11話 少女と始まりの場所と土だるま
***
そこは風の谷と呼ばれていた。風が生まれ、戯れ、過ぎ去る場所と。
東の空に陽が昇り、風の谷にある高い時計塔に陽が射すと、谷間に向けて一陣の東風が吹き、ぐわんぐわんと鐘が鳴る。
風の谷の朝は、この鐘の音から始まる。時計台の脇には南に向けて一本道が長く伸び、周辺はまだ薄暗いものの谷の中心部に向かうに連れ賑やかになる。
通りのパン屋からは焼きたてパンの香りが漂い、花屋のシャッターがガラガラと開き、食堂から出てきた店員がお勧めメニューの看板を設置する。
目覚め始めた街通りを、幼い少年が一人駆けていた。時計屋の老爺が見咎め、掃除の手を止め眠たげな目を向ける。
「おや珍しい。
ゆったりと落ち着いた声をかけられた少年は、年の頃二桁にも満たない年端もゆかぬ幼子であったが、律儀に足を止めて老爺を振り返った。
「おはようございます。菊咲さんは、昨日から世波さんのところです」
「ああ。あそこの奥さんも最近姿を見かけんかったが、そろそろか。子供もまだ若いんだがなあ──ああ。ああ、おい。飯は食ったのか?」
それには答えず無言でぺこりと頭を下げると、少年は再び駆け出した。追い縋る声には振り向かず、目指すは街の外れ。走り走って、張り出す石を渡って降りて、辿り着いたのは高く険しい両の岩壁がくっつきそうなほど近付く峡谷の底。
「トキ!」
「おう。来たのか」
細い滝の水を集める小さな湖の畔に、彼と同年代の少年が座り、何やら懸命に作業をしていた。手元から伸びる縄はあちこち複雑に結び付けられ、足先でわだかまっている。
「トキ何やってるの? 今日は特訓するって言うから朝ごはん食べずに急いで来たんだよ」
「だからその準備だよ準備。花屋のおっちゃんから奇形種用の罠を教わったんだ。それを試してみようと思ってさ」
「
「いいんだよ! どーせ俺らだってもう少し大きくなったら、おっちゃん達みたいに奇形種タイジ行くんだろ! だったら今から練習しておいた方がいいじゃねーか」
「トキは教えてもらったらすぐ天継さんで試そうとするから……後で俺にも教えてね。ちなみにその罠どこで試すの?」
トキと呼ばれる少年はようやっと手元から目を離し、こちらを見てニヤリと笑った。
「今ここでだっ!」
「そんな気したよっ!」
甲高い剣撃が峡谷に反響する。硬い岩畳を二人の少年が剣を手に舞う。少年達の持つ剣や構えはよく似ていたが、動きがやや異なった。
荒々しく大きな動きをするのは、目付きの鋭い少年トキ。大上段に振りかざした剣を叩きつけては飛びすさり、角度を変えた連撃を繰り出すことによって相手に反撃の隙を与えない。
一方、綺麗な形をとり基本に忠実な動きをする少年は、相手の動きに惑わされず連続で繰り出される剣を冷静にいなしており、真っ向から組み合うことをしない。
受け流される方は打撃が入る前に力の方向を変えられるため、消耗が大きい。少年トキの動きもまた、序盤の速さや勢いが徐々に衰えてくる。
的確な攻めに圧され気味だったトキが一瞬ちらりと足元を見た。剣を水平に払った少年は、今立っている場所が先程トキが罠の製作作業をしていた場所だと気付く。そういえば作り上げた罠は一体どこに置いたのか。
トキが僅かにバランスを崩したかように見えた。と同時に、少年の足に鋭い痛みが走る。一瞬少年の気が逸れる。その隙を逃さずトキが剣を振りかぶる。
「っしゃ! たぁぁぁぁっ!」
「うわわっ! 風陣!」
「──げっ!」
二人の間の地面から風が吹き上がり、防壁を築いた。気付いたトキは慌てて回避を試みるが、勢いを殺せないまま風の壁に剣を叩き込み、後方に弾き飛ばされてしまう。地面に叩きつけられたトキは、そのまま後方に回転し、岩壁にぶつかって止まった。
「トキごめんっ! 大丈夫!?」
風の防壁を消した少年が、慌てて駆け寄る。トキは頭を押さえながら起き上がった。
「ってえー。お前風術ナシって言っただろー?」
「ごめんつい。大丈夫?」
「大丈夫じゃねー。いてぇ」
言いながら立ち上がる様子に、大事なさそうだと安堵の息をつく。トキは本当に重症の時はこんな反応をしない。
立上がり腕を回していたトキが、ふと何かに気付いたように目を瞬いた。ほぼ同時に少年もそれに気付く。
険しく切り立った岩壁の上方から、ごうごうと渦巻く風の音が近付いてくると共にパラパラと緑葉が舞い落ちてくる。彼らがいる場所は普段人が寄り付かない。人の足でここに来るのは、少年が石を飛び渡り駆け降りた道が唯一となり、それ以外は掴む所すらないほぼ垂直の崖となっているため、容易には来れない。
足を使わずにやって来る者は別だが。
「──アヤ!」
空から、竜巻のように渦巻く風に乗って幼い少女が降ってきた。少年が手を伸べると、すとんと小さな体が中に収まる。軽いが確かに命を感じる柔らかい重さを、少年はしっかり抱き止める。
闇のように黒い少女だった。漆のように艶やかな黒髪はふわりと軽く、褐色の肌は甘い高級菓子のように滑らか、そして黒曜石のような双眸は悪戯っぽく煌めいている。まだ幼いながらもコケティッシュな魅力に溢れる美少女だった。
「アヤどうした? ここに来たら危ないって言っただろう」
少女の顔を覗き込んで聞くと、ぱちくりと瞬いた少女は首を傾げた。無言の主張を汲み取った少年は、困って眉を寄せる。
「俺達はもう大きいし慣れてるからいいんだ。アヤはまだ小さいし、風術あんまりうまくできないだろ」
少女はふるりと首を振る。
「このくらいへいき」
「──お前心配しすぎだよ。母さんみてぇ」
「何言ってるんだトキ。だって……!」
「で? アヤは何か用があったんじゃねーの?」
憮然とする少年を傍目にトキが尋ねると、少女は身軽に少年の腕から飛び降りた。
「うん。華芽さんからトキ達にってわたされたの」
少女が差し出した弁当箱に、育ち盛りの少年達の歓声があがったのは言うまでもない。
「ところでトキ、結局罠使わなかったけど良かったの?」
野菜や肉を挟んだ小麦色のパン、からりと揚げた肉、食べやすいように一口サイズにロールされた野菜、枯茶の硬い皮に包まれた果実。トキの母からの差し入れは一人分には余りある量だったので、三人はそれらを地べたに広げ、めいめい好きなものを取り分けた。
硬いパンに挟まれた薄切り肉を咀嚼していたトキは、ごくりと飲み込むと答えた。
「ロープの罠だから、こんな何もない所じゃ使えねぇよ」
「ここで試すって言ってなかった? ──アヤおいで。頬っぺたについてる」
「引っかけで試したじゃん。罠あるって思って隙になっただろー?」
「……っていうかあれズルい。風術使ってるんじゃない?」
疑いの眼差しはしれっとスルーして、トキは次の食べ物に手を伸ばす。少女の顔を布巾で拭う少年と黙ってされるがままになっている少女に、こういうのが確か「カホゴ」って言うんだよなと考えながら、肉にかぶりつく。
「でもアヤ、ホントあまりこの辺来ない方がいいと思うよ。谷の大人に変に思われたらイヤだろ。それに……」
少年が幾ばくか警戒の色を滲ませた瞳を岩壁の奥に向ける。さわりと風が揺れる。
「ここは、アヤが来た所だ。もしかすると戻れる場所、かもしれない。他のヤツが来るかもしれない。そんな危ない所に来ちゃダメだ」
トキもまたちらりと岩壁の奥に隠れる薄暗闇に目を向けた。少女が彼らの元にやって来たのは約四年前。ちょうど彼らがこの場所を見つけて、大人から隠れて遊ぶのに絶好の場所として入り浸り始めた時だった。
清水が白い糸のように垂れ下がる壁面の合間には、よく見ると人ひとり通れるくらいの細い隙間が一箇所ある。そこを進むと幾分と経たぬ内に行き止まりに突き当たるのだが、よくよく目を凝らしてみると左手に小さな横穴があるのだ。
そこでトキは赤ん坊を見つけた。
「ダイジョブだよ」
凛とした細い声にトキは追憶から引き戻される。彼らの小さな少女は、黒く大きな瞳で少年達をじっと見上げた。四年前に出逢った時から変わらぬ透明な深淵の眼差しで。
「あたしはここにいる。ずっとふたりといっしょだよ」
しかしそれは違えられたのだ。
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