異変
玄関のドアを開ける。おかえりなさい。母の声が響いた。
それに、そっけなく答える。家はあまり好きじゃない。僕に理系を選ばせた家だ。これが反抗期というやつか。
「ご飯が出来てるわよ」
母の声が居間から聞こえる。
鞄を玄関に乱暴に置いた。靴を脱いで蒸れた靴下でフローリングの床を踏みしめる。
居間に入ると、テレビがニュースを垂れ流しにしていた。僕のご飯が置かれた席の向かいでは、父が新聞を開いていた。
「テストはいつ帰って来るんだ?」
父は僕の成績を気にしていた。理系科目がそこまで得意ではない。かと言って文系科目もさほどでもない。どちらにも突出していない成績と、これからは理系の時代だと口々に言う文系出身の父親。これが僕を理系に進ませた社会だ。
「今週末」
「理科系科目が嫌いなら文系に行ってもいいが、後悔するぞ」
素直に理系に行けと言えばいいのに。
心の中でぼそりと呟く。そういう遠回しな言動が鬱陶しい。
それは自分の意志の弱さのせい。僕は霧島さんのように強くなれない。うやむやな返事をして、いただきますと呟いた。
ハンバーグを口に運ぶ。肉が柔らかくて美味しい。でも口には出さず、黙って咀嚼した。ワイドショーの合間を、父の新聞をめくる音が割って入る。
蝙蝠が羽ばたくように、ばさりばさり。
ニュースが聞こえない。眉間にしわを寄せ、耳を澄ませて音を搾り取る。
“サスペクトパシー”
耳慣れないカタカナ語が聞こえた。キャスターの説明を聞くに流行の病らしい。ここのところ、新種の流行病が多く取り上げられている。
そういう病気の中に、南極や北極の氷床に埋まっていたものがあって、それはとっくに流行していても政府が隠していた。オカルトが好きな霧島さんはたまにそんなことを言う。
もちろん本人も本気では信じていない。ただそういう陰謀論は、好きだと。
コメンテーターの中には、精神科医がいた。感染性の病気のニュースに精神科医がコメントするのは、場違いな気がしていた。でもそれは、僕の無知による浅はかな思い違いだった。
「今回は、数週間前から流行している感染経路不明の感染性精神疾患、サスペクトパシーについてですが――」
感染性精神疾患。
無理矢理つなげたかのような奇妙な言葉が、鼓膜にべったりと貼りついた。
病状は、被害妄想が激しくなり、他者を敵視する。他者の干渉を拒否する。やがて、呼吸、食事、飲水、排せつ。外界とすら干渉するあらゆることを拒否し、自殺あるいは餓死、脱水症状、窒息などで死に至るという恐ろしいもの。
治療中の患者の様子がテレビに映される。透明なカーテンが垂れ下がっていた。無菌室の中で、モザイクの顔面の患者が唸っていた、泣いていた、叫んでいた。自分と関係性の乏しいものから、疑いの念を抱きはじめ、被害妄想の対象とし始める。病気になるまで見知りもしない医者は最初の標的として相応しい。治療法の開発が乏しく、感染経路さえ不確定なのは、医師のありとあらゆる干渉を患者自身が拒絶するからだ。
何とも不安になるニュースだった。コメンテーターの精神科医は苦い顔で、当たり障りのないコメントを言った。責任を持てるような発言をする根拠がないのだろう。
重たい空気で箸が止まった。
父が空気を読んでチャンネルを回した。バラエティ番組でお笑い芸人が落とし穴に嵌っていた。母が笑った。僕は、笑わなかった。
あの帰り道で風船のように軽く弾んだ心は、鉛球になって地面に鈍い音を立てて落ちた。世界が滅亡するマヤ暦の予言を鼻で笑っておきながら、僕はそのニュースを笑えなかった。
重たい足取りで学生鞄を持って階段を登る。
二階の自室に入り、気を紛らわすためにポータブルゲーム機を開いた。いつも負けないはずのオンライン対戦で、僕の操作したキャラはあっけなく吹っ飛ばされた。布団の上にゲーム機を投げた。鈍くバウンドしてこつんと壁にあたった。
ふと、スマートフォンの着信音が鳴った。学生鞄の中で籠ったサウンドを鳴らす。電話は、鞄の最深部にまで潜り込んでいた。手を伸ばすが、届かない。面倒くさくなって全部ひっくり返した。
フローリングの床に投げ出された電話に霧島千尋の名前が出ていた。急いで電話に出ると、案の定の言葉が耳に飛び込んでくる。
「電話に出るのが遅いぞー。そーらーたっ」
少しだけ彼女の声の旋律が変わって聞こえた。
いつも一緒に帰って、そして帰ってから必ずのように電話がかかって来る。そして本当に当たり障りのない話をする。相手を呼び出し音三回以上待たせてはいけない。彼女が父から教わったビジネスマナーが、何故か僕に強要されていた。
「なに……、してたの?」
「なにってご飯食べてたけど」
「へぇー」
「それだけ?」
「そーらーたはつまんないなー」
「ええ?」
「この一年間で、ちっとも成長してないぞっ」
何が成長していないのか。電話に出るのが遅いことか。聞き返すと呆れられた。霧島さんはよく分からない。
「ねーえ、そーらーた」
「何だよ」
「この前身体測定あったでしょー」
思わず口をつぐんで、むっとなった。不機嫌なオーラをすくい取ってくすくすと笑う声が漏れ聞こえる。
「あたしはねー、百六十七センチだったよ」
高い。僕よりもまだ五センチ高い。でも男子はこれからが成長期で、女子はもう落ち着いて来る。五センチなんてすぐに追い越すだろう。そう考えると少しわくわくした。
「どうかなー? あたしがヒールを履いても追い越せる?」
すぐに追い越すさ。そう言うと悪戯っぽく返してきた。彼女がヒールを履いたら百七十センチを優に超えてしまう。たまにその話をする。彼女はもう少し待ちたいんだって答える。何を待っているのかは内緒だそうだ。
「ねぇ。二月が終わったら、すぐに春だね」
「うん」
「あたしは文系、空太は理系」
「うん」
「……あたしたち、一緒でいられるかな」
「い、一緒って? 学校は一緒じゃないか」
「そういうことじゃなくってさ」
文理合同授業だってある。科目の個数を数えれば文理合同の方が多いくらいじゃないか。
「どうしたんだ? そんな話して、何かあった?」
「……ねぇ、あのニュース見た?」
彼女は話題を切り替えた。あのニュースとは、人を疑ってしまう病気の話だ。聞いたときも不安になりながら、彼女が好きそうな話だなと思っていた。どうやら当たっていた。
「また、南極の氷床とか言うんだろ?」
「あー、今あたしのこと疑ったでしょー?」
「どういうことだよっ」
「ねぇ、今みたいなのが、あの病気の正体だったら拍子抜けだよね?」
「えっ……」
からかった彼女の言動が、人を疑う病気の正体。また彼女が言っていることが、よく分からなかった。
「病気は最初はなくて、そこには疑り深いひとりの人がいた。あまりにも疑り深いものだから、病気じゃないかーって。だから、その人に病人という役割を与えた。移らないように病人を遠ざけた。すると病人は孤独になって、孤独を与えた他人を疎んだ。看病している人がそれに同情した。そして、彼は病気じゃない。助けてやってくれと訴えた。それを聞いた他の人は、こう言った。彼が病気だということを疑っているのか、彼の病気が移ったんじゃないのかって」
「か、考えすぎだよ」
「もしかして、ちょっと怖かった?」
「そ、そんなわけないだろ」
言葉が唇の前で二の足を踏んだ。その不規則な頼りない足取りが彼女に読み取られたようだ。僕はどうやら隠し事は下手らしい。
「本当にー?」
「き、霧島さんだって疑ってるじゃないか」
そう返すと、うまいうまいと笑った。なんだか少し不機嫌になった。
「あたしが怖いと思ったのは、そういうことなんだ」
「えっ……」
急に声が震えるものだから、少しまごついた。確かに僕も、恐怖を感じた。でも彼女のでっち上げた話が病気の正体だとしたら、最初からそんな病気などなかったことになる。
だったら何も怖くないじゃないか。ただの思い込みじゃないか。
「病は気からって言うだろ?」
「病は気からだからだよ」
そう彼女が言い返したところで、僕はハッとなった。
「疑うという感情は誰にでもあるし、疑われるのは誰だって嫌でしょ。誰も不安になりたくないし、不安にさせたくない。だから、あたし……あのニュースを聞いたとき不安になったの。今あるすべてが、壊れてしまったらどうしようって」
そのとき、彼女が感じていた不安を、別の形で自分も感じたことに気づいた。僕は、病原菌やウイルスがいて、それが自分に移ってサスペクトパシーにかかってしまったらどうしようと怯えた。でも彼女が怯えていたのは、病原菌やウイルスなんかじゃなかった。
「空太はそれを思ったことはないの?」
「えっ? でもそんなこと、思ったってどうしようもできないじゃないか」
「そうだよね。ごめん、ガラにもなく不安になっちゃって。ありがとう。空太の声聞いたら安心しちゃった。今日はいつもよりよく眠れそう」
彼女のその言葉を聞いて、どこかホッとした。こんなぶっきらぼうな返答で良かったのか。
「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい」
その言葉を互いに返して電話を切った。改めて考えてみる。
今あるすべてが壊れてしまったら。
僕はあの帰り道で、考えていたことの反対。
僕が感じた春の訪れを彼女は感じない。彼女の靴や服に桜の雪は降らない。汗ばんで、雨が多くなって、制服の袖やスカートの丈が短くなった。青々とした木々がやがて色づいて全て落ちて枯れた。白い霜が降りて。僕は同じ家路を同じ靴音で歩いている。音はひとり分。僕の背丈が彼女を追い越したとき、彼女はもうそこにいない。
僕らはもう、同じことを繰り返せない。
そう呟いたとき、静寂を大きな物音が切り裂いた。壁掛け時計が落ちて、文字盤のガラスが砕け散った。時刻は七時半を指していた。
その夜、僕はあまり眠れなかった。
***
夜が明けた。眠い目をこすりながら、学校に向かう。
眠れなかったせいかスマートフォンのアラームを何回か不可抗力で見送ってしまった。
朝食を食べている暇もなく、今も小走りだ。そして、昨日別れたあの横断歩道に差し掛かる。彼女の姿が見えた。
何故だか違和感があった。――手だ。手に何枚か絆創膏が貼ってあったのが、近づいていくと分かった
「お、おはよう」
「あ……、お、おはよう」
声が少し震えていた。
「どうしたの? その傷……?」
長い袖は腕の皮膚を隠しているが、袖口からは、赤くただれたような跡が見えていた。
「ああ、お、お風呂でころんじゃって」
「そっか」
なにか引っかかった。転んだにしては、少し傷のつき方がおかしく感じた。手を撫でるように満遍なく広がった赤い斑点。ところどころ皮膚が裂けて、そこに絆創膏が当てられている。傷は浅い。
「そ、そんなにじろじろ見ないで」
彼女は恥ずかしそうに言った。
何かに似ている。そう感じた。ふと自分の顎を撫でたとき、今朝剃れなかった、うっすらと生えた髭が指にあたった。そのとき思い当たるものがあった。
カミソリ負けだった。
そう気づいたとき頭の中で、自分の部屋の時計が割れたときの音が反響した。そして、彼女の右手首のブレスレットに埋め込まれた琥珀が、輝いて見えた。
でも彼女が、美しく死にながら生きていると謳った、虫が入った琥珀の美しさは、僕にはまだ分からなかった。
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