ため息代行サービス
詩一
利用者:登米池月子の場合
「はあ」
「あら、月子ちゃん。ため息を吐くと、幸せが逃げちゃうのよ?」
向かいの席に座った月子より年配の女性——
「でも絵摸さん。逃げるほど幸せがあれば、ため息なんて吐きませんよ」
「あらぁ、皮肉ねぇ」
そうこうしているうちにまたため息を吐く月子。
「なにか悪いことがあったのかしら?」
月子はテーブルから身を乗り出して、絵摸の両眼を見つめる。
「愚痴になっちゃうんですけど、聞いてくれます!?」
「
月子は
最近本当に上手くいかない事が多い。上司からの舌打ちは
その間にも、何度も何度もため息を吐く。絵摸は黙ってうなずいて話を聞いていた。
月子の熱が下がって来たとき、絵摸は冷めたコーヒーをズズッと啜って、ふふっと笑った。
「月子ちゃん。ため息代行サービスって知ってる?」
斜め上を見やり、しばし考える素振りを見せる月子だが、全く思い当たるものが無かったらしく、眉間に皺を寄せた。
「あなたが吐くはずのため息をね、回収してくれるの」
「いえ、ですから、ため息は関係なくてですね」
「いい? 月子ちゃん。これはちょっとだけ先輩のあたしからの助言。月子ちゃんは凄く素直だし、真面目だし、顔もいい。その代わりちょっとだけ暗いの。でもそのちょっとだけが、他の良さを全て台無しにしちゃってるのよ。
指の上に
「どうすればいいんですか?」
「スマフォ出して」
月子は絵摸に言われる通り、ため息代行サービスのアプリをダウンロードした。
アプリを立ち上げると、月額パックなどの表示が出てくる。
「最初はこの初心者マークをタッチして。うん、そう、それ。これで一週間はどれだけため息を吐いても、全部回収されるから。で、あんまり効果ないなって思ったらやめちゃえばいいんだから」
「……こんなので、本当に……あれ?」
「今、ため息吐こうとしたでしょ?」
「はい。でも出ませんでした」
「アプリの右端にあるカウンターが一つ増えているでしょう? それがため息を回収した証拠なの。無料の間は数字なんて気にしないでいいけど、もしも続けたいってなったらその数字が一つの指標になるから、覚えておいてね」
月子は目を丸くしながら何度も頷いた。
「あなたなら、きっと上手くいく」
絵摸は笑顔を湛えた。
月子のそれからの生活は大きく変わることになった。
最初はため息を吐くタイミングで自分の声が出ないものだから、なんだか違和感があったが、二日目にはそれにも慣れた。
職場では、今まで気になっていた上司の舌打ちを、どういうわけだが聞かなくなった。耳が悪くなっただけ? 自分のため息も聞こえてないだけ? そう思ったが違った。上司が舌打ちをするタイミングは、決まって仕事を持ってくるときだった。だからこのタイミング、と言うところで上司の口周りに気を付けて見張っていたが、動いた素振りも無かった。
「どうかしたか? あれ? 口の周りになんか付いているか?」
「あ。いえいえ! そんなことはありません。すみません。なんだかぼっとしてしまって。はははっ」
「だったらいいんだ。もし熱でもあるなら無理するなよ」
「あ、はーい。ありがとうございます」
なんだか上司の機嫌がいい様に思えた。ということは、舌打ちをしないのもたまたまか。そう思っていると上司は去り際に振り返り、言った。
「そう言えば登米池。最近なんだか明るいな。最近と言ってもここ二日くらいだが」
「そうですか?」
「ああ。話していてとても清々しい気持ちになれるよ。ありがとうな」
「いえ、どういたしまして」
上司の
彼女の好循環は、それだけでは終わらない。
上司に褒められて機嫌が良くなった彼女は、いつもより早い段階で仕事を終わらせることができた。実家住まいの月子は、いつも母にご飯を作らせていることに引け目を感じていた。代わりに家にお金を入れようにも、それは拒否されていた。本当になされるがままの甘えきりの生活だった。いったい自分はいつまで母親に甘えているつもりなのだろうかと思っていた。だが、作りたくてもいつも残業で、物理的に作れないと言うのもまた事実だった。しかし今日ならば、仕事を定時で終えられた今日ならばできる。
帰り道、スーパーに寄って食材を選んでいると、声を掛けられた。
「お疲れ様です。登米池さん」
人懐っこいテノールボイス。月子の部署で一番のイケメン後輩である。
「お疲れ様。
「登米池さん。自炊してるんですか? 凄いですね。あんな激務なのに」
「ううん。いつもお母さんに甘えてばっかりでね。今日はたまたま仕事が早く終わったから、ちょっとでも恩返ししなきゃって」
「へええ! 凄い! 尊敬します! 僕なんて同じ立場だったら、友達誘って遊びに行っちゃいますよ! お母さん思いで、家庭的で、……うん。できる女子って感じます!」
女子。月子は、別の後輩におばさん呼ばわりで陰口をたたかれていたので、この爽やかな青年に女子と言われ、ますます気分が良くなった。
「でも崇内君も同じスーパーにいるってことは、自炊するんでしょう?」
「あー、いえ。僕は全然料理できなくて。カップラーメンが安いので買いに来ているだけなんですよねー。えへへ」
少年の様にえくぼをくぼませる崇内に、つられて月子も笑う。
「もう、駄目じゃない。インスタントばっかりじゃ栄養
「え、それなら是非ともお願いしたいです」
「いやでも彼女さんに悪いでしょ」
「大丈夫です。彼女いないので」
月子は目を丸くして口を押えた。
「あら。そうだったの。ごめんなさいね。崇内君カッコイイからてっきりいるものだと」
「そうですか? 嬉しいなあ。そんなこと言ってもらえるなら、なおさら今日登米池さんに話し掛けて良かった」
「いつでも話し掛けてくれていいのに」
「いやー、仕事が忙しいからか、登米池さんいつもこう、話し掛けたらいけないようなオーラが出てるんで。でも今日は、オーラ出てなくて。気付いたら話し掛けてました。いやでも驚きましたよ。こんなに気さくな人だったなんて知らなかったので。こんな事ならもっと前からお話したかったな」
「え? もう、興味も無いのにそんな事言って。変に気を遣わなくていいのよ?」
「何言ってるんですか。気なんて遣ってませんよ。後輩にあんなに仕事を丁寧に教えてくれて、誰よりも真面目に仕事をしていて、後輩が出来ない分の仕事もフォローしてくれて、この前なんて僕のミスをリカバリーしてくれた上に、上司に一緒に謝りに行ってくれたじゃあないですか。もうほんと、憧れの先輩なんですよ。話したくないわけないし、興味ないわけないです!」
一気に褒められて情報処理が追い付かなくなった月子は、真っ赤になった顔をぶんぶん振った。
「いきなりいっぱい褒めないで!」
涙目で訴える月子に、一瞬キョトンとした崇内だったが、その数瞬後には笑顔を湛えた。
「……登米池さん。すげーかわいい……」
ボソッと呟くような声は、相手に伝えるつもりというよりは、自然に出てしまったというようであった。そんなことを言う後輩が一番可愛いと月子は思い、口元を緩ませた。
月子はその夜、両親に料理を振舞った。
両親に感謝され、これからも家に早く帰るときは作る
それから、仕事でも家でも、彼女は好循環を繰り返していった。
どこにいてもそこが自分の居場所だと思えるようになった。
一週間が過ぎ、月子はため息代行サービスの延長をした。一番高いパックでもひと月5000円プラス税。この幸せが続くなら、こんなに安い投資はないと思った。
ため息代行サービスを利用したまま、彼女は後輩の崇内と付き合った。彼からの告白だった。それから一年の交際を経て、そこから更に一年の同棲を経て、めでたく結婚することになった。また更に一年が過ぎる頃、彼女は子供を授かった。十月十日で予定通りに我が子が生まれ、幸せの絶頂を迎えていた。その時にはもう、既に、ため息代行サービスを利用していなかった。サービスを断ってから一年が経っていたが、全く問題などなかった。
ため息の吐き方など、忘れていた。
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