【BL】潮騒の夜

海玉

第1話

あいつからのドライブの誘いに苛立ちしか覚えなくなったのはいつだったか。

昔は違った。休日のドライブデートは何よりの楽しみだった。あいつはスマートにかっこつけようとしているくせに、ハンドルさばきからは内心は新米ドライバーらしくおっかなびっくりなのが見え見えで、おかしくてたまらなかった。茶々をいれてゲラゲラ大笑いすると、「じゃあ免許取って運転しろよ」と毎度突っ込んでいた。

新車の匂いに文句を言って、風を取り入れようと窓を全開にして、風圧に負けないよう大声で喋りあったあの時間。俺は確かに幸せだった。ときめきが無限に続くと信じていた。


そんなわけがない。

盛り上がった気持ちは徐々に徐々に後退していった。幸せも、ときめきも、遠く過去のことになった。

いつしか俺はあいつの存在が「特別」でなくなったことに気づいた。

どちらかが悪いというわけじゃない。ただ、人の心はうつろいやすいだけだ。満ちた潮がいずれ引くように、俺の心から興奮が失われていっただけだ。

相変わらずあいつは俺のことを愛していると言った。離れたくないとごねた。

泣いてわめいて大騒ぎして、子どものように駄々をこねても、俺は絶対に譲らなかった。

――別れたい。

長いことしぶとく交渉を重ねた。双方が傷ついて、ぐちゃぐちゃに泣きはらした。

そして結局、とあるひとつの条件を出して、あいつは交際関係は終局受け入れた。


「最後にデートしよう」



***



寂れた港の街灯は弱々しくて、晴れていれば星や月が綺麗に見えただろうに、どんよりと曇った夜空はすべての光を遮断し、煙草の先の小さな火だけがくっきりと灯る。ちらちらと揺らめく橙色の

潮騒の音を聞きながら、俺は煙草に火をつけた。嫌だとあいつがごねるからやめた習慣。久しぶりに吸い込む煙は意外なほどすんなり肺に馴染む。

「……座らない?」

あいつは車の後部ドアを開いて尋ねた。スノーボードやら折りたたみ自転車やら、俺が乱雑に詰め込んでいた荷物がすべて片づけられたいま、ひどく広くてがらんどうなスペースはベンチがわりにちょうどいい。

「コーヒーは」

「いる」

苦い煙と苦い飲み物。別れの夜にはぴったりの小道具だ。

「あちっ」

慌てて口をつけたあいつが短く叫ぶ。

「大丈夫か?」

「火傷したかも」

犬のように舌をべろりと出して、フウフウ息を漏らす姿は、言っちゃ悪いがかなり愉快な部類に入る。暗闇をいいことに、俺は声を殺して笑った。

「いま笑っただろ」むっとして言い返してくる。

「自分で見てみろ。その阿呆面拝んで笑わないほうが無理だ」

ほら、とスマートフォンの人工的なライトで照らしてようやく、あいつの目に涙が浮かんでいることに気づいた。

「すまない、そんなに痛かったとは思わなかった。悪い」

「……痛いけど」

つう、と涙が流れる。

「あんたと別れる胸の痛みのほうがつらい」

――ああ。

ため息に乗せて煙を吐く。

ここで恋人への愛に再度目覚め、二人は手を握って帰りました、めでたしめでたしとなったらどれほど良かったろう。

現実は作り物のおとぎ話のようにうまくいかない。俺の心に湧いたのは「またか、もう話は終わっただろう」という呆れだった。

「残念だが、俺の意思は変わらない」

「わかってるよ。わかってるから」

あいつはぼろぼろ真珠のような涙をこぼしながら、俺の肩に頭を擦り付けた。スマホが手から落ち、ライトが消える。荒い呼吸を聞きながら、俺は吸い殻を灰皿に放った。

丸まった背に手を伸ばすべきか、少し迷って結局やめた。なるべく気をひかずに終わらせてやりたかった。冷たいと思われるくらいでちょうどいい。

「ロマンチストのくせして、こんな場所でいいのか? 最後のデートなのに、最初に行った公園でも、お気に入りの高原でもない海なんて」

「だからいいんだ」

答える声が、ふだんののほほんとした雰囲気とまるでかけ離れたすごみを帯びていた。

ぎょっとしてあいつの顔を見つめる。

「あんたはこれから俺のことを忘れて、また恋人なんか作って、幸福に生きるんだろう。だけど俺は違う。あんたのことは絶対に忘れないで、今後の人生ずっと引きずるんだろうっていう確信がある。あんたと言った場所に何度も足を運んで、なつかしさにひたるんだろうって予感がある。だから、最後はあえて初めて来る海にしたんだ。しばらくは無限の絶望の底にいるから来られないだろうけど、いつか必ずこの気持ちもかけがえのない大切な思いに変えてこの場所でなつかしんでやるんだ。そうしたら――そうしたら俺はあんたの思い出を、幸せだけで埋め尽くせるから」

遠く水平線を眺める瞳に、翳った光が煌々と燃えている。まるで鬼火のようにかすかな、けれど確かな熱。恋人――元恋人のこんな表情を見るのは初めてだ。

俺はゆっくり深呼吸した。

「骨の髄まであんたに惚れた。細胞ひとつひとつであんたを欲してる。あんたとつながっていない世界なんて意味がない。死んじゃいたいくらいだけど、本当に死んじゃったらあんたが罪悪感を覚えるだろうから寿命をまっとうするよ。安心して」

「……ずいぶんh烈な告白だな」

「嫌われるかもしれないって思って言い出せなかった。どうせ分かれるなら知ってほしかっただけ」

「おまえだっていつか執着がなくなるさ。俺がお前に飽きたように」

「それが普通だろうけど。俺は違うよ」と苦笑の色を濃くする。見知った恋人が、知らない顔で。

いや、本人だって知らなかっただろう。きっとこのまま俺が生涯寄り添っていけたなら、こいつだってこんな気持ちは経験せずに済んだのだ。

どうしようもなくまっすぐで一途な男だった。素直で物事を真正面から受け止めて、じっくり自分の糧へと変換できる力を持っていた。俺はその強さに惹かれた、純粋さを愛おしいと感じた。

持ち前の凛とした心に、彼はどれだけの愛をたくわえたのだろう。文字通りはちきれるまで、あふれこぼれおちるまで。日々更新される記録をひとかけらもおろそかにせず、大事にしまったのだ。

積み上げた莫大な愛は、俺の一言で崩壊し、荒れ狂う嵐へと変わった。あまりにも激しい感情に、あいつは何度も身を焼かれそうになったのだろう。気が狂いそうになる夜を何度も過ごして、でも俺が断固認めないと知って、ついに身を引こうと決断した。

ただし、あいつが選択したのはあきらめることではなかった。むしろ、あきらめない方法を選んだ。忘れたり、自棄になったりしたほうが何倍も楽だろうに、あいつは俺を愛し続けることを選んだ。茨の道なんて生易しいものじゃないだろう。生きたまま地獄を見るのだろうから。

――なんて強かしたたで、不器用で、美しい心。

気づけば俺は腕を回してあいつを抱きしめていた。

「ごめんな」

驚いたあいつが息を止めている。

「好きでいられなくてごめん。もう一回愛したいって努力はしたけど、ダメだった。俺の心にもう炎はないんだ。俺は弱いから、移り気な心に逆らえないし嘘はつけない。お前みたいな図抜けた真摯さは持ち合わせてない。俺みたいな軽薄な奴を好きにさせたせいで苦しみを背負わせてしまった。心の底からすまない」

「……馬鹿」

しゃくりあげる背中を優しくなぞる。

「謝るくせに別れ話は撤回しないんだろ」

「ああ。お前が『うまくいかせる』って説得したところで、俺は納得しない」

「馬鹿正直」

「そうさ、ごめんな」

体に回された腕の力が強くなる。痛いくらいきついけれど、今日ばかりは文句を言わなかった。

「ねえ」

かすれた声であいつがささやく。

「抱いていい?」

「デートだ、好きにしろ」


***


あいつの運転技術は格段に進歩した。軽やかに車を走らせる姿を眺めていて、つくづく思う。

「俺と別れたあと、何するの?」

つとめて感情をおさえようとしているのがわかる口調だった。

「まずは運転免許を取る。優秀なドライバーがいなくなったからな」

「仮免なんて簡単だよ」

「よく言うぜ。筆記試験落ちたくせに」

「一回だけだろ!」

わやわやととりとめのない話をしあった。別れ話がもつれて以来、久しぶりの平和な時間。けれど、それはお互いなんでもなかった様子を取り繕っているからだと知っている。

そうして見かけ上はとても楽し気な帰り道はあっという間に終了し、俺は最寄りの駅についた。

「じゃあな、元気にしろよ」

そう言って一服しようとすると、あいつは物欲しげな顔で煙草のパッケージを見た。

「俺、煙草吸おうかな」

「やめとけ。早死にするぞ」

「いいんだよ。早く死にたいんだ」

「よしてくれ。俺の寝覚めが悪くなる」

俺はざっと残り本数を数える。昨日封を切ったばかりだから、まだ二、三本しか減っていない。

「そら、これやるよ」

車の窓から箱を放り投げる。

「一生で吸う煙草はそれだけにしとけ。それ以外に買うな。いつ吸うか、それとも吸わないかはおまえに任せる。棺桶にもっていくのも自由だ。」

「わかった」

神妙な顔をしてあいつはそれをポケットにしまった。

再び顔を上げた彼の顔は凛と俺を見つめていた。

「さようなら。愛してる」

「さようなら、愛してた」

俺は振り返ることなく一直線に改札を潜り抜け、ホームに立った。

――願わくは、彼が俺を忘れて幸せになってくれますように。

そう祈りながら。

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