第11話
『持っていきたきゃ持っていけ、これからどうするかはいつだって彼女次第なのだから』
Zはそう言うと、あっさりグラスを瀬戸口に渡した。目下の目的を果たしてのこのこ戻りながら、これで何かが解決するとは到底思えなかった。手の中にあるグラスは繊細な光を反射させて輝いている。どの角度から眺めても、何の仕掛けもないように見える。あの広場でのことがあるので、いくつかの簡易的な検査をした。現実と幻想の境目なんて実に紙一重、この重みが崩れる近い未来ばかりがちらついて離れない。
宴と儀式の行われていた部屋に戻ると、飛び込んできた景色に瀬戸口は身構えナイフの柄を握った。倒れ伏した客人達とそれぞれのトリガー、ぺルラ達を囲むように複数の警備用ロボットが戦闘態勢に入っている。ぺルラの足元にはすでに二体のロボットが倒れていた。それらはあの灯台の麓で襲ってきたものと同じタイプだ。そして部屋の奥で彼女が静かに佇んでいる。
「遅い! 言ってたものは取り戻せたの」
「ごめん、何がどうなって……」
「悪いけど、私には女神様が敵じゃないとは思えないわ」
ぺルラが銃を握りながら、顔を引きつらせて笑う。きららはこちらを見た途端、黄色い瞳をいつもの色に反転させて、駆け寄ってくる。そして手短に状況を伝えた。ぺルラがちらりと腕時計に目をやる。
「応援なんてこないわ」
彼女が慈悲深いような微笑みを保ったまま、静かにそう言う。
「呼ばれていない人は、この城には入れない」
ぺルラの後方で怯えるようにしゃがんでいた海野が、震える声で脳内に送られてきた情報を読み上げる。
「『古城見つからず、直ちに信号を要請する』……あの、さっきから現在地とか送ってるんだけど、届いてないみたいで」
海野が必死な顔で皆を見上げて、おろおろしている。ぺルラが舌打ちした。
瀬戸口は短く息を吐いて、彼女に近づこうとした。ロボットは相変わらず威嚇の色を瞳に灯し、今にも襲い掛かってきそうだ。ナイフを抜いて小さく呪文を呟き、空中に円と文字を描く。ロボットの内部から異音がして、膝から崩れ落ちる。
「じゃあなんで俺らは呼んだんだ? どこまで君の想定内なのか……」
瀬戸口は目を伏せてそう尋ねる。崩れ落ちるロボットの間を縫って進んでいく。彼女の頑なに変わらない表情が少し動いた気がする。
「取り戻してきたよ?」
グラスを差し出す。彼女がそれを受取ろうと指先が触れた瞬間、ぼろぼろと朽ちるように割れて落ちていく。注いでいた赤い飲み物も床にこぼれた。いつまでたっても取り戻せない、そんな焦燥が彼女の眉に表れる。
瀬戸口が彼女の左手を手に取り、ピンキーリングを撫でる。その漆黒の艶はZの底知れない瞳を連想させた。小指からリングを引き抜こうとしたら、咄嗟に手を引っ込められた。
「だめよ」
「本当はわかってるんじゃないのか。与えて支配する」
彼女の顔からみるみる血の気が引いていく。青いほど白く、覚めるほど深く。
「器から溢れたものはもとに戻せないけど、また注げばいい、何度でも。解けてしまうことがどこかで恐いなら、俺が少しでも埋めるから。苦しまない選択をしてくれ」
微かに震えていた彼女の瞳が瀬戸口を覗き込み、何かを捉えたように静かに定まる。指先から外される、黒い意志。遠くの空から、ばばばばとヘリが旋回する音が聞こえた。
〇
「我々は戦いの最中にいたと思っていたんだけど、何を見せつけられていたのか」
ぺルラの呆れた声が頭上から聞こえる。朝焼けの海辺で、もう見えない古城の姿を思い描いた。合流した警察の応援がばたばたと動き回っている。“救出”された客人達は、それぞれの大切なものと人形を抱え、呆気にとられた顔で海と朝日を見ている。
彼女がピンキーリングを外した途端、爆風とともにヘリが現れた。驚く暇もなく、彼女は窓からそれに乗り込んだ。
こちらを振り返って、ありがとうと言った顔は見たこともないぐらい明るく、どこか子ども染みているほど晴れ晴れとしていた。そして指をぱちんと鳴らす。後ろで客人達が意識を取り戻し起き上がろうとする気配。
「待って、名前を」
何の躊躇もなく立ち去ろうとする彼女を引き留めて問う。
「私はあなたのバリケードでもあるのだから、秘密よ。また会いましょう」
旋風巻き起こし、ヘリは飛び去っていった。瀬戸口は苦笑しながら自分のピアスに触れた。
それから何だかんだして客人達を連れて古城から抜け出したが、追手どころか城の中にはあの軍服の彼らやZはどこにもおらず、不気味なほど抜け殻だった。
まるで最初から誰もいないみたいに。
「それで、君のことなんだけど」
ぺルラが海野を見て言う。地面に視線を落としていた海野が、びくりと肩震わし恐る恐る顔を上げる。
「警察の情報を抱えたまま、誰かの魔術だか人形の意思だかわからないものを容認するわけにはいかないのよね」
「僕を消すの?」
悲しそうに笑って見上げる。海がこぼれそうな瞳の青さ。ぺルラはしばらくじっと海野を見つめる。
「本来はあってはならないことだって言ってるの。悪用しないと誓いなさい。あとせめて周りに不審がられないように、AIらしく……そうやってびくびくしないこと!」
海野はありがとうと小さく叫んでぺルラに抱きついた。と同時に今の話聞いてたのかと怒られている。
「微笑ましい相棒が増えてよかったじゃないか」
瀬戸口は煙草の煙を吹きながらからかうように言う。その横できららが何やら神妙な顔をして立っていた。その視線は海野に向いていた。
「どうかしたか?」
「何故でしょうか、海野を見ていると何か、胸がざわざわするのです。原因が解析できなくてとても気持ち悪い。どこかバグでも発生しているのかもしれないです」
きららは一息挟んで、瀬戸口を見上げて絞り上げるように呟く。
「……私は一体、誰なんでしょう」
さざめく海を背景に、泣きそうな顔に見えた。
「きららはきららだよ」
瀬戸口がそう言うと、きららはその言葉を反芻するように静かに目を瞑った。波の音がこの朝をどこまでも浸していく。
氷山の旗 柚峰 @yuzumine
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