第一章

第一話

「夏と言えばホラー小説なんですよ」

 カウンター席に座る男が、唐突に口を開いた。

 科学喫茶こと『C3-Lab』の店内は学生客でにぎわっていた。夏休みにも関わらず制服に身を包んだ高校生や、背伸びをして子どもだけで喫茶店にやってきた私服姿の中学生などが散見さんけんされる。それぞれが、この夏を謳歌おうかするために生命を燃やしているような、そんなエネルギッシュさを感じさせる。

 科学喫茶の店内BGMがき消えるほどに、学生たちの活動は騒がしい。スマートフォンのシャッター音や、時折ときおりき起こる笑い声などは少々やかましく感じられたが、店主の猫目ねこのめ緋子ひこは、それも夏の風物詩ふうぶつしだと思うようにしていた。

 時刻は正午過ぎ。朝方のあわれむ程度の涼しさも消え、外界は本格的な夏に満たされていた。窓ガラス越しに青空を見ているだけでも、汗をかきそうなくらいだ。

 科学喫茶では年中通して、室温は二十六度に設定されている。極端に冷やされているわけでもなかったが、それでも避暑ひしょ目的で逃げ込むには良い塩梅あんばいだった。

「へえ、そうなんだ。私はあんまり読まないけど」

 緋子は男の発言に対し、ゆっくり時間を掛けてから返答した。興味なさげな緋子の口調からは、男との関係性がうかがえるようだ。

 緋子は白衣を巻き込む形で、カウンターの内側に置いてあるスツールに腰を下ろした。今日の緋子は、ワインレッドのノースリーブサマーニットの上に、白衣を羽織はおっている。昨日もほとんど同じ服装だった。店を開けている間は、緋子は大抵同じような服装をしている。イメージ戦略というわけでもないが、仕事着について試行錯誤しこうさくごしているうちに、いつの間にかこの組み合わせが定着していた。エプロンわりの白衣は、今や科学喫茶のトレードマークになりつつある。

 受けていた注文を全てさばききり、つかの間の休息が訪れたところだった。あとは追加オーダーがあるか、会計が発生するか、あるいは次の来客があるまで、特にやるべき仕事はない。

 そんな緋子の余裕を狙って、常連客の小説家は口を開いたようだった。そういう意味では、彼の発言のタイミングは唐突とは言いがたい。狙いすましたように、とひょうするべきだろう。

「緋子さんは、夏は冒険小説ジュブナイル派ですか?」

「なにそれ」

「少年少女向けの小説です。ヤングアダルトとか」

「ふうん、そうなんだ」緋子はまたも興味なさげにつぶやく。「そもそも私、小説ってあんまり読まないんだよね。雑誌は読むけど」

 緋子は掛けていた眼鏡を外し、白衣のポケットから取り出した眼鏡拭きでレンズを拭き始める。特別汚れているわけではなかったが、一息つくときに緋子がよくとる行動だった。あんに、小説家との会話に注力する気はないと言っているようなものだ。

「小説読まないで、他に何をするんです?」

 小説家は不思議そうに尋ねたが、緋子は答えなかった。小説家は返答が得られなかったことで会話が終わったと判断したのか、口を結んで視線を下げた。

 眼鏡を拭きながら、緋子はちらと、小説家に視線を向ける。

 緋子は彼の素性すじょうを詳しくは知らないが、どうやら文筆業ぶんぴつぎょうで生計を立てているようである。緋子よりも何歳か年下であると予想していた。それなりに人生経験はあるようだが、どこか世間知らずな感が否めない雰囲気をしている。

 何冊かは本を出版しているようなので、一応は人気がある作家なのだろう。献本けんぽんと称して著作ちょさくをもらったこともあったが、緋子はまだ読んだことがなかった。読み終えたら店の書棚に入れてやろうかと考えていたが、結局開いてすらいない。しかし、感想を求められることもないので、そのまま放置し続けている。

 この小説家は、どうやら緋子に気があるらしく、店に足しげく通っては、隙を見て緋子にアプローチしてくる変わり者だ。だが、忙しい時や、他の客との接客中には空気を読んで大人しくしているため、緋子は彼をあまり迷惑な客だとは思っていない。むしろ、過去に緋子が慌ただしく接客をしていた時には仕事を手伝ってくれたこともあったくらいなので、便利な客という認識がある程だった。ファミリーレストランでホールスタッフをしていたらしく、接客対応もそれなりに様になっていた。

 科学喫茶は基本的にはワンオペ営業だが、最悪の場合は彼の手を借りられるという期待もあるため、少々鬱陶しいが店にいてくれた方がありがたい、という立ち位置の客だった。それに、彼は一度の来店で注文する量も多いので、売上的にも良客である。緋子に気があるそぶりさえ見せなければ、科学喫茶にとっては最高の客と言えるだろう。

 小説家は、普段はテーブル席に陣取じんどってノートパソコンを広げ、一心不乱いっしんふらんに小説を書いている。だが、今日はテーブル席が空いていなかったため、カウンター席に座っていた。全部で六席あるカウンター席にしても、小説家の隣が一席分空いているだけで、他は全て埋まっている。夏季休暇中の科学喫茶は、繁忙期はんぼうきである。もっとも、午後に向かうにつれて多少は忙しさが減るはずだった。

「夏休みに入りますとね、人はホラー小説を求めるんですよ」小説家はしばらく時間を置いてから、同じ話題を口にした。「何故かは知りませんが、そういう風に体が出来ているんでしょうね。夏! ホラー! 肝試きもだめし! そんな感じです。夏になると、心霊体験の特番とかも放映されますし、最近だと、心霊スポットめぐりをする動画とかもアップロードされますよね。暑い夏に、背筋が凍るような想いをして涼みたいっていう……本能的な欲求なんですよ、これは」

「そうなんだ」緋子は眼鏡を拭き終えて、装着する。「すごいね」

「だから僕もですね、書き始めることにしたんですよ、ホラー小説ってやつを。とは言え元々ホラー作家ってわけじゃないんで、全くの別ジャンルへの挑戦になるわけなんですけどね……やっぱこう、大いなる流れには乗った方が良いよなっていう気に、最近なってきまして。季節感って大切だよなとか、思うようになりました」

「今から書いても間に合わないんじゃない」緋子は自分用の飲み物を用意しながら尋ねた。今回はアイスコーヒーではなく、アイスティーを作る予定だ。「よく知らないけど、本になるのってだいぶ先なんでしょ」

「その通りです。今から書いても絶対に夏の号には間に合いませんし、本なんか出せません。そもそも出版社からホラー小説の依頼も来ていません」

「ダメじゃん」

「そうなんですよ。ダメなんですよ、緋子さん」小説家は自分の伝票を確認してから、「すみません、僕にもアイスコーヒーをお代わりさせてください」と言った。十数分前から彼のグラスはからだったので、緋子の手がくまで注文を待っていたのだろう。

「シロップは?」

「シロップ抜きで。ミルクもいらないです」

 緋子は伝票に『レ』と書き込む。チェックマークではなく、『れいコーヒー』という意味の文字だった。ブレンドの場合は『コ』と書いている。どちらも一筆ひとふでで書けるため、こうした書き方を採用している。他のドリンクに比べてコーヒーは注文の絶対数が多いので、文字数を減らしているうちに、そのように変化していったのだ。ちなみに、シロップ入りの場合は『レ○』となる。価格の差はないが、科学喫茶のアイスコーヒーはシロップが入った状態で提供されるので、確認のために必要な区別だった。

 緋子は自分の飲み物よりも先に、追加オーダーを片付けることにした。氷を入れたグラスに、作り置きしてあるアイスコーヒーをジャグからそそいだ。そろそろ、新しいのを作っておかなければいけないかな、と考える。開店から五時間で、既に三リットルのジャグが二つ終わっていた。昨日に比べ、売れ行きは好調のようである。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。いやあ……この涼しい店内で飲む苦味のあるアイスコーヒーってのが、また格別なわけですよ」そう言いながら、小説家は一口すする。「緋子さんの作る珈琲は美味しいですからね、緋子さんへの好意とは別に、僕は珈琲のファンでもあるのです」

「あそう」

「それに今日は緋子さんを対面で独占どくせん出来てますから、最高ですよ。もうほんと、最高の夏休みですよ! 今日は絶対、夏の思い出になります! 僕の夏休みは今日がピークです!」

「そりゃどうも」緋子は呆れたように微笑んだ。

「それでですね」小説家は唐突に、話を戻す仕草しぐさをする。「まあ僕もですね、作家として生活をし始めて、早三年になります。年齢から考えると、普通に就職した同級生たちよりも稼ぎは少ないわけですが……それでもまあ、一発屋で終わらずに、なんとかここまでこられたという感じなんですよ。冷静に考えるとですね、三年も働けてるのは奇跡的ですよ」

「そうなんだ。良かったね」

「ただ! ただですよ。このまま順調に作家業を続けられたとしても、ヒット作も出せないこの状況じゃあ、まだまだ緋子さんにプロポーズするには程遠いわけです。何かでかい賞でも取るか、何らかのジャンルで名をせないといかんわけです。世の女性たちは、年収一千万円ある結婚相手を求めていると聞きますからね。緋子さんも五百万円は最低ラインだといつだか言っていましたし。だから僕も早くそうならないとと思って、自分からですね、出版社に営業を掛けようと思い立ったわけです。そのために、色々とですね」小説家はかばんから、書類や機器を取り出して、カウンターに広げた。「このように、用意を、しているわけです」

 取り出されたのは、筆記用具、メモ用紙、デジタルカメラ、ストップウォッチ、ボイスレコーダーだった。緋子はその道具を見ながら、スマートフォンが一台あれば全部まとめられそうだな、とまず想像した。その後で、小説を書く道具というよりは、取材をするための道具に見えるな、と思う。

「取材道具?」

「はい。取材道具です」

「ふうん」

「編集者さんのツテを頼りに、妖怪小説とかホラー小説とかを書いている先生に話を聞いてもらってですね、そういう、心霊現象のプロフェッショナルの方との取材にこぎつけたんですよ。本当に偶然なんですけど、どうやら市内にそういう人がいるらしくて。夏はホラー小説とか言いましたけど、実際、僕、そっち方面はからっきしだったので、あんま詳しくなかったんですよね。いやしかしまさか市内にいるとは思いませんでしたね……まあとにかく、その取材をするための道具です。それに最近、本当にようやくと言うべきですけど、小説を書くための取材の重要性を理解し始めましてね、今回が初取材なんですよ」

「大変そう」緋子は頬杖ほおづえをつきながら、興味なさそうに言う。「頑張って」

「はい! そりゃもう頑張りますよ。十万部売れるような小説が書ければ、年収一千万も夢じゃないですからね。そうしたら、緋子さんに改めてプロポーズしに来ますから」

「あそう。売れ残ってるといいね、私が」

 緋子が言うと、小説家は真顔で緋子を見つめて、無言のまま何度か口を開閉パクパクさせた。

「…………あ、えっと……もしかして、緋子さん、今、お付き合いされてる方が、いたり、するんですか?」

「さあ」緋子は意地悪そうに微笑む。「どうだろうね」

「いや……いやいやいや。ごめんなさい。質問は撤回てっかいします。緋子さんの私生活に僕があれこれ言うのは間違ってました。僕がすべきなのは、緋子さんが独身のうちにプロポーズ出来るように、可及かきゅうすみやかに年収を上げて、人間としての安定感を高めることです」

「まあ、頑張って」

 結婚するのであれば、年収云々うんぬんよりも、人間関係の構築の方が優先されるのではないか、と緋子は思ったが、本当に小説家の年収が一千万円になったら面白いので、黙っていることにした。

 話に付き合っているだけなら、小説家は緋子にとって興味深い対象である。多少鬱陶うっとうしさが垣間かいま見えるが、まだ許容範囲だ。無害な青年と会話をするくらいは、サービスのうちだととらえても良い。

 緋子はあまり結婚願望が強い方ではないので、結婚相手の条件など真面目に考えたことがなかった。年収についても、どれくらいが理想的なのかという計算をしたことはない。なんとなく、年収五百万くらいあれば考えても良いかな、と想像する程度だ。それにしても、同年代の平均額より少し高めに言っているだけである。

 いて言えば、一緒にこの店を切り盛りしてくれる相手か、緋子の生活スタイルに口を出さずにお金を稼いでくれる相手が良い。つまりは、現在の緋子の生活を尊重そんちょうしてくれる相手でなければならない。

 緋子は、あせったようにアイスコーヒーを飲む小説家を、じっと見つめる。

 仮にこの男が店で小説を書いてお金を稼ぎながら、店が忙しくなったら注文を取ったり配膳はいぜんをしたりしてくれれば、結構楽かもしれないな、という想像をしてみた。だが、そこには恋愛感情のようなものは見当たらないので、打算ださん的な考えだと言える。いな、そもそも結婚という契約に恋愛感情が必ずしも必要なのだろうか、という疑問も浮かんでくる。結婚をするためには、何が必要なのか。人々はどのような思考を経て、結婚に踏み出すのだろう?

 緋子はふと、身近な既婚きこん者のことを考えた。緋子の大学の先輩であり、今も付き合いのある七ツ森ななつもり冬子とうこという女性のことだ。

 彼女は大学生時代、緋子と同様に結婚にはあまり興味を示さず、女一人で生きていくようなことを言っていた気がする。しかし大学を出てすぐに結婚し、その一年後には子どもを儲けていた。子どもが出来たから結婚をした……というわけでもないだろうから、彼女の中で何らかの意識改革が行われたのだろう。何が決め手だったのだろうか。安定性か、世間体か、それとも恋愛感情が燃え上がったのか……あの男にそこまで燃え上がるか? と、失礼な思考を浮かべたところで、緋子は連鎖的に、彼女の職業に思いいたった。

 そういえば、冬子も霊媒師れいばいしみたいな仕事をしている。家も市内にあるし、そういう職業の人間は、そうは多くないはずだ。

「あのさ、その取材相手って、七ツ森さんって名前だったりしない?」

 緋子は疑問をそのまま口にした。

「え? 誰ですか?」

 しかし、小説家は不思議そうに首をかしげるだけだった。どうやら別人らしい。せまい町なのに、特殊な職業にいている人が多くいるようだ。いや、そもそも冬子は何らかの団体に所属しているはずだから、会社があるのかもしれない。きっと、冬子と同じ会社の人間が取材相手なのだろう。緋子は一瞬のうちに、そのように思考を展開した。

「違うなら別にいいんだけど。知り合いがそういう仕事してるから、もしかしたらその人が取材相手かな? って思ったわけ」

「へえ、お知り合いが霊能力者なんですか」

「知り合いっていうか……えっと、七佳なのかのお母さん」

 七佳、というのは、冬子の娘に当たる少女のことで、本名は七ツ森夏乃佳かのかと言った。七佳という呼び方は、フルネームの最初と最後を取ったあだ名である。緋子は会話の中でさも当然のようにあだ名を口にするが、彼女をこう呼ぶ人間は、実は緋子の他には数名しかいない。

 夏乃佳も小説家と同様、科学喫茶の常連客である。平日の学校帰りには、ほぼ毎日この店に来て、閉店まで宿題などをして時間を潰している。夏乃佳が家で一人にさせるのは心許こころもとない体質であり、一般的な託児たくじ施設に預けるのも難しいため、両親と親交のある緋子が彼女のベビーシッターのような役割を担っていた。

「あ、あー……あの女の子のお母様がそうなんですか。へえ……知りませんでした」小説家は目を大きく開いて、驚いたように言った。「僕は多分、お母様にはお会いしたことがないですねえ。もしかしたら知らないうちに同席してるかもしれませんけど……ていうかそう言えば、今日はあの子、いないですね」小説家はカウンター席を見てから、テーブル席にまで視線を泳がせる。「いやそうか、小学生は夏休み中ですもんね。その間は、家でゆっくりしてるんですか?」

「いや、多分二時頃に来るよ。今日はプールの日だったと思うから」

「プールの日? ……ああ、ありましたね、そんなの。夏休み中にプールだけ入りに行く日が。『プール授業の日』とか言いませんでした? 僕も昔は活動的だったんで、よく行ったもんですよ」

「うーん、忘れちゃった。そもそも私、地元こっちじゃないし。でもそういう授業はあったね」

「いやー……プール授業って、今のご時世でもちゃんとあるんですねえ。なんか最近だと、不審者が侵入してきそうで怖いですけどね。夏って特に、開放的になって、変なことするバカが増えるじゃないですか。そのうち夏休み中のプールに不審者が……とかいう事件が起こりそうで、なんか心配になっちゃいますよ。血にまみれた二十五メートルプールですよ」

「そうだね」

「あ、そう言えば事件で思い出しました。あのう、ほら、ニュース見ました? 二日前くらいだったかな……突然男の子が行方不明になったってニュース」

「そりゃ、行方不明は突然でしょ」緋子は口角こうかくを上げて言う。

「いやまあそうなんですけど……えっと、どれだったかな」

 小説家がスマートフォンを操作し始めたので、緋子は三角フラスコに入ったアイスティーを少し飲んだ。シロップなどは入れていないが、茶葉だけでも十分に甘みが感じられる。店内の客たちに視線を向けるが、皆、各々おのおのの作業や会話に集中しているようだった。追加オーダーを望む客の姿は見当たらない。

 緋子はそのまま、視線を窓の方に向けた。相変わらず、目がくらむような晴天せいてんだった。遠くに見える青空が、強い夏の色を発している。

「ああ、ありました。ほら、これです」

 小説家が差し出したスマートフォンを受け取り、緋子は記事を眺めることにした。見出しには確かに、小学生男子が行方不明になったと書かれている。

 見覚えのある固有名詞がたくさんっているな、と思いながら読み進めていく。うろ覚えだが、夏乃佳が通う小学校が、この記事に書かれているような名前だったような気がするな……と緋子は思った。言い方を変えれば、科学喫茶から一番近い小学校である。学区を考えると、かなり身近みぢかな事件だということになる。

 行方不明になったのは、小学二年生の男の子だった。夏川なつかわ柳一りゅういちという名前が記載されている。二日前の夕方――つまり日曜日から行方が分からなくなっており、現在も捜索中とのことだった。顔写真も載っていて、それを見る限りでは、随分ずいぶんと綺麗な少年に思えた。七歳の少年には見えないくらい、顔がととのっている。大人びているというほどではないが、どこか完成された雰囲気をまとっていた。少女であれば、可愛いとか美人という形容をするのだろうが、この少年の場合は『綺麗』という表現が似つかわしかった。

「ふうん」緋子は記事を読み終えたあと、スマートフォンを小説家に返す。「こんなことあったんだね、知らなかった。私、あんまりニュースとか見ないから」

「身近でこういう事件が起こると、ちょっと緊張しちゃいますよね。自分でも何か事件の役に立つんじゃないか? っていう期待をしちゃって、でも結局何も出来ない自分が嫌になるみたいな。なりません?」

「ならない」緋子はゆっくりと首を振る。

「さいですか。そう言えばこの事件、どうも神隠かみかくしだって騒ぎになってるみたいですよ。もちろん正式な報道ではないですけど、ネット上では、そういう噂が飛びってます」

「へえ。なんで神隠し?」

「さあ、なんででしょう。夏に子どもがいなくなったからですかね」

 それだけで神隠しと言うなら、夏に起きた不思議な事件は全て神様の仕業しわざか。

 乱暴な定義に、緋子は少し笑いながら、もう一度小説家の奥に見える窓に視線を移した。そこには相変わらず、心を締め付けるほどの夏色の空が広がっている。

「……男の子の名前、夏川って言うんだね」

「何か心当たりでもあるんですか?」

「いや、今、夏だし」視線を窓の外から小説家に戻す。「七佳の名前も、夏だなって思っただけ。全然関係ないんだけど、パッと思ったのが、そのまま口に出ちゃった」

「ああ」小説家は合点がてんがいった様子でうなずいて、「七ツ森、って苗字みょうじも、夏ですしね」と続ける。

「なんで?」

「え? そういう言葉遊びではなくてですか?」

「……ああ、そういうこと」緋子は夏乃佳のフルネームを思い浮かべる。確かに、という音が入っている。「そうかあ、七佳の名前には二つもが入ってるんだ。夏は七佳の季節だね」

「いいですねえ、夏が似合う人って。漠然ばくぜんとですけど、元気いっぱいって感じがしますよね。僕なんかはほら、どうもパッとしない感じじゃないですか。春っぽいさわやかさもないし、夏っぽい情熱もないし。冬みたいな美しさも、たぶん似合わないですね。じゃあ、秋かな……と考えるわけです。消去法で。いいですか? 僕のイメージ、秋で」

「いいよ」緋子は興味なさそうに言う。「名前には何か入ってないわけ? 季節っぽい単語」

「名前? ああ、入ってないですね。本名も、ペンネームの方も、季語っぽいものは何も……今思えば、そういうのを入れておけば良かったかなと思いますね。もしかしたら、その季節になったら特集されるかもしれないし。年に三ヶ月くらいは必ず話題になると考えると、それもそれで有りだったかなぁ……」

「ペンネーム、春夏秋冬しゅんかしゅうとうにすれば?」

秋冬あきふゆ春夏はるかとかなら、多少は人名っぽいですかね」

「知らない」緋子は首を振りながら言った。

「なんかそういう言葉遊びありましたよね。なんでしたっけ?」

「何それ」

「えっと……なんか、お店の入り口に書いてあるようなやつです。すみません、ど忘れしちゃったんですけど」

「ああ……はるなつふゆ、って書くやつ?」緋子は記憶を辿りながら言う。

「ああ、それですそれです。秋だけないやつ。なんて読むんでしたっけそれ」

「そのまんまだよ。秋がないから、春夏冬あきない。そのあとに、二升にしょう五合ごんごうって書いて、二升ますます五合はんじょうって読むね」

「おー、流石さすがは商売人ですね緋子さん。よくご存知で」

「昔修行してた喫茶店の壁に貼ってあったから、覚えちゃった」

「へー、緋子さんにもやっぱり修業時代があったんですね」

「そりゃそうでしょ」

 話している間に、高校生の二人組が伝票を持ってやってきたので、緋子は会話を打ち切り、立ち上がって対応をした。

 女子高生の注文は、二人ともアイスティーとケーキだった。ケーキは違う味のものを一つずつ注文している。ケーキを運んですぐに、彼女たちはスマートフォンで写真を撮っていた。それらの写真は、彼女たちの顔写真と共に、SNSにアップロードされたのだろう。緋子には理解出来ない欲求からくる行為だろうが、これが意外にも良い宣伝になっているので、撮影を禁止する予定はない。

 科学喫茶は、食器の代わりに実験器具を利用して、飲食物を提供している。飲み物にはグラスの代わりにビーカーやフラスコが、食べ物の場合は皿の代わりにシャーレやアルミバットが使われることが多い。もちろん、通常の陶器とうきカップでの提供も可能だが、それをわざわざ申請する客は少ない。目の前にいる、小説家くらいのものだ。

 実験器具を使用する理由は、緋子の趣味であるという側面もあるが、容器自体に目盛りがついているため、飲み物の量が均一きんいつになるという理由が大きかった。決して、店の知名度を上げるための戦略的選択ではない。しかし意外にも、これが若い層にウケていた。この実験器具と、店主の緋子が趣味で着ている白衣のイメージから、この店は『科学喫茶』と通称されている。

 会計を済ませ、二人の女子高生を見送ったあと、緋子は再びスツールに腰掛けて、「テーブル席、空いたよ」と小説家に言った。

「あ、それはつまり、ここからいなくなれって意味ですね?」

「別にいてもいいけど。作業しにくいんじゃないかと思って」

 カウンターはテーブル席に比べると奥行きがないため、小説を書くならテーブルの方が良いだろう、と思っての発言だった。もっとも、優しさが二割、そろそろ会話にも飽きてきたし、後片付けをしておきたいな、という気持ちが八割のバランスで繰り出された言葉であった。

「いえ、大丈夫です。今日はさっきお話した取材があるので、元々、あと五分くらいで出る予定だったんですよ」

「あそう。予定があるのに、わざわざうちに来てくれたわけ」

「そりゃもう、緋子さんに会いに来るのが目的ですからね」小説家はさも当然のように言ったが、論理性にけた返答だった。

 小説家はカウンターに広げた書類などをバッグにしまいながら、「そう言えば、さっきおっしゃってたお嬢さんのお母さん? でしたっけ。七ツ森さん。機会があれば、その人にも取材したいですねえ。どういう仕事されてるんですか?」と、今更ながらに尋ねる。

「さあ、詳しくは知らないけど……除霊じょれいとか? 霊媒師、って言ってた気がするけど……詳しくは知らない。あんまり興味もないし」

「そうですか。やっぱり、いるところにはいるんですよねえ、そういう人って。現実問題、日常生活の中で非科学的な現象に見舞みまわれることってほとんどないですけど、世の中のどこかでは起こっているはずってのは、なかなかに興味深いですよね」

「私は信じてないけどね」

「まあ、僕もそういう心霊現象って立ち会ったことないですし、信じてはいませんねえ」

 ふいに緋子は、小説家と夏乃佳の関係について考えた。そう言えば、この小説家は意外にも、夏乃佳とは直接的な関わりがないのかもしれない、と気付いた。もちろん常連客同士、お互いに認識はしているはずだが、夏乃佳に霊視の能力があることは知らない可能性があった。幽体離脱体質、ということくらいは知っているかもしれないが、直接会話をしたことがあるかは怪しいところだ。まあ、普通に考えて、常連客同士が知り合いになるということ自体が珍しいのだが。夏乃佳の社交性を考慮こうりょすると、意外に思えた。

「ま、取材頑張って」緋子は言って、立ち上がった。「片付けてくる」

「ありがとうございます。今回の取材でピンとくるものがなければ、その、七ツ森さんて方にも話聞いてみたいので、あいだつないでもらってもいいですかね?」

「うーん、そうね、向こうが良いって言ったら」

「助かります」

 緋子がカウンターを出てテーブル席の食器を片付け始めると、別のテーブル席から声が掛かった。追加オーダーだろうか。緋子は白衣のポケットから伝票とペンを取り出して、先にオーダーを受けてしまうことにした。

 普段より客も多いし注文も増えているはずだが、あまり忙しいとは感じない。一人だけの接客でも、喫茶店として十分に機能している。そもそも、科学喫茶が行列の出来るようなタイプの店ではないからだろう。コーヒーショップのチェーン店などに比べて価格設定が少々高く、席数も少ないため、時間を潰すために利用する客は多くない。住宅地の中にあるという立地も、客層をふるいに掛ける理由になっているのかもしれない。

 追加オーダーはアイスコーヒーだったため、伝票には『レ2』と書いた。今日はアイスコーヒーがよく売れるな、と思う。緋子はジャグ二つ分の作り置きを決意した。夏乃佳がやってくる前には、時間の掛かりそうな作業は片付けておきたいという想いもある。

 きっと今日も、夏乃佳の夏休みの宿題を眺めることになるだろう。

 それと一緒に、夏休みの自由研究についても計画しなければならない。

 緋子の弟の蒼太そうたがいれば、午後は彼に店番を任せたかった。店の裏手にある倉庫を改造して作った緋子の個人ラボで、夏乃佳と化学実験をして遊びたいな、と思っていた。しかし今日は朝から蒼太の姿を見ていないので、きっと一日中出かけているのだろう。一昨日おとといくらいから、ずっとそんな感じだ。

 緋子はカウンターに戻り、使用済みの器具を食洗機しょくせんきのカゴに置いて、追加オーダーの作成を始める。そのタイミングで小説家が「じゃ、行ってきます」と言って立ち上がった。伝票の上には、紙幣しへいと小銭が置かれている。確認したわけではなかったが、お釣りは発生しないだろうと緋子は予測する。彼の支払い方は、いつもそんな感じだ。

「頑張って」

 緋子が声を掛けると、小説家は「期待しててください!」と言って、店を出て行った。何について期待すれば良いのだろうか、と五秒ほど考えてみたが、彼に何かを期待したことは一度もないということに気付いて、緋子は静かに思考を消し去った。

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