雨粒を飲み込んで。

せいこちゃん。

雨粒を飲み込んで。



梅雨。湿気に包まれたこの世界は、とても気持ちの良いものではない。せっかくセットした髪の毛はごわごわに広がるし、汗で身体のそこら中がべたべたになる。コンクリートの道を歩けば、パンプスの中まで雨水が入ってぐちゃぐちゃになるし、風が吹けば傘なんて意味のない様に、衣替えしたばかりの白いYシャツが肌に張り付く。


それでも私は、この湿気たらしい、雨水に塗れた世界が好きだ。


しかし生憎今日の降水確率は30%。上を向けば青い空に灰色がかった雲がふよふよ動いていた。世間一般でいう30%は、傘を持っていくかいかないかのラインになるが、この調子では恐らく降らないだろうなぁ、とぼやぼや考えていると、隣で歩く彼女が立ち止まるのが横目に見えた。


ああ、またいつもの光景だ。



「ごめんなさい。」



隣で彼女がぺこりと頭を軽く下げる。艶やかな黒い髪がふわっと広がり、アナベルのような白い肌とのコントラストが際立つ。華奢な身体にスラッとした佇まい。街中を一緒に歩こうものなら、幾多の見知らぬ男から声を掛けられる様を隣で傍観する地獄を味わうことになる。


そして今も、地獄を見ているところであった。


見知らぬ男は手を振ってその場を後にする。それに応えるように、彼女は優しく微笑みながら手を振る。いつも思うが、何故この忙しい時間帯に声を掛けるような相手にそんなに優しくいられるんだ。放っておけばいいものの、彼女はいつも柔らかな表情で、真摯に対応する。自分なら、つっけんどんに、貴方なんか見えてません、てなくらいに避けるだろう。まあ、そんな経験なんて微塵も無いのだけれど。



「また、いつものね。」



吐き出す息と共に言葉に出た。私が少し意地悪そうに言ったものだから、彼女は少し苦笑いをしていた。


こんな光景をいつも見るものだから、朝は少し早めに出発する。そもそも何故顔も知らない男どものためにこちらが時間を合わせなきゃならんのだ、なんて最初は思っていたが、ここ最近は、地獄と言えども振り散らかされた男の顔を見るのも悪くないような気もしてくる。相変わらず自分の性格は捻じ曲がっているな、とつくづく思いながらいつもの通勤ルートを歩く。



「お弁当、ちゃんと持った?」



料理は彼女の担当。昼食の弁当も彼女のお手製だ。毎度彩りや栄養もきちんと考えられた、もはや芸術作品とも言える出来栄えなのだ。同性として、ここまで完璧な彼女を見ていると、嫉妬どころか賞賛の声が漏れそうになる。彼女の後ろから、コソッと唐揚げをつまみ食いして、少し小突かれたのを思い出した。



「ちゃんと、鞄に入れたよ。」


「ん、よくできました。」



しなやかな掌が、私の頭にぽんぽんと乗せられる。いつもそうだ。周りはもう結婚して乳飲み子もいるだろうという齢なのに、子どものような扱いをされる。頭ひとつ分抜きんでいるだけで、年齢は同じだというのに。



「今日もお仕事頑張ろう。」


「お互いにね。」



見慣れた交差点で、別れ際に手を振りながらそれぞれの職場に向かう。数歩進んで、ふと後ろを振り返ると同時に、両手を左右に大きく振りながら笑顔でこちらを見送る彼女が見えた。行き交う人に目も暮れず。


そんな天真爛漫な彼女に、私はいつも気を狂わされる。----見知らぬ男には見せない笑顔、少し優越感に浸る毎日なのだ。












短針が6の字を指す頃、終業のベルが鳴り響く。そして彼女との時間を過ごす合図でもあった。職場は違えど、終業時間も殆ど同じなので、業務を済ませたら互いに連絡を入れて、毎朝別れる交差点で待ち合わせをする。

変わらないルーティンなのだが、今日は少し違った。


ふと窓に目をやると、水滴がぽつぽつと張り付いているのが見えた。よくよく見ると、先程まで赤みがかった空が、真っ黒に染まった雲で空全体を覆うように蠢いている。



「梅雨だなぁ。」



天気予報で報道される降水確率の定義としては、予報する一定の時間の間に、予報エリアのどこかで1ミリ以上の雨が降る確率と言われている。つまり、どこかの地域で1、2ミリの雨量でも降っていれば、予報は的中しているのだ。世の中的には、洗濯物が干せないだの外出が億劫になるだの、繰り言が出るだろう。


夜ラッシュで辺り一面が色とりどりの紫陽花に見えるような中、私は一人交差点まで走る。忍ばせた折り畳み傘なんてなかったかの如く。パンプスの中やYシャツがぐちゃぐちゃになっても構わず、一目散に。


目的地に到着する前に、先に待っていた彼女がこちらへ足早に駆け寄る。



「折り畳み傘、持ってこなかったの?風邪ひいちゃうよ。」



彼女は傘を迎え入れ、鞄からタオルハンカチを取り出して、私の額に当てる。ふんわりとした、フローラルの香りが私の鼻をくすぐる。甘い、甘い香り。



「傘、忘れちゃって。」


「もう、忘れっぽいんだから。」



小さな折り畳み傘に、大人二人が入るものだから、自然と彼女の腕が肩に触れる。雨で冷え切っているであろう私の身体に熱を籠らせる。


帰ろう、と彼女は私の歩幅に合わせて歩き出す。雨声をBGMに、一つの小さなレモン色の折り畳み傘の下で、他愛もない話をしながら1日を振り返る。勿論、お手製弁当の感想も忘れずに。







冒頭に戻ろう。








私は、この湿気たらしい、雨水に塗れた今の世界が好きだ。


周りがどんなに不服な表情を浮かべていても、私は恐らく耐えようにも耐えきれず、笑みが口角に浮かび上がるだろう。気持ち悪いほどに。


直径50センチ程の屋根の下、誰にも邪魔されない空間の中で、私は今日も多幸感に溺れながら、額に滴る雨粒を飲み込むのだ。




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雨粒を飲み込んで。 せいこちゃん。 @sik-770

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