日恵野村


 村長むらおさの家は、神宮の有る断崖の岬から山道を下った所に有る、両側を山に挟まれながらも傾斜地を開墾した小さな無数の棚田を要する半農半漁の、大風が吹けば飛ぶような小さな家が七八十軒ほど集まって建つ村の中心に有って、一際大きく立派だった。


 神宮の杜に有る竹林から、丈は六尺程の細くて真っ直ぐな物を四本選んで切り出し、二本ずつ儀式用の道具を入れた挟箱を担いだ2人の補佐役に持たせると、木下は先頭に立って歩き始めた。

 

 村に入ると道筋に沿って流れる小川を見ながら千枚とも言われている田んぼの景色が広がっていた。


 空は澄み風も穏やかである。これから向かう村長の家でも彼から聞いた様な禍々しさなど一つとして感じられずに、何時もの様に神事は終わるだろうと木下は思っていた。


 しかし、彼はこの海辺の村で普段ならあんなに喧しいカモメや鳶などの鳥が一羽として鳴いていない事にも気付いていなかった。


 それにしても村人の姿が田や畑にも見えないが、海も凪いでいるから漁にでも出たか、それにしても女子供の姿さえ無いがどうしたのだろう、と思いながら道を進んで行った。


 村長の家に近付いても人の気配は無くひっそりと静まり返っていて、とても御宮からお祓いにやって来ると言っていつもの様に喜び、野良仕事を休んで見物に来ていると言う雰囲気ではない。


 門の外で声を掛けると、腰の曲がった年寄りの下男が慌てた様子で近付いて来て、早く中へ入ってくれ、と三人を急かした。


 既に神事の準備が出来ていて彼等の到着を待って村人総出で静粛にしているのかと思い、彼等が敷地へ踏み入って行くと、庭ではなく建物の奥に有る座敷で村長が待っていると案内された。


 そこまでは良かったのだ。


 彼等は一歩建物に入った途端、違和感を拭えなかった。

 日はまだ高い時刻なのに暗いのだ。

 家の中には光が一切入らない様に戸板の様な物が至る所に張り巡らされ、三人が連れて行かれた座敷の中は、固唾を呑んで座り込む村人達もおらず薄暗がりに奇妙な音が響いていた。


 ギギギッ……ゾウラゾウラ……


 耳障りな音が部屋の隅から絶え間なくしているのだ。


 一体何だ、と確かめる暇も無く、誰かの子供でもあやす様な声がした。


「もう泣かんでもいい。もう何も怖くはないぞ。いい子だ、いい子だぞ。」


 暗がりに目が慣れた木下が見ると、上奏に訪れた村長の宗左衛門が何か一抱えも有る物を抱いて座り込み、大事そうに撫でていた。一瞬それが瞳孔を空に向けた人の生首の様に見え、木下はその場にへなへなとへたり込みそうになって、同行して来た補佐役に支えられた。


 案内をして来た下男が、我が主人の様子に恐縮し、何かに取り憑かれた様にこちらを見ようともしない彼に声を掛けた。


「旦那様、旦那様。神職の方々がお祓いにみえました。」


 しかし、年寄りの声は初老の主には届いていない様に顔を上げもしなかった。


 何処もかしこも締め切られた室内は蒸し暑く、何か鼻につく臭いもしていた。


 木下は補佐役達に荷物を下に置く様にと言い、改めて部屋の隅にいる村長に言った。


「これはどうした事ですか、宗左衛門? せめて灯りを点けて顔をお見せなさい。」


 それでも尚、何か呟きながら腕の中の物を一心に撫で続ける彼に溜息を吐き、木下は下男に向かって奥方を呼んでくれるように言った。


「申し訳有りません、宮司様。奥方様はお嬢様のご病気がぶり返したと聞いて、昨日からお出かけになっておられます。」


「なんですと? 良く成られたと聞いておりますが。」


「急な知らせが参りまして……」


 彼のシワ深い顔に浮かぶ影に、娘の様態はあまり芳しくない事が容易に想像出来た。


「とにかく、雨戸を開けて風を通しなさい。心配は分かりますが、これでは気が滅入る一方です。さあ。」


 木下は下男と補佐役達に、庭に面している戸を開け放つ様に促した。


 彼等が締め切られていた戸を動かそうとすると、宗左衛門がハッと顔を上げた。


「ダメだ! 開けるな。光を入れるんじゃない!」


 彼は抱えている物を放す事も出来ず、隙間の空いた雨戸から射す光に当てまいと背中を向けた。


「せっかく寝た赤子が目を覚ますじゃないか。静かにしてやってくれ。」


 親鳥がヒナを寒さや灼熱の太陽から護る様に、抱えている何かに必死になっている宗左衛門を宥める様に木下は姿勢を低くして近付いた。


「どうしたのですか、何をそんなに大事そうに持っているのです? 私にも見せて頂けませんか?」


 彼の静かな声にも関わらず、村長と呼ばれた男は威厳も尊厳も持っていない子供の様に手元を見せまいと背中を丸め、木下の視界からも庇う様に着物をはだけて包み込んだ。


「誰にもやらんぞ。心配するな。ワシが守ってやるからな。」


 大の大人を無理に引き剥がす訳にも行かず、困惑した木下だったが、根負けしてはならないと話し掛けた。


「誰もあなたの大事な物を取ったりしませんよ。ただ、具合が悪そうだから、様子を診て差し上げたいのです。お宮の井戸から汲んで参りましたお水を一口、お飲みになりませんか?」


 宮の井戸と聞いて宗左衛門が頑なに瞑っていた目を開けた。


「井戸の水? 主の若君様もお使いになる御井戸の水か?」


「そうですよ。さあ、こちらをお向きなさい。」


「そんな有難い水を持って来てくれたのか、本当か?」


 振り返った宗左衛門は、まるで怯え切った幼子の様な目をして木下を見た。


 おおよそ、神宮に務める者以外で文字を読み書き出来る者は、この集落ではこの村長以外にはいないだろうと思われるそんな男が、身だしなみの乱れも構う事無く蹲る姿は、痛ましいとしか言い様が無い有様である。


 これではお祓いどころではない。


 竹の水筒に入れて来た水を補佐役が差し出した土器に注ぎ入れ、宗左衛門に明るい所へ出て来て受け取る様に促したが、木下は、補佐役の青年の短い叫びに、何事か、と振り返らざるを得なかった。


「宮司様!」


 補佐役の青年は木下の持つ土器を指差していた。


「何だ、コレは!」


 それは確かに神宮の井戸の水だったのだ。しかし、そこに注がれているのはまるで血の様に赤いヌメヌメとしたモノで手の震えを伝える為か生き物の様に蠢いていた。


 土器を差し出された宗左衛門は、それを見た途端に悲鳴を上げ、恐怖に顔を引きつらせ胡坐をかいたまま後退さった。


「うわぁぁぁぁぁぁぁ。」


 木下は自分の手に持つ土器を思わず取り落とした。


 一番近くにいた補佐役の青年が金切り声を上げて逃げ出したが、彼は少し冷静で下男を振り返ると精一杯の口調で言った。


 廊下を走る補佐役達の足音がいきなり途切れ、ドタン! バタン! と言う音が連続した。


「お清めの水が足りなくなりました。一度神宮に帰って汲み直して、それから出直して来るので、お祓いは明日か、明後日になります。それでは、失礼。」


 下男は何も見ていなかったのか、それとも余程の豪胆な者なのか全く狼狽えもせず、補佐役達が荷物を持ったまま、あるいは放り出して飛び出して行くのを見ていた。

「えっ、お帰りになるのですか?」


「とっ、とにかく今日はこれにて。」


「せっかくおいでになったのに、お祓いは? 旦那様をお助け下さい。」


 下男の追い縋る様な言葉にも木下は、返事もそこそこに置き去りにされた荷物を自ら担いで一礼をすると足早に部屋を出たが、ハッと足を止めた。板張りの廊下には水か油か何かが撒かれていて一足入れただけで滑るのが分かった。


 いや、液体だけではない。


 何か足の裏に柔らかい物を幾つも踏んで、それらがツルリツルリと逃れた感覚が有った。


 確かめたくは無かったが、木下は薄暗い廊下に雨が降った様に薄く水が溜まり夥しい数のナメクジが当たり前の様に這っているのを見た。


 天井から人の大きさ程の粘りの有る水滴が下がって来た。


 木下は何も考えずに、ナメクジが這い上がって来ても構わずに廊下を駆け出した。


 何度も足を取られそうになりながら入って来た筈の場所へ向かって行くと、先に逃げ出した補佐役の青年二人が、転んで腰だか肩だかを打ったのか苦痛に顔を歪め、頭から粘液の様なネバネバした物を被って、呻きながら自分達の足腰を摩っていた。


 木下は自分を放り出して行った二人の部下を見付けて声高に叱咤した。


「早く、ここを出るのです!」


 木下の声に補佐役達は、粘液でヌメヌメの床で藻掻きながらも立ち上がって、よろけながら彼に続いた。


 三人は上も下も分からない様な状態で村長の家から転がり出たのだった。





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