。
彼女は、数学ができないからとか、消極的な理由で文系を選んだわけじゃない。いろいろ自分で考えてた結果、性に合ってないとやめたんだ。彼女はいつでも能動的で、僕とは違う。
「……、分かってても性には合ってないんだろ」
「合ってない合ってない。でも楽しかったなー」
「授業が楽しいのか」
「空太が横にいるとさー、楽しいんだよー」
『放課後の寄り道は?』
『なんだよ? 授業中に』
『いいから、答えて』
『駄菓子屋』
『昨日と一緒じゃん。けちっ』
『じゃあ、コロッケ屋』
『いいねー。あったまるね!』
そんなことを書いた紙が授業中渡されるものだから、集中なんてできなかった。そんな筆談をしたのは、今日が初めてだった。いつも休憩時間になるまで干渉はして来ないのに。きっと、性に合わない理科系科目を受けているからだ。きっとそうだろう。
「空太が理系なら、あたしも理系にしよっかなー」
「えっ?」
昨日の帰りとまるで違うことを言うものだから、少しまごついた。
「だってさー、理系科目ならさー。ずっと席は隣同士だよー」
「いや、席替えはあるし」
「教室は一緒でしょー」
「それで何する気だよ。今日みたいなことされたら、授業集中できないだろっ」
「あたしが教えてあげるよー。放課後みっちりとね」
「補習する気かよ」
霧島さんはよく分からない。そんなに僕の邪魔がしたいのか。いいや、それよりも彼女が昨日言っていた文系を選んだ理由と、今日の理系を選んだ理由がなんとなく繋がらない。
そう、なんとなく……。
「で、お昼はどうするのー?」
「学食にしようと思うけど……」
両親は共働きだから特別な行事のとき以外は、学食に甘える形になっている。
それを分かっていて、昼食になるとこのやり取りが始まる。彼女は隣の席からずいずいと身体を乗り出して、上目遣いを僕に向ける。
「……、購買で買います」
「合格っ」
やっぱり、霧島さんはよく分からない。
***
購買部のお弁当屋さん。霧島さんとお昼に食べるようになってから、頻繁に来るもんだから、店員のおばさんがからかってくる。お熱いね。そう言われるとどこか照れてしまう。彼女も少し顔が紅かった。
思い出すだけで、そわそわしてしまう。パックの緑茶を思いきりしぼませて、気を紛らわせた。
「ねぇ、あたしさー。待ってるんだよー」
「何をだよ」
「さあ? あててみて」
「分かるわけないだろ」
「言ったでしょ。謎は謎のままでいい」
その考え方は変わっていなかった。どこか安心した。プラスチック製のふたを開けて、ひなびた豚カツをひと口。不健康な味がした。
「もう、また揚げ物ばかり食べてる」
豚カツ、エビフライ、コロッケ。揚げ物たちの下に、味のしないパスタ。いびつな形のポテトサラダ。カリカリの梅干しが埋め込まれた、ゴマのかかった白飯。
対して、霧島さんの弁当は、対極の代物だった。板を曲げて作った工芸品の‘わっぱ’を模した弁当箱独特のフォルムに間仕切りがあって、ご飯にはのり玉がかかっていた。おかずはミートボールとだし巻き卵。いんげんの胡麻和え、切り干し大根。ミニトマト。優しい味がしそうだった。
毎日少しずつ変わる、霧島さんのお弁当と、いつも変わらない僕の弁当。
「ちょっと交換する?」
見比べていると、決まって彼女はそう切り出す。いつもはここで互いの弁当を手渡しで入れ替える。ところが今日は違っていた。紅いプラスチック製の箸が、だし巻き卵を捕まえて、僕の口の前に突き出されていた。
「はい、あーん」
「うわぁ」
思わず後ろにのけ反ってしまう。冬の風に冷やされた屋上入り口のコンクリート壁が、うなじを撫でた。上がってしまった体温との差が、冷たさを強調していた。
「だ、誰かが見ていたらどうするんだよっ」
「誰も見ていないからやってんのよ。こんな寒い冬の屋上に、誰も来やしないわー」
霧島さんのカミソリでひっかいた皮膚が、真っ赤に染まっていた。冷たい空気が沁みて痛そうだ。
「昨日の夜ね。電話を切ってから、おかしなことがあったの」
「えっ?」
「突然、自分の身体が汚く思えて、毛が生えていたらとか。不健康な肌の色をしていたらとか。いろいろ考えちゃって。気が付いたら夢中で剃ってて、身体中傷だらけになっちゃってた。ごめんね。こんな傷だらけで」
「傷は浅いから大丈夫じゃないか?」
「……ねぇ、恥ずかしいけど、聞いていい?」
「なにさ」
「空太には、あたしがどう見えているの?」
こっちが恥ずかしい質問だった。
綺麗な長く黒い髪。スラリと高い背に、線の細く、長い手足。暗色の多いセーラー服が、白くて綺麗な肌を強調させている。心の中ではいくらでも思いつく。
でも、何も言えない。言葉は形を持たず、唇の間からぽろぽろと零れ落ちた。
「な、なんで、そんなこと、急に聞くんだよ?」
「……。どうしてだろうね。聞かないと、不安になったんだ」
冬の終わりの澄み渡る空を貫く真昼の日差し。彼女の右手の琥珀のブレスレットが光を放つ。
「綺麗だ」
そう呟いた瞬間、彼女ががばりと抱き付いてきた。
僕はきっと、彼女を綺麗だと言ったわけではないと思う。
いや、彼女は綺麗だ。でも、僕は照れて言えなかった。でも彼女はそう受け取ったのか。
彼女は、僕の首筋に顔を埋め込む。僕の匂いを嗅ぐような鼻息の音がした。
僕は初めて、女の子に抱き付かれた。
彼女の体温が温かかった。きゅうっと瞑っていた目蓋を彼女が開ける。何故だか一瞬すごく悲しくて儚げな瞳をした後に、もう一度瞑って僕の肩を引き寄せた。
「今日の空太は評価に値するぞー」
「なんだよ、その上から目線の言い方は」
彼女にそんな褒められ方をするのも、初めてだった。
今日は、初めてが多い日だ。
心の中でそう呟くと、ぶわっと風が舞った。冷たい風の向こうから、微かに春の気配を感じた。
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