琥珀

津蔵坂あけび

謎は謎でいい

 冬枯れの枝に蒼い芽が、人目を忍んで産声を上げる。それが膨らめば、春だと人は言う。でもいつからが、本当に春なのか。カレンダーは三月から春だと言っている。でも二月の終わりには、梅の花が咲く。

 いつからが本当に春なのか。境目を知ることは出来るのか、と僕は考える。


「なーに、難しい顔してんのさ」


 教室のあらぬ方向、黒板を照らす夕日の光を見つめていた視界。黒く長い、たおやかな髪が幕を下ろす。シャンプーの甘い香りがした。


「き、霧島さん」

「そーらーた、なーに考えてんの?」


 霧島さんは不思議な人だ。いつも歌うように話しかけて来て、歌うように話をする。不規則な旋律に合わせて髪が揺れる。きっとその歌は明るい歌だ。彼女がいると、顔が緩む。


「いや、べ、別に大したことじゃ……」


 “春はいつから来ると思う?”


 そんな質問は、文学少女という形容が似合う彼女に似合うかもしれない。でもきっと笑われる。誰にでも答えがあって、それがひとつじゃなくて。そんなこと最初からわかりきっているから。だから、適当に濁す。

 するとこうだ。


「じゃあ、女の子に言えないこと考えてたんだ」


 彼女は白くて細い指を、僕の額に当てて軽く押した。


「違うっ」


 そう反論して椅子から立ち上がると、くっつきそうになるくらいに顔と顔が近づいた。やがて、彼女は腹を抱えて笑った。まるで図星みたいだ、と。

 このままじゃ、彼女のペースだ。話題を変えよう。


「そう言えば、決めたのか」

「なーにをー?」


 彼女は歌いながら、僕のひとつ前の机。もう主のいない放課後の机に腰を下ろして、綺麗な脚を水の張ってないプールに投げ出して、バタ足をした。膝までの長さのスカートが、机に紺色のクロスをかぶせていた。


「文系か、理系か」


 高校のはじめの一年が過ぎようとしていた。

 さっき考えていたことがよぎる。人が人のために決めたものには、境目があるのだなあ。


「空太は決めたの?」

「理系に行こうと思う。霧島さんは?」

「文系だよ」

「でも霧島さんは数学の成績、僕よりもいいじゃないか」


 意外だった。見た目で言えば、彼女は文学少女だ。実際、本をよく読んでいる。本をめくる細くて綺麗な指。字を撫でる透き通った瞳。


「好みの問題ね。解けても好きじゃないの。数字にはね、人間のエゴが見えるの。物理は自然を数字で語ろうとして、数字で語れば分かって支配したように思える。でも本当は何もわかっていない。まるで自然の美しい川の流れを作り変えてるみたいで好きじゃない」

「よ、よく分からないけど、最初は純粋な興味だったんじゃ」

「純粋な興味が、みんなが欲しいものだとも思わない。みんなが欲しいものは、何かを支配する力」


 こういう表現をするのが彼女らしいところ。そして決まってどこか悲しげな表情をする。「空しい」と唇が動いてしまいそうな。


「でもそれが今の便利な世の中を」

「はいはいはい。ごりっぱごりっぱーっ」


 ぱんぱんと乾いた拍手を調子外れの音色で鳴らす。シンバルを叩く猿のおもちゃみたいな動き。思わず神経を逆なでされたような気分になって、顔をしかめた。


「分かってるけど、あたしはそういうの性に合ってない」

「性に?」

「だって、このまますべてが分かってしまったら。謎がなくなって、きっとこの世界がつまらなくなるわ。みんなはすべてが分かると思い込んでる。感情が全て数式で説明できて、結局人間は分子でできた機械でした。そんな結末が来たら、嫌でしょ? あたしが思うに、謎は謎でいいの」


 分かるような気はするけど、心まで動かされることはなかった。けど、彼女の気持ちは尊重したい。

 彼女は能動的で僕は受動的。だから、僕は社会からそれとなく強要された理系に進む。文系に行っても理系に行っても、結局楽しんだり、芽が出たりするのは彼女みたいな能動的な人間だ。僕は彼女にはなれない。


 自己嫌悪にも似たような感情が僕の瞳を濁らせる。僕の瞳は、彼女の右手に輝くブレスレットを捉えた。それに埋め込まれていた宝石は、奇妙だった。


「ねぇ、霧島さん。そのブレスレットの宝石……」

「うん? この琥珀のこと?」

「虫が入ってるよ」


 蟻のような虫が、琥珀という名の宝石に閉じ込められていた。色だって透き通っているわけじゃない。濁っていて輝きも鈍い。泡が入っていて、もがき苦しむ蟻が吐いたもののように見える。


「虫が入ってるからいいのよ。琥珀は樹液が固まって宝石になったものなの。樹液に溺れた虫は、一緒に固まって悠久の時を経て、こうして人々に愛でられる。ずっと美しく死にながら、生きている」


 蟻は死んでいる。でもそれが閉じ込められた琥珀は、彼女に愛されているから生きているんだという。よく分からなかった。その琥珀の色を映したような明るい茶色をした彼女の瞳の方が、僕には綺麗に映る。彼女は確かに、僕の目の前で生きている。対して、僕の視界の中では、その琥珀は死んでいた。

 死にながら生きている。いや、死んでいたら死んでいるじゃないか。つまらない、と言われそうだから黙っていた。

「ふぁ~あ」


 紺のセーターに西日が与えた熱に包まれて、彼女はまどろむ。大きなあくびをして、長い手足を伸ばした。まだ僕は彼女の背丈に追いついていない。あまり考えたくないことだ。きっとそのうち追いつくだろうし。


「ねぇ、そーらーたっ。一緒に帰ろっかー」


 彼女の口がそう歌ったとき、少しだけ春の匂いがした。ああ、春だ。



 駄菓子屋でゼリーチューブを買った。人工的な果実の味がした。美味しいとは言えないけれど、上手く吸えなくてむせた彼女が、笑顔の種になった。

 見上げた空、赤が強く強くなって、その補色の青色に負けて夜がやって来る。


「いっつも思うんだ、夕焼けはどうしてあんなに赤いのに、夜空の青色に負けるんだろうって……」


 また彼女がよく分からないことを言った。でもよくよく考えると、その疑問は僕がさっきまで抱いていた疑問に似ている気がする。


 春はいつから来るのか。


 だから、少しだけ背伸びをしてみた。


「そうだね」

「あれ? 今度は賛同してくれた」

「悪いかよ」

「うーうん、むしろ嬉しい」


 アスファルトを踏みしめる革靴の足音が響く。彼女が笑うと僕も笑う。

 僕が感じた春の訪れを彼女が感じるころ。彼女の靴や服に桜の雪が降るころ。汗ばんで、雨が多くなって、制服の袖やスカートの丈が短くなるころ。青々とした木々がやがて色づいて燃え盛るころ。そしてまた枯れて、白い霜が降りるころ。僕らは同じ家路を同じ靴音で歩いている。いつか、僕の背丈が彼女を追い越すときも。


 僕らは、同じことを繰り返す。


 そんなことを思い描く僕の視界の中、彼女の右手に光を失った琥珀が見える。鈍い反射じゃ、夜の中では光れない。死にながら生きている琥珀の輝きは、僕にはやっぱり分からなかった。


 僕は彼女にはなれない。彼女は能動的で、僕は受動的。彼女は文学的で、僕は屁理屈を言う。彼女が美しいと謳う琥珀が、僕には濁って見える。僕には、それが彼女という存在に思えた。

 近くて遠いから。会話をしたり、触れ合いたいと思える存在。


「そーらーた。置いてくよ」


 ぼうっと考え事をしていたら、彼女との距離が離れていた。

 十歩ほど離れてしまった間を小走りで埋め直す。やがて、永遠に続けばいいと思っていた帰り道が終わってしまうことを悟る。僕は数えてみた。あと何歩で、僕は彼女と別れるのか。



 一歩。


 二歩。


 三歩。



 ……二十七歩。交差点の信号だ。赤信号。青信号になって横断歩道を渡れるようになったらお別れ。二十七歩と十数秒。別れは訪れた。さようなら、また明日。横断歩道を渡る。少しだけ空しくなった。二十七歩と十数秒。僕はそんな数字を知りたかったのだろうか。

 永遠などどこにもなくて、すべてに終わりがあるということを当たり前のように知りながら、どうして僕は数えてしまったんだろう。


 謎は謎でいいの、と彼女の声が、頭の中で響いた。

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