現場の初見は……


 日恵野村の村長の家から事実上逃げ出した三人は、神宮へ続く道を一心不乱に走っていた。普段はどれだけ急いでいても髪の一つも乱さない木下が、玄関で突っ掛けて来た草履が左右違っている事も、抱えている幣が逆さまになっている事にも気付かない程である。


 幸い烏帽子は脱げずにそのままだが、酷く汗をかいて何を触った手で顔を拭ったのか、まるで野良仕事をして来た様になっていた。


 三人が神宮の入り口の鳥居の前にやって来ると、留守を任されていた料理番の男が手に塩をたっぷり入れた土器かわらけを持って立っていた。


「おお、籐次か。早く中に入れてくれ。村長の家でとんでもない目に遭ったのだ。」


 彼を押しのけてでも鳥居を潜ろうとする三人を、籐次と呼ばれた男は手を広げて阻んだ。


「いけません。若君から、皆さまに憑いて来ている物をしっかり落としてから入る様にとの事です。」


「何を言っている、料理番ごときが。そこをおどきなさい!」


 この非常時に理解出来ないとばかり彼を睨む木下だったが、彼は譲らなかった。


「宮司様こそ、若君のおわす神宮に穢れをそのまま入れるおつもりですか?」


 そう言われてハッと我に返る木下だった。そうだ、我々は神に仕える神官なのだ。あのやんごとない御血筋の年若い若君でさえ、毎朝のお勤めの前には必ず禊ぎをなさるのだ。長年勤めて来た私がそれを疎かにするとは何事だ。


 が……そんな事を言っている場合なのか?


 彼は脇を擦り抜けて入って行こうとしている補佐役二人を捕まえると、籐次の手に有る土器を取り、塩を大きく握り二人の頭から勢いよく振りかけた。


「祓い給え、清め給え!」


 叫ぶと同時に彼は自らも塩を浴びた。


 その様子を柊仁は黙って例の謁見の場まで降りて来て見ていた。


 三人が走って登って来た山道は、ツヤツヤと光る糸が木々に絡み滲んだ様に見えていた。


 いつの間に下りて来たのか辰彦は、滑稽なモノでも見物する様に少し笑って言った。


「やはりナメクジでしたね。それもかなりの数です。」


「あれも貝の仲間だから、火を通したら食べられるのかな。五六匹捕まえてみようか。」


 慌てふためく三人の様子にも関わらず、食せるのかどうかの話をする柊仁に辰彦は少々呆れ顔になった。


「お腹が空いたのですか?」


「ちょっとね。食べ応えが有りそうだよ、大きいから。」


 オオナメクジを塩で揉み洗いをして腸(はらわた)を取り、串に刺し火で焙るのか、別の貝殻に乗せて炭火で焼いて醤油で味でも付ける想像をしているのか、成長期真っ只中の発言に口元に笑みを浮かべた。


「病気を持っているモノもいるのでお勧め出来ませんが、上手く解決出来れば安全に食せる岩場にいるサザエか何かが食卓に上るかもしれないので、がんばりましょう。」


 塩を撒いたお陰だろうか、彼等に付いて来ていたナメクジは退散した様で、道をキラめかせていた糸も色を失って消えて行った。


「頼りにしてるよ、辰彦。」




 謁見の場に柊仁がいるのを見て木下は、急いで階段を上がって来た。被った塩があちらこちらに付いているが気にする様子も余裕も無いのか、神事が行えなかった事の次第を彼は勢いよく喋った。柊仁は、彼等を労う様に言った。


「ご苦労だった。村長には下男が付いているから今の所は大丈夫、と言う事でいいのか?」


 嵐の中を帰り付いた様な有様を見せられても彼の口調は静かである。


 木下は一息吐いて主を見た。


「はい……そう……です。」


 歯切れ悪く木下は下を向いた。


「どうしたのだ? 儀式は行えなかったが、何も心配する事はないのだろう?」


「慣れた事、と言っておきながら、申し訳ございません。」


「失敗は誰にでも有る事だ。次は抜かり無く行えばよい。」


 彼の言葉に木下が顔を上げた。


「次……ですか。」


「当然だ。村の者達の信頼を裏切らぬ様に致せよ。神宮の威厳を保つ為にもな。」


「しかし、今回の事については策がどうにも思い付きません。」


 思い掛けない事を言われた様に、木下の様子に改めて目を留める柊仁。


「一つ提案が有るのだが聞いてもらえるか?」


「ご視察の件でしょうか?」


「そうだ。」


「ですが、それは……神宮の主としての御威光が……」


 否定に回った木下の言葉を遮る様に柊仁ははっきりとした口調で言った。


「先日は、お前達だけで大丈夫だと私も信頼して送り出したが、どうも今までとは勝手が違うらしいな。私も一応都の学者に師事し諸々の事について学んで来たつもりだ。お前達の口を通して報告を聞くばかりではどうも解らぬ事ばかりだ。実際見てみない事には何とも言えないが、これがもしも、物の怪の類とすればどうなのだ。」


 その言葉を言った途端に、木下と共に出掛けていた補佐役の青年が震え出した。


「わ、わたしは……申し訳有りませんが当分は村へ下りたくありません。」


 木下は厳しい目で弱気を見せた補佐役の青年を振り返った。


「何を言い出すのだ。お勤めの手伝いは誰が致すのだ。」


「しかし、あれは私達では太刀打ち出来ませんよ。水が一瞬にして真っ赤になるなんて、物の怪の仕業でなくて何だと言うのですか。」


 頭を抱えて怯える彼に柊仁は静かな口調で言った。


「天井から、何かが落ちて来て、水を赤く染めたのではないのか?」


 それが正解ならば当り前の事だろう。彼等はその一瞬を見逃した為にまるで妖術の様に受け取って驚倒したと言っていい。


「そう言えば、廊下と言わず壁も天井も水が滴っておりました。なるほど。それで変異をきたしたわけですな。」


 木下は無理やりにでも何時もの冷静な口調に戻りつつあったが、補佐役の反応は素直に逆を行くのに早かった。


「で、では、天井裏に惨たらしく殺された誰かの死体でも隠してあるのではと言われるのですか!」


 彼の言葉に木下が凍り付いたのを柊仁は見逃さなかった。


 そうなったら益々厄介な事案になってしまう。


 最早管轄外も甚だしく、領主と連絡を取って役人を、と柊仁は少し首を傾げたが、ふと、宮司の衣に付いた赤いシミに気が付いた。


「それは大事おおごとだな……木下。そのシミはその時の土器から零れた水の痕か?」


 指摘された彼は一瞬にして顔色を変えて、跪いた姿勢からいきなり立ち上がった。


 改めて見ると、彼は正に返り血を浴びた様になっていて、その状態から慌てて水の入った土器を放り出した様子が見て取れた。


「臭いを嗅いでみよ。血であれば生臭い筈だが、乾いてきておるな……」


 彼の言葉に木下は、その場で素早く衣を脱いで下着姿になったが、ハッと柊仁を見ると主の前での失態に狼狽えて、床に頭を付けた。


「あぁぁぁ、どうか、ご勘弁を~~~」


 宮司ともなれば薬学にも通じ、民からの必要にかられて医術の心得もある者も有ると聞いて来ていた柊仁だったが、木下はどうも血が苦手らしい。


 三人と一緒に上がって来ていた料理番の籐次が、冷静そのものの声で言った。


「心配しなくても、それは血ではありませんよ。絵の具の類でしょう。」


 時には猟で捕らえた獣を捌く機会も有る役目なのが彼である。竈番とやや謗りに近い言われ方をしたが、経験は彼の方が上かもしれなかった。


 実際、村から持ち込まれるのは山菜やキノコ類の有毒無毒判定ばかりではなく、怪我人の手当や病人の世話の方法を教えると言った事も含まれていた。


「もしも屋根裏にそんなモノが隠されていたとしたら、いくら香を焚きしめた御召し物を着ていらっしゃる宮司様でも、季節も季節だ。真っ先に独特の臭いに気付くでしょうよ。ネズミが一つ死んでいてさえ虫が集って大変なんだ。それよりも大きな人の死体を隠すと言うのは容易ではありません。」


 家が没落した為に竈の前を任せているが、籐次の家は元々都でも名の有った神職であると忘れてしまいそうになる木下だった。


 柊仁は籐次の言葉を頷きながら聞き、あくまで静かに言った。


「何にせよ、村長の身に不可思議な事が起こっていると言う事だけは確かだ。籐次、明日にでも私と共に村に下りて調べを手伝ってもらえるか。其方がいてくれれば頼もしいのだが。」


 彼の言葉に籐次は恭しく頭を下げた。


「かしこまりました、あるじ。」


 木下達の目を盗んでこっそり厨房に下りて来ては献立を聞く年相応の何処にでもいる少年の様な柊仁と、何かを察してか、神事が終わって面々が戻って来る時間でもないのに、お清めの塩を持って鳥居に向かってくれ、と控えの間に言いに来た神宮の主らしい柊仁のどちらも知っているのが籐次だ。虫の知らせとか、そう言う類の勘は結構鋭いと自負していた彼だったが、この主はどうもそれを上回るモノを持っていると早くも一目置いているのだった。




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