第四話

 遂に高校を卒業した娘は旅行で東京へやってくるという。数日こちらにいると言うから、少しの時間だけ会って話そうということになった。

 離婚の理由からわかる通り、私は彼女が思っているほど良い人間ではない。更に思い返せば、愛美からの手紙がなければ彼女の写真を探すこともなかっただろう。

 果たして、愛美はこの直筆の手紙から想像できる大和撫子か、それともSNSでの砕けたイマドキのギャルに育ってしまったのか。

 そもそもこの二通の手紙を書いた少女と、SNSで長くやりとりをした少女が同一の人物であるかも疑わしい。であれば、これが私の血を分けた娘であるということでさえも怪しくなる。もしかすると、全く関係のない人間が、私を陥れようとしている可能性だって存在する。

 手紙とSNS。どちらも相手の顔が見えないやりとりだ。約束の時間に向けて時計の針が進むのに伴って、私の中に小さく芽生えた疑心はかさを増していた。

 私は混線してしまった思考を解くためコーヒーを求めて卓上のカップに手を伸ばした。しかし、口元でいくら傾けても望みのものは流れてこない。どうやら先ほどの一口で飲み干してしまったようだった。空のカップをソーサーに戻して、あの美人のウエイトレスを呼んだ。

「コーヒーをもう一杯」

「かしこまりました」

 ウエイトレスは形式通りの対応で、店主らしき初老の男に注文を伝えると、また時計の前に戻った。

 やはりあの言葉遣いや立ち姿が綺麗なウエイトレスも、普段の生活では砕けた言い回しをするのだろうか。

 例えば、縒れたTシャツを着てスナック菓子を食べながら、下世話なバラエティ番組を見て下品な笑い声を上げるのだろうか。彼女の美しさは凡百の人間からは欠片も感じさせないものであるが、彼女だって人間だ。当然、性欲もあるだろう。ベッドでは男に跨がって、その端正な顔を歪めて善がっているのだろうか。そんな姿を想像した途端に、私は冷水を浴びたような寒気を覚えた。

 かつては私の妻だった愛美の母親は、このウエイトレスほどではないとしても、とても綺麗な人だった。高校生の頃の彼女は生徒会長を務めていて、その美しさが故に憧れの象徴だった。彼女が率いる生徒会の一員として名を連ねていた私は、他の生徒のために粉骨する姿を間近に見て彼女に惚れた。卒業式に私の思いを告げて、数年後には私たちは結ばれた。

 そこまではよかったのだ。愛美が聞かされたような優しい理由で、私たちは離婚したわけではない。その発端として彼女の中学受験は関わっているが、その本筋はよくある痴情のもつれというものだった。

 私は性行為というものがどうにも好きではない。それは一般的な男性からは離れているようで、普通は女性の裸体を見た際には劣情を催すらしい。私はそれが思春期の頃から薄く、せいぜいが顔の美醜を見定める程度である。

 私にだって生殖機能は備わっているわけだ。血の繋がった娘がいるということが、その何よりの証拠である。しかし、私は婚姻前の清い交際関係の時点でそういう行為に及ぶことはなかった。籍を入れたあとでも家計が安定するまでは考えることもなかった。彼女が子供を作りたいと言って初めて、そういう行為に至ったのだ。

 私たちは幾度の行為を重ねた末に愛美という愛しい娘を授かることになるわけだが、妻はすぐに二人目を望んだ。愛する子を得た今、そこまでして性行為をする必要を感じられず、私は金銭的な余裕がないことを理由に断った。それから彼女から誘ってくることはなかったが、それもあまり持たなかった。

 あれはちょうど愛美の中学受験の話が一段落ついたところだった。彼女が再び、私を行為に誘ってきたのである。私はそんな彼女に哀れみを抱いたのだ。

 とうに老けはじめ、肉体には以前の輝きは残っておらず、ただ快楽に善がる姿をまた見る日々が始まるのだと思うと辛かった。彼女は子を成すことよりも、行為そのものを欲していたようで、私はそんな彼女に愛情を注ぐことができなくなったのだ。

 私が乗り気でないのを見て、彼女は浮気を疑った。行為を求めない私を予てより怪しんでいたという。私はそれでも構わないからこの色情魔から離れたいと思った。せめて愛美の親権だけはと思っていたが、浮気をするような人間には預けられないと勝手に決められてしまった。私は一人で東京に追いやられたのだ。

 彼女は愛美に浮気の件は伝えていないらしい。私だってそうする。娘にこのような乱れた話を聞かせるものではない。

 愛美は私を良い父親だと思って、この約束の喫茶店を訪れる。

 だが私は、彼女のことは顔も知らない。

 私の中で生きている愛美は未だ幼い頃のままで、そこから十年もの時間が空いてしまえば、彼女が成長した姿など欠片ほども想像できない。さらに言えば、輝かしいほどの美貌を持つ若き元妻の姿でさえも私の中では醜く風化してしまった。

 髪は今も伸ばしているだろうか。声はまだ高く可愛らしいのだろうか。

 何もわからない。あの扉からその姿を現しても、私には「きっと彼女が愛美だ」とは思わないのだろう。

 手紙で見せた奥ゆかしい淑女のような筆致と、それと結びつかない頭の悪そうなSNSの彼女。文章、声音や表情で、いとも容易く人の印象は作られる。元妻のように時間の経過による記憶の風化は、それまで抱いていた印象を簡単に塗り替える。

 私が本来抱いていたはずの第一印象が娘だったとしても、記憶の姿と乖離し、まして元妻の面影がない若く美しい女性が現れたとしたら、きっと私は恋心を抱くだろう。そこには娘に対する情念は存在していないかもしれない。

 扉が開いて、鈴の音が鳴った。

 ウエイトレスが人数を問いかけると、店に入った客は可愛らしい声を震わせて待ち合わせと言った。

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Dear stranger. 汐屋伊織 @hikagenomura

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