第一章
第一話
「夏と言えばホラー小説なんですよ」
カウンター席に座る男が、唐突に口を開いた。
科学喫茶こと『C3-Lab』の店内は学生客で
科学喫茶の店内BGMが
時刻は正午過ぎ。朝方の
科学喫茶では年中通して、室温は二十六度に設定されている。極端に冷やされているわけでもなかったが、それでも
「へえ、そうなんだ。私はあんまり読まないけど」
緋子は男の発言に対し、ゆっくり時間を掛けてから返答した。興味なさげな緋子の口調からは、男との関係性が
緋子は白衣を巻き込む形で、カウンターの内側に置いてあるスツールに腰を下ろした。今日の緋子は、ワインレッドのノースリーブサマーニットの上に、白衣を
受けていた注文を全て
そんな緋子の余裕を狙って、常連客の小説家は口を開いたようだった。そういう意味では、彼の発言のタイミングは唐突とは言い
「緋子さんは、夏は
「なにそれ」
「少年少女向けの小説です。ヤングアダルトとか」
「ふうん、そうなんだ」緋子はまたも興味なさげに
緋子は掛けていた眼鏡を外し、白衣のポケットから取り出した眼鏡拭きでレンズを拭き始める。特別汚れているわけではなかったが、一息つくときに緋子がよくとる行動だった。
「小説読まないで、他に何をするんです?」
小説家は不思議そうに尋ねたが、緋子は答えなかった。小説家は返答が得られなかったことで会話が終わったと判断したのか、口を結んで視線を下げた。
眼鏡を拭きながら、緋子はちらと、小説家に視線を向ける。
緋子は彼の
何冊かは本を出版しているようなので、一応は人気がある作家なのだろう。
この小説家は、どうやら緋子に気があるらしく、店に足
科学喫茶は基本的にはワンオペ営業だが、最悪の場合は彼の手を借りられるという期待もあるため、少々鬱陶しいが店にいてくれた方がありがたい、という立ち位置の客だった。それに、彼は一度の来店で注文する量も多いので、売上的にも良客である。緋子に気があるそぶりさえ見せなければ、科学喫茶にとっては最高の客と言えるだろう。
小説家は、普段はテーブル席に
「夏休みに入りますとね、人はホラー小説を求めるんですよ」小説家はしばらく時間を置いてから、同じ話題を口にした。「何故かは知りませんが、そういう風に体が出来ているんでしょうね。夏! ホラー!
「そうなんだ」緋子は眼鏡を拭き終えて、装着する。「すごいね」
「だから僕もですね、書き始めることにしたんですよ、ホラー小説ってやつを。とは言え元々ホラー作家ってわけじゃないんで、全くの別ジャンルへの挑戦になるわけなんですけどね……やっぱこう、大いなる流れには乗った方が良いよなっていう気に、最近なってきまして。季節感って大切だよなとか、思うようになりました」
「今から書いても間に合わないんじゃない」緋子は自分用の飲み物を用意しながら尋ねた。今回はアイスコーヒーではなく、アイスティーを作る予定だ。「よく知らないけど、本になるのってだいぶ先なんでしょ」
「その通りです。今から書いても絶対に夏の号には間に合いませんし、本なんか出せません。そもそも出版社からホラー小説の依頼も来ていません」
「ダメじゃん」
「そうなんですよ。ダメなんですよ、緋子さん」小説家は自分の伝票を確認してから、「すみません、僕にもアイスコーヒーをお代わりさせてください」と言った。十数分前から彼のグラスは
「シロップは?」
「シロップ抜きで。ミルクもいらないです」
緋子は伝票に『レ』と書き込む。チェックマークではなく、『
緋子は自分の飲み物よりも先に、追加オーダーを片付けることにした。氷を入れたグラスに、作り置きしてあるアイスコーヒーをジャグから
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます。いやあ……この涼しい店内で飲む苦味のあるアイスコーヒーってのが、また格別なわけですよ」そう言いながら、小説家は一口すする。「緋子さんの作る珈琲は美味しいですからね、緋子さんへの好意とは別に、僕は珈琲のファンでもあるのです」
「あそう」
「それに今日は緋子さんを対面で
「そりゃどうも」緋子は呆れたように微笑んだ。
「それでですね」小説家は唐突に、話を戻す
「そうなんだ。良かったね」
「ただ! ただですよ。このまま順調に作家業を続けられたとしても、ヒット作も出せないこの状況じゃあ、まだまだ緋子さんにプロポーズするには程遠いわけです。何かでかい賞でも取るか、何らかのジャンルで名を
取り出されたのは、筆記用具、メモ用紙、デジタルカメラ、ストップウォッチ、ボイスレコーダーだった。緋子はその道具を見ながら、スマートフォンが一台あれば全部まとめられそうだな、とまず想像した。その後で、小説を書く道具というよりは、取材をするための道具に見えるな、と思う。
「取材道具?」
「はい。取材道具です」
「ふうん」
「編集者さんのツテを頼りに、妖怪小説とかホラー小説とかを書いている先生に話を聞いてもらってですね、そういう、心霊現象のプロフェッショナルの方との取材にこぎつけたんですよ。本当に偶然なんですけど、どうやら市内にそういう人がいるらしくて。夏はホラー小説とか言いましたけど、実際、僕、そっち方面はからっきしだったので、あんま詳しくなかったんですよね。いやしかしまさか市内にいるとは思いませんでしたね……まあとにかく、その取材をするための道具です。それに最近、本当にようやくと言うべきですけど、小説を書くための取材の重要性を理解し始めましてね、今回が初取材なんですよ」
「大変そう」緋子は
「はい! そりゃもう頑張りますよ。十万部売れるような小説が書ければ、年収一千万も夢じゃないですからね。そうしたら、緋子さんに改めてプロポーズしに来ますから」
「あそう。売れ残ってるといいね、私が」
緋子が言うと、小説家は真顔で緋子を見つめて、無言のまま何度か口を
「…………あ、えっと……もしかして、緋子さん、今、お付き合いされてる方が、いたり、するんですか?」
「さあ」緋子は意地悪そうに微笑む。「どうだろうね」
「いや……いやいやいや。ごめんなさい。質問は
「まあ、頑張って」
結婚するのであれば、年収
話に付き合っているだけなら、小説家は緋子にとって興味深い対象である。多少
緋子はあまり結婚願望が強い方ではないので、結婚相手の条件など真面目に考えたことがなかった。年収についても、どれくらいが理想的なのかという計算をしたことはない。なんとなく、年収五百万くらいあれば考えても良いかな、と想像する程度だ。それにしても、同年代の平均額より少し高めに言っているだけである。
緋子は、
仮にこの男が店で小説を書いてお金を稼ぎながら、店が忙しくなったら注文を取ったり
緋子はふと、身近な
彼女は大学生時代、緋子と同様に結婚にはあまり興味を示さず、女一人で生きていくようなことを言っていた気がする。しかし大学を出てすぐに結婚し、その一年後には子どもを儲けていた。子どもが出来たから結婚をした……というわけでもないだろうから、彼女の中で何らかの意識改革が行われたのだろう。何が決め手だったのだろうか。安定性か、世間体か、それとも恋愛感情が燃え上がったのか……あの男にそこまで燃え上がるか? と、失礼な思考を浮かべたところで、緋子は連鎖的に、彼女の職業に思い
そういえば、冬子も
「あのさ、その取材相手って、七ツ森さんって名前だったりしない?」
緋子は疑問をそのまま口にした。
「え? 誰ですか?」
しかし、小説家は不思議そうに首を
「違うなら別にいいんだけど。知り合いがそういう仕事してるから、もしかしたらその人が取材相手かな? って思ったわけ」
「へえ、お知り合いが霊能力者なんですか」
「知り合いっていうか……えっと、
七佳、というのは、冬子の娘に当たる少女のことで、本名は七ツ森
夏乃佳も小説家と同様、科学喫茶の常連客である。平日の学校帰りには、ほぼ毎日この店に来て、閉店まで宿題などをして時間を潰している。夏乃佳が家で一人にさせるのは
「あ、あー……あの女の子のお母様がそうなんですか。へえ……知りませんでした」小説家は目を大きく開いて、驚いたように言った。「僕は多分、お母様にはお会いしたことがないですねえ。もしかしたら知らないうちに同席してるかもしれませんけど……ていうかそう言えば、今日はあの子、いないですね」小説家はカウンター席を見てから、テーブル席にまで視線を泳がせる。「いやそうか、小学生は夏休み中ですもんね。その間は、家でゆっくりしてるんですか?」
「いや、多分二時頃に来るよ。今日はプールの日だったと思うから」
「プールの日? ……ああ、ありましたね、そんなの。夏休み中にプールだけ入りに行く日が。『プール授業の日』とか言いませんでした? 僕も昔は活動的だったんで、よく行ったもんですよ」
「うーん、忘れちゃった。そもそも私、地元こっちじゃないし。でもそういう授業はあったね」
「いやー……プール授業って、今のご時世でもちゃんとあるんですねえ。なんか最近だと、不審者が侵入してきそうで怖いですけどね。夏って特に、開放的になって、変なことするバカが増えるじゃないですか。そのうち夏休み中のプールに不審者が……とかいう事件が起こりそうで、なんか心配になっちゃいますよ。血に
「そうだね」
「あ、そう言えば事件で思い出しました。あのう、ほら、ニュース見ました? 二日前くらいだったかな……突然男の子が行方不明になったってニュース」
「そりゃ、行方不明は突然でしょ」緋子は
「いやまあそうなんですけど……えっと、どれだったかな」
小説家がスマートフォンを操作し始めたので、緋子は三角フラスコに入ったアイスティーを少し飲んだ。シロップなどは入れていないが、茶葉だけでも十分に甘みが感じられる。店内の客たちに視線を向けるが、皆、
緋子はそのまま、視線を窓の方に向けた。相変わらず、目が
「ああ、ありました。ほら、これです」
小説家が差し出したスマートフォンを受け取り、緋子は記事を眺めることにした。見出しには確かに、小学生男子が行方不明になったと書かれている。
見覚えのある固有名詞がたくさん
行方不明になったのは、小学二年生の男の子だった。
「ふうん」緋子は記事を読み終えたあと、スマートフォンを小説家に返す。「こんなことあったんだね、知らなかった。私、あんまりニュースとか見ないから」
「身近でこういう事件が起こると、ちょっと緊張しちゃいますよね。自分でも何か事件の役に立つんじゃないか? っていう期待をしちゃって、でも結局何も出来ない自分が嫌になるみたいな。なりません?」
「ならない」緋子はゆっくりと首を振る。
「さいですか。そう言えばこの事件、どうも
「へえ。なんで神隠し?」
「さあ、なんででしょう。夏に子どもがいなくなったからですかね」
それだけで神隠しと言うなら、夏に起きた不思議な事件は全て神様の
乱暴な定義に、緋子は少し笑いながら、もう一度小説家の奥に見える窓に視線を移した。そこには相変わらず、心を締め付けるほどの夏色の空が広がっている。
「……男の子の名前、夏川って言うんだね」
「何か心当たりでもあるんですか?」
「いや、今、夏だし」視線を窓の外から小説家に戻す。「七佳の名前も、夏だなって思っただけ。全然関係ないんだけど、パッと思ったのが、そのまま口に出ちゃった」
「ああ」小説家は
「なんで?」
「え? そういう言葉遊びではなくてですか?」
「……ああ、そういうこと」緋子は夏乃佳のフルネームを思い浮かべる。確かに、なつという音が入っている。「そうかあ、七佳の名前には二つも夏が入ってるんだ。夏は七佳の季節だね」
「いいですねえ、夏が似合う人って。
「いいよ」緋子は興味なさそうに言う。「名前には何か入ってないわけ? 季節っぽい単語」
「名前? ああ、入ってないですね。本名も、ペンネームの方も、季語っぽいものは何も……今思えば、そういうのを入れておけば良かったかなと思いますね。もしかしたら、その季節になったら特集されるかもしれないし。年に三ヶ月くらいは必ず話題になると考えると、それもそれで有りだったかなぁ……」
「ペンネーム、
「
「知らない」緋子は首を振りながら言った。
「なんかそういう言葉遊びありましたよね。なんでしたっけ?」
「何それ」
「えっと……なんか、お店の入り口に書いてあるようなやつです。すみません、ど忘れしちゃったんですけど」
「ああ……
「ああ、それですそれです。秋だけないやつ。なんて読むんでしたっけそれ」
「そのまんまだよ。秋がないから、
「おー、
「昔修行してた喫茶店の壁に貼ってあったから、覚えちゃった」
「へー、緋子さんにもやっぱり修業時代があったんですね」
「そりゃそうでしょ」
話している間に、高校生の二人組が伝票を持ってやってきたので、緋子は会話を打ち切り、立ち上がって対応をした。
女子高生の注文は、二人ともアイスティーとケーキだった。ケーキは違う味のものを一つずつ注文している。ケーキを運んですぐに、彼女たちはスマートフォンで写真を撮っていた。それらの写真は、彼女たちの顔写真と共に、SNSにアップロードされたのだろう。緋子には理解出来ない欲求からくる行為だろうが、これが意外にも良い宣伝になっているので、撮影を禁止する予定はない。
科学喫茶は、食器の代わりに実験器具を利用して、飲食物を提供している。飲み物にはグラスの代わりにビーカーやフラスコが、食べ物の場合は皿の代わりにシャーレやアルミバットが使われることが多い。もちろん、通常の
実験器具を使用する理由は、緋子の趣味であるという側面もあるが、容器自体に目盛りがついているため、飲み物の量が
会計を済ませ、二人の女子高生を見送ったあと、緋子は再びスツールに腰掛けて、「テーブル席、空いたよ」と小説家に言った。
「あ、それはつまり、ここからいなくなれって意味ですね?」
「別にいてもいいけど。作業しにくいんじゃないかと思って」
カウンターはテーブル席に比べると奥行きがないため、小説を書くならテーブルの方が良いだろう、と思っての発言だった。もっとも、優しさが二割、そろそろ会話にも飽きてきたし、後片付けをしておきたいな、という気持ちが八割のバランスで繰り出された言葉であった。
「いえ、大丈夫です。今日はさっきお話した取材があるので、元々、あと五分くらいで出る予定だったんですよ」
「あそう。予定があるのに、わざわざうちに来てくれたわけ」
「そりゃもう、緋子さんに会いに来るのが目的ですからね」小説家はさも当然のように言ったが、論理性に
小説家はカウンターに広げた書類などをバッグにしまいながら、「そう言えば、さっきおっしゃってたお嬢さんのお母さん? でしたっけ。七ツ森さん。機会があれば、その人にも取材したいですねえ。どういう仕事されてるんですか?」と、今更ながらに尋ねる。
「さあ、詳しくは知らないけど……
「そうですか。やっぱり、いるところにはいるんですよねえ、そういう人って。現実問題、日常生活の中で非科学的な現象に
「私は信じてないけどね」
「まあ、僕もそういう心霊現象って立ち会ったことないですし、信じてはいませんねえ」
ふいに緋子は、小説家と夏乃佳の関係について考えた。そう言えば、この小説家は意外にも、夏乃佳とは直接的な関わりがないのかもしれない、と気付いた。もちろん常連客同士、お互いに認識はしているはずだが、夏乃佳に霊視の能力があることは知らない可能性があった。幽体離脱体質、ということくらいは知っているかもしれないが、直接会話をしたことがあるかは怪しいところだ。まあ、普通に考えて、常連客同士が知り合いになるということ自体が珍しいのだが。夏乃佳の社交性を
「ま、取材頑張って」緋子は言って、立ち上がった。「片付けてくる」
「ありがとうございます。今回の取材でピンとくるものがなければ、その、七ツ森さんて方にも話聞いてみたいので、
「うーん、そうね、向こうが良いって言ったら」
「助かります」
緋子がカウンターを出てテーブル席の食器を片付け始めると、別のテーブル席から声が掛かった。追加オーダーだろうか。緋子は白衣のポケットから伝票とペンを取り出して、先にオーダーを受けてしまうことにした。
普段より客も多いし注文も増えているはずだが、あまり忙しいとは感じない。一人だけの接客でも、喫茶店として十分に機能している。そもそも、科学喫茶が行列の出来るようなタイプの店ではないからだろう。コーヒーショップのチェーン店などに比べて価格設定が少々高く、席数も少ないため、時間を潰すために利用する客は多くない。住宅地の中にあるという立地も、客層を
追加オーダーはアイスコーヒーだったため、伝票には『レ2』と書いた。今日はアイスコーヒーがよく売れるな、と思う。緋子はジャグ二つ分の作り置きを決意した。夏乃佳がやってくる前には、時間の掛かりそうな作業は片付けておきたいという想いもある。
きっと今日も、夏乃佳の夏休みの宿題を眺めることになるだろう。
それと一緒に、夏休みの自由研究についても計画しなければならない。
緋子の弟の
緋子はカウンターに戻り、使用済みの器具を
「頑張って」
緋子が声を掛けると、小説家は「期待しててください!」と言って、店を出て行った。何について期待すれば良いのだろうか、と五秒ほど考えてみたが、彼に何かを期待したことは一度もないということに気付いて、緋子は静かに思考を消し去った。
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