暁の銀影

桜木 玲音

序章

全ては神のみぞ知る

 

 時は、今とそう遠くも無く近くも無い、ハッキリ言って現実かも定かではない昔。

 夜明け間際に上る辰星を祀り祈りを捧げる神の宮、暁星宮は有った。


 現代で言うならそこは、交通網と宿泊施設など完備であれば年間数十万の集客が見込めそうな、海岸線に連なる数々の奇岩を有する極めて美しい絶景の景勝地である。


 しかし、観光なんてもっての他だった昔は、他の町や村からほぼ隔絶された陸の孤島であり、漁に出るにも波が荒れれば出られないどうしようもない断崖が続く、どうしようもない海岸の岩々を何処かからやって来た訳アリの先人達が長い年月をかけて繰り抜いて、人が通れる道を造り、イワツバメの巣か何かの様にへばり付く様に作った石と木材造りの建築物に住んでいる様な場所である。


 海にそそり立つ断崖の使い道が有るとすれば、罪人かもしくは荒れる海への生贄を投じる忌まわしい場所なのだが、この下に有る深くどこまでも青い青い海は危険な反面、一旦漁に出れば間違いなく豊漁が見込める他に類を見ない豊潤な漁場である。見方を変えれば風一つで荒れ狂い、易々と人を寄せ付けない断崖と波が、人々の欲からその豊かな海を守っていると言ってもいい。


 それ故、海に生きる者達と、そこからちょっと離れたそこよりはよっぽど住み易い入り江の村に住む領主は、都へ納める税の足しとして特産品である海の幸を得て帝に献上する為に漁の安全を祈願し、海の神を敬い祀る為の神宮を造り、祈りを捧げる特別な者を選びつかわしてきた。そのほとんどが世を治める帝の名代として相応しいとされた息女またはそれに類する女子であった事は、知る人ぞ知るところである。

 

 さて……断崖の途中に少し張り出す様に作られた神宮の建物の単廊を歩く人影が有った。白い小袖に紺色の袴、白足袋……どうも神職のようである。

 彼は開いたままの妻戸から中に入ると祭壇に向かい、新たなる主人を迎える為の準備を始めた。

 米と水と塩……人が生きて行く上では必需品とされている物が即ち供え物だが、贅沢を言った覚えは無いが、こうも最小限となれば祀られている神もさぞ空腹でいらっしゃる事だろうと推測し、もう少し何とかして差し上げられないだろうかと思っている彼は、都から十里ほど離れた海辺に建つこの領主直轄神宮の自称補佐役をしている青年で、名は水野内辰彦と言うらしい。

 

 祭壇の間と言っても、立地条件が水面から約50mと言う断崖の岩場を削って作っただけに精々見積もっても三四畳程と狭く、今日は晴天で波も穏やかな為、木の板を何枚か張り合わせただけのシトミは開け放たれ中には光が溢れていた。


 髪は烏の濡れ羽色とも言うが、彼はきっちりと束ねられた髻を意識する様に小首を傾げ、鏡に映る自分の姿を見た。

 

 もっと豊かな所であれば主として喜んで任に赴く者もいるだろう。


 ここでの勤めは誰でも出来るものではなく向き不向きがあり、特に先の主とされていた者は全く向いていない者だったらしく、事案解決に対して神の恩恵らしい事柄は一件も報告されなかったが、それでも最低任期の二年間は居て貰わなければ、あからさまにと知れれば国からの支給が滞り、次の主人となる者さえ送られて来なくなって、最悪神宮自体が見捨てられてしまうかもしれない微妙さもある。


 送られて来ていたその幼い主に対して合否判定を下したのは、ここに祀られている神なのだが、今回の新たな主選びはきっと上手く行ったとしておこう。


 とにかく新しいまだ見ぬ主に期待しよう。

 きっと大丈夫。きっと……そんな気がする。


 何の根拠も無いが、彼は満足げにご神体とされている玉に息を吹きかけ、袂の裾で曇りを取った。


 向き不向きに関しての基準は、それこそ神の領域で、神宮の神官ですら図り知る事は出来ないが、生まれながらに備わった資質が関係するのだと彼等は思っている。


 不意に辰彦の足元の床がギシっと鳴った。


 年がら年中吹いている海水混じりの風の為に虫などの食害による痛みは遅いが、その風に晒される木材は摩耗し易く、建物の修繕費もばかにならない。



 辰彦が出迎えるいとまもなく新たなここの主人となる者が、宮司の案内で彼のいる母屋の最深部である祭壇の間にやって来た。無言のまま先導されて来た十二三歳の少年は、板張りの床の中央に置かれた胡床に座る様に促され従った


 辰彦はそっと横へ寄り、他の補佐役達の列に加わって少年を見た。


 少年と言っても、その辺の一般家庭に生まれた子供ではなく、彼は一応都の帝の流れをくむ血筋の者で、この内宮省管轄の長に成る資格を有する身分なのだ。


「こちらが、明日から貴方にお世話をお願いする神様方の中でも一番重要な一柱で、お名前は……」


 中年の宮司の口から長々とした神の名前が告げられていたが、案内されて来た少年は、長旅の疲れも有ってか彼の話など殆ど聞いてはおらず、聞こえて来る波の音が子守歌にでも聞こえるのか、目も半ばまでしか開けられない様子で、ぼんやりと祭壇の方を見ていた。


 辰彦はこの最重要と言われているにも関わらずすら覚えようとしていない見るからにやる気の無い少年に、やれやれ、またか、と溜息を吐き、今度こそはと、根拠の無い勝手に抱いていた大いなる期待が灰塵に帰して行くのを感じた。


「それでは、これからお使い頂くお部屋にご案内致します。」


 それにしても何て肌の色が白いのだと辰彦は少年を見ながら思っていた。


 少年は小柄ながらも一応白い地模様の小袖に白い袴、頭には烏帽子と言う神官でも最高位を示す衣装を纏っていた。宮司の声に居眠りをしていた彼がよろけながら立つと、彼の衣装から芳しい焚きしめた辰彦が好きな香の匂いが立ち上り、その小さな空間を満たした。何とも単純な動機かもしれないが、その香り一つで彼は命じられた訳でもないのに宮司と少年の後に付いて行った。


 彼等が去ると、若い補佐官達二人は、少年と共に届けられた付け届けが余りに簡素だと不平を洩らし始めた。


「今回の主は畏れ多くも帝の御血筋に繋がる方でいらっしゃる都の貴族のご出身らしいが、あまり羽振りの良いご家庭ではなさそうだ。」


 補佐役の彼等は神官になるべく教育機関を経てここに配属されている若者達だが、特に志が高いと言う訳でもなく世襲される家柄と地位を守る為に致し方なくと言った連中が殆どである。


「それに比べれば前の君は良かったよな。さすが領主のお嬢様だ。月に一度はご実家から我々にも美味い物が供物と一緒に届けられたものだ。」


「あれは美味かったな。大きな蟹が届いた時だよ。覚えているか? あの味は忘れられない。あんなのにまた有り付きたいものだ。」


「それにしても、何故今回の主様は男児でいらっしゃるのだろう。」


「特例と言うことらしい。それについては我々の感知する事では無いがな。」


「まあ、そうだな。私達はあくまで美味い物が届けられればいいのだから。」


 彼等は各々今まで味わって来たお零れの味を語り始めた。





 宮司が少年 藤宮柊仁ふゆひとを連れて来たのは母屋の中心部に当たる寝殿だった。


 時刻は今で言う所の四時を回り、位置的に部屋の中は日陰になっていて涼しい風が柔らかく几帳を揺らしていた。


 親元から彼と一緒に送られて来た荷物は既に運び込まれていて、それを見た柊仁は何故か小さく溜息を吐いて宮司を見た。


「ちょっと疲れた。暫く休みたいから人払いをしてくれないか。」


 彼の声は口調の気怠さとは比例しないまるで鈴の様に辰彦の耳をくすぐった。


「では、夕餉までは暫くございますので、何か御用がございましたらお声をお掛け下さい。」


 宮司が出て行くのを横目で見ながら辰彦もそれに続こうとすると、柊仁が彼を見てここに留まる様にと目配せをした。


 辰彦は少し驚いた様に目を丸くして宮司がその事に気付いていない事を確認すると柊仁に向き直った。


 さしずめ年上の者達ばかりの中で年が一番近いだろう自分を選んだのだと思う事にした。いくら帝の血脈に繋がる者で跳び抜けて高い身分としても友人の一人ぐらいは必要だ。


 しかし、直に口をきいていいものか一瞬戸惑っていると、先に柊仁が言った。


「ねぇ君、名前は何て言うの?」


 彼は眠そうにしていたのがウソか芝居だった様に、人懐っこそうな瞳がちな目で辰彦を見た。


 人に使われる身となってからはこんな風に呼び掛けられる事さえ稀になってしまっていた。


 ましてや主と言う人が自分の目を見て話し掛けて来るなんて……


 半分驚き、半分感動している辰彦の様子に柊仁は困った様に首を傾げた。


「どうしたの? 僕になんて答えられない?」


 辰彦は慌てて言った。


「みっ水野内辰彦です、若君。」


 それを聞くと柊仁は、途端に嬉しそうに子供っぽく目を輝かせた。


「よかった、口がきけないのかと一瞬心配しちゃった。辰彦ね。分った。これから何かと教えて。何だか宮司には聞き辛くて。」


「分からない事がお有りでしたら何なりと私めにお申し付け下さい。」


 頭を下げた辰彦に柊仁は、


「早速で悪いけど、夕ご飯に魚が出るか探ってくれないかな。苦手なんだ。臭いが付くっていうか、骨も面倒だし。出来れば回避出来ないかなぁって。」


 彼の予想外な彼の願い出に、辰彦はやや呆れて言った。


「お魚も生き物ですよ。それが尊い命を奪われてアナタの前に差し出されるのです。それに対して何たる亊を。アナタはこれからこの神宮の神を守り、代弁者として領民を導く役割を担わなければならない御立場なのですよ。」


「でも、嫌いなモノは嫌いなの。辰彦。お願い~」


 この少年には、どうも相手が初対面だろうと、年上だろうと何も関係が無いらしい。


「……仕方有りませんね。台所預かりの者に言ってみます。」


 それを聞くと彼は更に嬉しそうに付け加えた。


「それからね、僕、青物は苦手なんだ。」


 巷には貧しい生活の中でやむなく娘や息子を口減らしの為に手放す親もいると聞くのに、当り前の事の様に好き嫌いを言うなんてと呆れ、辰彦はやや厳しい口調で言った。


「ついでに豆も獣肉も外してもらいますか? みんなに回してやったらご馳走だって喜びますよ。」


 彼の言葉に異を唱えるべく柊仁は首を横に振った。


「お豆やお肉は大好物だよ。出来れば毎日だっていいぐらいさ。これからは君に僕の食事の献立を全部頼んじゃってもいいかな。それから、この寝所だけど、几帳の色は青がいいな。青菜はきらいだけど、空の色は好き。手配してくれる?」


 大人しくしていれば矢継ぎ早に……貴族の坊ちゃんのご機嫌取りに付き合わされるのはゴメンだと、辰彦は彼を見た。


「わざわざ私を呼び止めておいて……そんなとは……」


 やや声音を落とした辰彦にも構わず柊仁は続けた。


「花も出来れば毎日変えてくれるかな。」


 辰彦は咳払いをして彼の言葉を遮った。


「来て早々次から次へと……太い神経をお持ちですね、。」


 柊仁は、急に横柄な態度に変わった辰彦を口元に微笑みを浮かべて見た。


 彼の視界の中の、水野内辰彦と名乗った青年の結い上げられていた黒い髪は緩やかな風に解け、まるでそれ自体が生き物でもあるかの様に揺れ、瞳の色は黒から青に変わっていた。服装は柊仁らと変わらない白い小袖に袴姿だが、その顔立ちはまるで異国から来た陶器の人形の様に整い、整然としていると言うよりもどこか血の通った暖かさが欠如した雰囲気を漂わせていた。そんな彼に睥睨する様に見られただけで、普通の子供ならば何か異様さを感じて泣き出してしまうのだろうが、この柊仁は違っていた。


「……やっと本当の自己紹介をしてもらえそうだね、辰彦。君は何者なの?」


 落ち着き払った少年の態度に呆れながら、辰彦は彼の顔を間近で覗き込んだ。


「もうご存知なのでは?」


「君からは水野内辰彦としか聞いていないけど。ここに祀られているのが君なんでしょ? 何が得意なの?」


 大きな瞳には恐れも曇りも無い。それに対して辰彦は小さく頷いた。


「否定は致しません。それよりも、あなたは私を恐れないのですか?」


 柊仁は首を横に振ると、


「だって、僕、まだ君に何もしてないでしょ。だからね、君は何が出来るの? 風や雨を自在に操っちゃったり、草花を育てたりとか、色々有るでしょ? 神様なんだからさ。」


 辰彦の様に人ならざる者を見たり聞いたり出来る者は、時として己の能力が他と違う事を知ると恐れて気が触れてしまう神経の細い者が殆どとか。

 暁星宮の主として今まで選ばれて来た者は、この姿を見る事も気配を感じる事も出来ない者ばかりで、はっきりと認識する主が来たのはいつ以来だったろうかと密かに感慨に浸っていたのに、この若君、相当の図太さだと辰彦は呆れていた。神と祀られるモノにその能力を聞いてくるとは。


「……五穀豊穣、平和安寧。そんな所です。」


 それさえ叶えば、世の中すべからく安泰だと思う。


「辰彦って、見た目よりず~っと凄いんだね。」


 在り来たり過ぎの返事だったかと思ったが、柊仁の感心顔に、まさか褒められるとは想定外だったらしく辰彦は照れた様に目を逸らした。


「そっ、そういうご祈祷が多いだけです。」


 興味津々の目で自分を見上げる美少年に彼は、話題を変えようとしたのか、無理やり本題に入ろうとしたのか、寝室の壁際に置かれた文机を指差した。そこには色とりどりの書類が零れんばかりに積み重ねて置いてあった。


「こっ、これからは、あなたが、あっ、あの書類を読んで、民草等から上奏されてくる問題を解決するのです。それがここでの具体的なお仕事ですよ、わっ、若君。」


 その書類の量に柊仁は目を丸くして彼を見た。


「ええっ、夜明けに、お日様を拝んでお祈りをするのが僕の仕事って宮司さんが言ってたじゃない。そんなの、沢山有り過ぎて目が回りそうだよ。手伝ってくれるんでしょ、辰彦~。」


 半分寝ていた様に見えたのにちゃんと説明を聞いていたのかと驚き、おまけに彼のおねだりモードにちょっと弱い辰彦だったが、ガンとして言った。


「正確には、拝んで頂くのはお日様ではなくて、その横に輝く小さな星、それが辰星です。ご実家からのご支援はあまり期待出来そうに無いご境遇のご様子は存じ上げております。自分の食い扶持はあの中に有るとお思いになって、日々お励み下さい。」


 柊仁は彼の言葉の意味に一瞬疑問を持ったが、


「……さっき何でも聞いてって言ったよね? 僕にはって意味に聞こえたけど、そうだよね?」


 何とも頼りない主人に辰彦は一応小さく頷いた。


「若君にはせいぜい汚れて頂かなくては……」


「何? 何て言ったの?」


 意味深な辰彦の発言は気になるが、何とか成るだろう。柊仁は何だか頬がほんのり赤い彼を見ながら思った。



                           つづく


 毎週土曜日UPを目指し終幕までがんばりますので、宜しくお願いします。

 





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