『科学喫茶と夏の空蝉』

福岡辰弥

プロローグ

プロローグ

 アスファルトから立ちのぼ陽炎かげろうが、現実感をゆがませるようにらいでいる。その景色けしき見惚みとれながら背中に陽射ひざしをびているあいだにも、姿の見えない油蝉あぶらぜみ狂騒きょうそう一切いっさいの音をき消して、この場で一人ひとり、夏にけてしまいそうだった。

 道路と田圃たんぼの間に設置されたガードレールの支柱は、先端がひどく傷ついている。元はドーム状であったはずのそれは、度重たびかさなる殴打おうだへこんで、今は錆色さびいろあらわにしていた。くぼみにまった、いつかの夕立ゆうだちを思わせる雨露あめつゆは、ひっそりと太陽光による蒸発じょうはつを待っている。しかしその反応は、きっと誰にも観察されることはない。

 二本の足で歩くことにもいくらか慣れてきた。それでもまだ、時折ときおり何かにつかまって休む必要がある。夏にねっされたガードレールに触れた手が、白く汚れる。その手と、雨露を溜め込む錆色を眺めながら、世界のみにくさを覚え、自在になった生命いのちの喜びをめた。

 過去の身体からだと記憶から、はやく決別しなければならない。私は生まれ変わったのだ――いな、ようやくこの世に生まれることが出来たのだから。

 知識でしかなかったはずの夏が、このがしている。蒙昧もうまいだった世界が、現実となっておそい掛かってくる。夏にむしばまれるこの気怠けだるさが、肉体的な死へのおそれが――こんなにも、美しく感じられるとは。

 やっと、この世に生まれることが出来た。

 やっと、私だけの生命いのちの旅が始まるのだ。

 膝を真っ直ぐに立て、背筋を伸ばし、私は空を見た。網膜もうまくくそうとする陽射しは、皮膚ひふかいしてエネルギーに変換され、生命いのち脈動みゃくどうさせている。誕生たんじょう終焉しゅうえん狭間はざまにある不安定なこの身体が、こんなにもいとおしく、こんなにもほこらしい。

 嗚呼ああ、これが生きていることの価値なのだ。

 生まれそこなった生命いのちを、存分に謳歌おうかしよう。

 今この瞬間から、この身体を、この思考を、この生命いのちを、守り抜かなければ。

 誰にも見抜かれぬよう、誰にも奪われぬよう、終わりが来るその瞬間まで、偽り続けなければ──

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