代行者:観革利乃香の場合

「は~あ」


 観革みがわ利乃香りのかは虚ろな目をしてテーブルに突っ伏した。肩まで伸びたストレートの金髪がテーブルの上にばさあと広がる。

 ランチタイムが終わったとはいえ、それなりに客のいる喫茶店。周りの目もはばからない行為だ。それを見ていた絵摸えもは困ったように眉をひそめた。


「利乃香。いくらなんでもだらしがないわ。あと、ため息を吐くとね。幸せが逃げちゃうのよ?」


 体勢はそのままに利乃香は顔と目線だけを絵摸に向ける。


「ふーくーぎょーうーでーすぅ!」


 利乃香は持っていたスマフォを絵摸に見せた。


「ああ。ため息代行サービスの。そうだったわね」


 スマフォにはノルマの数字が書かれている。250。


「それにしても、なんでまだこんなに残っているの? あれ? 確か月末でリセットだったわよね。今が25日だから……、一日50回もため息を吐くの!? いくら何でも無茶し過ぎよ!」

「それがね~、そうでもないのよ。月の始まりには300だったから。一日10回で良かったの」

「あらそうなの。ん? 25日間でため息50回って逆に少ないわよね」

「は~あ~。それがねえ。あ。見たでしょ? 今私ため息吐いでしょ?」


 こくりと頷く絵摸に、利乃香はスマフォの画面をまた見せる。250から数字は動いていない。


「なにこれ? 壊れているってこと? 運営会社に言った方が良くない?」

「んーん。壊れてないんだなこれが。今のはね~、私のプライベートため息だったから」


 絵摸は首を傾げながら考察をする。


「えーっと、つまり、ビジネスため息とプライベートため息があるってこと? ビジネスため息じゃあないとカウントしてくれない、と」

「そ」


 短く言い切って、身を起こす。


「ただ一日10回ため息を吐くだけで月3000円って、いいお小遣い稼ぎになるわーと思って始めたのが運の尽きだったわ~。もうため息の吐き過ぎで悪循環が回りまくって……」


 利乃香は左手の薬指を強調するように見せた。

 そこにはあるべきはずの銀のリングが無い。

 察した絵摸は大仰に目を見開く。


「旦那は最初、私のことを心配してくれてね。その副業辞めたら? って言ってくれた。勿論もちろん私もそうしたかったからすぐに辞めたわ。でも一回ため息の癖が付くと、なかなか治せなくてさ。気付いたらため息吐いててさ。前とため息の数が変わらないからまだ私が副業を続けているんだと思った旦那はいい加減にしろって怒鳴ってきたのよ」

「あらあら」

「そりゃあ、今にして思えば旦那の気持ちも解るわ。折角私のことを考えてくれたのにね。それにため息って目の前で吐かれたら気持ちのいいものでもないし。旦那だって会社でのストレスを家に持ち込まないようにしていたのに、私だけはあはあはあはあ毎日ため息吐いてばっかりなんだから、怒るわ。うん、そりゃ怒る。逆の立場だったらって思う」


 自分の組んだ指の先を見つめ、浅く息を吐いて続ける。


「でもさ。その時は私だって苦しかったんだよ。やめたくてもやめられなくて、好きでため息を吐いているわけでもないのに、わざとやってるみたいな言い方されてさ? そしたら思ってもいなかったようなことをつい口走っちゃったりもするんだよね」


 利乃香の落とした視線をすくうように、絵摸は上目遣いに見上げる。


「なんて言っちゃったの」

「あんたみたいなやつが目の前に居たら、そりゃため息もとまらねーよ! ってね」


 これには思わず絵摸もため息を吐いてしまった。


「どこかで我に返ることができたら良かったんだけどね。今まで、ずうっと溜まってきたものが吐き出されるまでに、思ったより時間が掛かっちゃったみたい。ま、副業云々うんぬんだけじゃあなくてさ、二人でいればそれなりにお互い不満も溜まるじゃない? なんとなく見ないふりでいられたものが、視界から外せなくなったりとか。ほら例えば、飲み終えた後のコップをさ、そのままテーブルに置いておくとか、流し台に置いたのに水を張ってない、とか? そういう些細ささいなやつよ。あれってさあ、ちっちゃくて透明なトゲだよねえ。時々そこに何かが当たった拍子にチクッとするんだけどさ、見ても何も無いの。でも、そこにトゲがある。抜けない透明なトゲがあるんだって解っちゃうと、確かめようとして必要以上に触っちゃうじゃない? その感じ。見ないふりができなくなったが最後、死ぬまでこのチクチクを感じ続けるんだっていう、小さな小さな絶望が、ずぅっと心の上に乗っかかっているような。そう言うのの、累積ってーのかな。ああ、多分無理だなあこれはって、漠然と思っちゃったんだよねー。今考えると、その悟り的なものだって、ちゃちな不安だったのよ。だって旦那が居ない方が、やっぱり困るもの。コップくらい洗うし、私の不満も飲み込めるわ」


 黙って聞いていた絵摸が、ふと斜め上に視線をやる。不可解なことがある、と言ったようである。


「その……、副業辞めたのよね? なんでまた始めちゃったの?」

「私にはこれしかないんだー」


 無感動に語尾を伸ばすが、その実状態は切迫しているようだ。目が笑っていない。


「さっきも言った通り、ため息の癖が全然抜けなくてさ。旦那と別れた以上、自分で稼がなきゃいけないわけだけど、バイトの面接中にため息吐いちゃって、それで落とされたの。どこの面接受けに行ってもそんな感じでね。でも稼がなきゃいけないから、また副業。最初は生活費を稼がないといけないからノルママックスで申請したんだけど、そのうちどれだけため息を吐いても自分のプライベートため息にカウントされちゃって、全然ノルマこなせなかったから、今の状態。貯金を切り崩して生きるギリギリの日々なわけ」

「そうなの。じゃあここはおごるわ」

「うん。ありがとう。最初から期待してた」

「まったく」


 舌を出して自分の頭を叩いておどけて見せる利乃香だが、内心おちゃらけている場合ではないと思っているのだろう。やはり目だけが笑っていない。


「利乃香。その副業、辞めなさい」

「え? でも辞めたら」

「いいから。その代わり、今度はサービスを受ける側に回るのよ」

「そんなお金ないし、今更ため息が減ったところで」

「大丈夫。初回の一週間は無料だから。無限にため息回収してもらえるから。その期間中に、面接受けに行きなさい。というか、それしかないわ」


 絵摸の言う通りだったので、利乃香は言われるままにサービスを受ける側に転じることを決意した。スマフォを操作し、初回無料のコースをタップする。


「そしてバイトに合格したらその給料で、ここのランチを奢ってよね」

「ちゃっかりしてるわー」


 彼女の言葉の前にため息はない。絵摸はにっこり笑った。


「あなたなら、きっと上手くいく」



 それから利乃香はバイトの面接に通り、取り敢えず生活できるだけの賃金を稼げるようになった。バイト先で知り合った男性と交際を始め、利乃香の人生は徐々に好転していくきざしを見せていた。とは言え、ため息の吐き方はまだ覚えている。代行サービスが不要となるのはまだ先の話になりそうだった。

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