藤宮柊仁と言う少年
柊仁がこの地に来てから幾日かが過ぎていた。
日々宮司の方から促されるまま夜も明けぬ時刻に起こされ、まずは下階の禊ぎの井戸へ行って身を清め、同じ井戸から水を汲んで蓋付の水玉に入れると、米と塩をそれぞれ素焼きの土器に盛り、それらを盆に乗せて長く暗い岩の中に空けられている階段隧道を祭壇の間に上がって海に面したシトミを開け、水平線から上がる太陽に手を合わせて深々とお辞儀をする。
それから宮が預かり管理している岩の神や、神木とされているスダジイの大木などを回ったりしていたが、事実上の教育係である宮司からは辰彦が言っていた寝室の文机にうず高く積まれたあの上奏文達に関して触れられる事も無く、そうされるとかえって目を通す気になれないと言う状態になっていた。
一方毎朝拝礼に行く度に、辰彦からは、まだかまだかと後ろから囁かれ急かされるが、柊仁としては気乗りがしないものは仕方が無いだろうと受け流していた。
宮司も別に溜まり続けている事についてとやかく言わないし、これはもしかしたら辰彦が勝手に言っている事で、元々自分の仕事だった訳ではないのではと疑い始めているのである。
確かに一応帝の名代と言う事になってはいるが、自分にそんなモノを任せてもらっても、政に対してだったりすると全く権限の及ばない分野だ。
そんなものをこの小さな神社に持って来るとは思ってもいないが。
宮司は、木下と言って最近髪が薄くなりつつある事を気にしている物腰の柔らかい初老の男で、妻子と共に都から移り住みここに骨を埋める覚悟らしい。
神官としての位はこんな辺鄙な神社に似つかわしくない程高いらしいが、柊仁にとっては別にそんな事はどうでもよく、人間関係が良好で暮らし良ければそれでいいと思っていた。そもそも、これは女子の役の筈で、斎王と言うものらしく、一応男子に生まれた自分に何故回って来たのか、それも謎だった。
世の安寧を祈るのがあなたの役目ですよ……と母親からは説明をされたが、具体的に何をすればいいのかは言われておらず、とにかく落ちぶれた家門の名誉の回復にも繋がる事なので、宮司の言う事をよく聞いて励むようにとの事だった。
ただ、滅多に家にいない父が見送りにやって来て、別れ際になってから柊仁の手を握って言った言葉が少し気になっていた。
「これは、もしかしたらお前にしか……お前にだけ出来る事かもしれないのだ。それだけは思っていてくれ。」
どう言う意味だったのか、さっぱり分からない。
柊仁は自分では自覚をしていなかったが、傍から見るととても変わった子供だったらしい。
普通二三歳の幼子は独りきりでいる事が苦手だと思うが、彼は全く平気だったのだ。
放っておかれても機嫌よくいつまでも過ごし、誰も側にいないのに独り言を言っては笑い、教えられた訳でもないのに巷で歌われている歌を誰かと一緒に歌っている様に歌ったりして遊んでいた。
食事の時も自分で箸が使える様になれば、乳母がいなくても上手く食べる事が出来た。
現代的に分かり易く言うならば、独り保育園状態だろうか……
しかし、決して一人でいるのが好きな訳では無く女官達にも愛想良く笑って良く懐き、見た目も色白で殊の外愛らしかった為、世話をしたがる者が常にいるそんな童子だった。
そんな可愛い彼だから、きっと彼の亡くなった祖父や何かまでもが放って置けず、彼の傍にいるのではないのかと、世話をする者達は冗談めかして言ったものだった。
五六歳になると今度は物覚えの良さが際立ち、不思議な事にまだ読みもしていないはずの物語を既に知っていたり、和歌を事も無げに詠んでみせたり、教育の為に呼ばれた者を驚かせた。
何故そんなにも出来るのかと問われると、彼は更に不思議な事を言った。
「この間習いました。」
「それは誰にでしょうか、私はまだ手も付けてはおりませんが。」
幼い頃の彼の事を何かの折に聞いていた教官は、彼からのまさかの奇妙な返答を想像したが、彼はあっさりとかわしてみせた。
「……勘違いでした。その物語については、先日女官達が話しているのを聞いたのです。女性達に大変な人気だそうですね。私もとても興味深かったので覚えているのです。歌については見よう見まねでお恥ずかしいです。」
まさか、人成らざるモノに教えてもらっているとか、有り得ない事をサラリと聞かされるのでは、と思っていた教官はホッとして冷や汗を拭ったとか。
前任者が置いて行った玩具は当然女児用のものばかりで、柊仁は溜息を吐きながらそれらが入れられている箱を横目で見ていた。
暇である。
昼寝でも……と思ったその瞬間、寝室と祭壇の間を仕切っている嵌め殺しの扉から誰かが入って来る気配があった。
嵌め殺し、すなわち動かない飾り戸である。
そんな事が出来るのは確かめるべくもなく辰彦だ。
柊仁はうっかりしていたが、辰彦の姿が見えるのは彼だけらしく、他の者の前では会話する事を禁止されていた。
「上奏は一つでも目を通して頂けましたか?」
柊仁はゴロリと寝返りを打って辰彦から見えない側を向いた。
それを見た辰彦は、彼の視界に入ろうと回り込んだ。
「いい加減お仕事をなさって下さい。」
それを避ける様に柊仁はまた寝返りを打つ。
「聞こえないふりですか、若君?」
目を閉じたまま知らぬ振りを通そうとする柊仁に呆れ、辰彦は、それならば、と叱咤するのかと思いきや、打って変わった猫撫で攻めて来た。
「若君、今日はあなたがここへご着任されて丁度七日目ですね。日々のお勤めご苦労様です。お夕飯にはアワビの煮物を特別にご用意致しましょう。」
一瞬目を開けそうになるが、柊仁の目元の筋肉が再び弛緩する。
「台所預かりの者が、鯛のお寿司も有ると言っておりましたよ。お花もあなたの好きなアサガオを探して鉢に植えさせました。あと十日もすればきっと一番花が咲いて来て綺麗ですよ。」
柊仁は組んでいた腕を解いて目を開けて、岸壁に張り付く様に作られている狭い単廊の端に風で飛ばされない様に置かれた今はまだ双葉も何も生えていない鉢を見た。
「アサガオ? 本当に咲いて来るの?」
やっと話に乗って来た少年に笑い掛ける辰彦。
「もちろん咲いて来ますとも。色はお好きな青ですよ。」
柊仁はそれでも冴えない表情のまま上体を起こして胡坐をかいた。
「誰が何を植えて置いて行ってくれたのか分からなくて、困っていたんだ。やっぱり君の仕業だったんだね。」
話題に食い付いて来た柊仁に、辰彦は更に口元に笑みを浮かべた。
「申し訳ありません。朝の拝礼の折にお伝えしようと思っていたのですが、中々お一人になる事がなくて。」
「アサガオは母上がお好きでいつも特別な鉢に植えさせていた花ないんだ。ありがとう。」
思いがけず彼から礼を言われて辰彦は、何故か身体中の毛が一斉に逆立つのを覚えたが、彼にそれを気付かれない様に何でも無い振りをした。
奇妙だが悪くない感覚だ。
一方、柊仁は少し寂しそうな目をしたが、ゆっくり立ち上がると、部屋の隅に置かれた文机の前へ行き、一番下になっている文を取り上げた。
「父上からは、食うには困らないからって言われてここへ来たんだ。でも、出される食事を見ると、とてもそんな具合じゃない事ぐらい分かるよ。何が鯛でアワビなの。小豆一粒出て来ないじゃないか。アサガオは本物かもしれないけど、植えたのは君じやなくて木下の奥方でしょ。だって君は人じゃないもの。」
柊仁の言葉に辰彦は、バレてましたか、と苦笑したが、彼の言葉を黙って聞いていた。
「僕には見えても君自身は自分では何も動かせない事ぐらい分る。でも君の言う事は信じる。だって神様だもの。僕の食い扶持はこれを熟せばいいんだって、辰彦は言ったよね。つまり美味しい物が食べたければこれを僕が君の代わりに解決しろって意味だったんだね。僕の食事は今の所何もしなければ、実家の仕送り次第だから。」
米と水と塩、たまに近所の家から届けられる青菜……祭壇に供えられた供物は今の所それだけだ。それはこの育ち盛りの柊仁の食卓も同じだった。
もうこれは死活問題なのだ。まあ実際には近くに所有する小さな荘園から上がって来る年貢の様な物もあるのだが、仕事に着手して欲しい辰彦は敢えてそれを言わなかった。無ければ働け、と言っているのだ。
「僕に出来ると思う?」
「まずは、お読みにならなければ始まりません。心配しなくてもここでしか解決出来ない案件ばかりだと思いますよ。」
「ここでしか?」
また父の言葉が柊仁の脳裏を過った。お前にしか出来ない事かもしれない……
上奏文、すなわちこの近隣の村や町に住む者達が、自力で解決出来ない問題を訴えて来るモノだが、柊仁のいるこの神社の性質上、政治関係でも民事訴訟関係でも、ましてや刑事事件でもなく、ハッキリ言って何故か霊的なモノに限られているらしい。
振り分けた方も、実は本気で解決出来るとは思っていないのかもしれない。
文机の前に座り込み、簡素な紙を折っただけの封筒に入れられている書状を広げ、読み始めた柊仁の横に座って辰彦は彼の手元を見た。
「何故一番下からお取りになったのですか?」
「ここへ来たのが早かったモノから読むのは当然だろ?」
彼の理屈に、なるほど、とうなずき、辰彦は彼の瞳が文章を追う小刻みな動きを見ていた。
訴状の内容は次の通りだった。
訴えを寄越したのは、神社の所領の中に幾つか有る村の村長の内の一人だった。
三年ほど前から、何かの拍子に庭の水琴窟が、夜中になると奇妙な音を立てるようになった。
新しい物に取り換える事も出来ないのを何とかして欲しい、と言うものだった。
柊仁は書面から目を上げて隣に座る辰彦を見た。
「どう思う? 水琴窟に何かが住み付いちゃった、とか?」
辰彦は腕組みをして何かを考えているのか目を閉じていた。
暫くして柊仁は事も無げに言った。
「面白そうだから、村長にここへ来てもらって話を聞かせてもらおうかな。」
辰彦は目を開け、文面を見て笑っている彼に示す様に、徐に筆と紙を見た。
「では、補佐役の誰かに行ってもらいましょう。呼び出し状をお書き下さい。それを宮司にお渡しになれば彼が手配するでしょう。でもですね、面白そうとかおっしゃいましたが、書いた者はそれなりに真剣なのですから、対応する若君もそれなりにお願いします。」
「分かっているよ。」
手紙か、と言いながら柊仁は、水の入った銚子から祖父から譲り受けた愛用品の硯に注ぎその時一緒に貰った墨を取った。
ゆっくりと溶かすように墨を磨って行くと、練り込まれていた麝香の何とも良い香りが漂い始めた。
書を認める者の気分を落ち着かせると言う作用も有るらしいが、密かに辰彦が柊仁を気に入ってしまったのは彼の衣類にも染みついたこの香りの為かもしれない。
手慣れた所作を見た辰彦は、書き方は柊仁に一任した。
「内容は簡潔に、先日の上奏の件での呼び出しであると書けばよろしいかと。それから出頭期日は明日の午後にしておいて下さい。そうしないと連中は中々来ませんよ。」
「書状が向こうから差し出されたのは先々月の事だよ。きっと返事を今か今かと待っていただろうに、中々来ないって、どう言う事?」
首を傾げる柊仁に辰彦は、この少年が身分云々の話をすっかり失念しているのだと思ったが、それも彼の純粋さの一つだと微笑んだ。
「彼等にお会いになれば分かります。とにかく、初のお仕事です。がんばりましょう。」
若君にはせいぜい汚れて頂かなくては……
つづく
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