第10話

 この暗闇は何だろう。

 自分で目を瞑っているよりも暗く、黒い。前後の空間が存在しているのか不安になるほどの闇。段々とどちらを向いて歩いているのかわからなくなる。冷たい壁を擦る感触を頼って、一歩を踏み出させる。気を抜けば自分の輪郭が溶けてなくなってしまうのではないか。夜に同化して、朝日も知らず。思い出したのは清水寺の胎内巡りだ。全く光閉ざされたこの空間は、誰かの胎内? 奥からひゅる、と冷たい風が撫で上げるように吹いて、総毛立った。


  きららを連れてくれば、目から光でも何でも発してくれたかもしれない。絶対ついていくと言い張るきららに命令まで使って一人で来たのは、そうしなければ見つけられないと思ったから。女神のトリガー。奪っているのはZだろう。


 前方に微かな光が見えた。扉が少しだけ開いていて、そこから室内の明かりが漏れている。

 扉を開けて中へ入る。そこには予想に反して、短い畳敷きの廊下に繋がっていた。人の気配はない。奥へ進み襖を開けると、大広間に立派な長いテーブルが置かれ、その上には席ごとにテーブルクロスと食器類がセットされていた。奥の床の間には掛け軸と生け花。花は瑞々しくその香りを辺りに漂わせている。安易に嗅げばまた記憶が刺激され、相手に掌握されかねないと思って、瀬戸口は手で口を覆う。

 しかし妙だった。活けられたばかりの花、今にも宴が始まりそうな部屋の様子。あのからくり部屋と暗い廊下に客人達を通すのだろうか? それともまた別の用途か。


 瀬戸口は部屋をあらかた見回り、ペンデュラムで探し物を尋ねたが反応は薄かった。何気なく床の間横の障子を開けると、そこには日本庭園と池が広がっていた。


 古城の中、空中庭園の如く現れたその庭には大きな池があり、その池を渡る橋が架かっている。橋により池は二つに分かれて、右側にはたくさんの鯉が悠々と泳いでいた。向こうには山々と青空。左側の池には鯉はおらず、水の色が何やらおかしい。淡い絵の具をいくつか混ぜたようなマーブル色。池から生える蓮の花すら誰かが描いたような輪郭で、まるで絵の中にいるみたいな錯覚にくらくらする。


 瀬戸口は橋を渡った。幻覚のような情景に、時折吹く生暖かい風だけがやけにリアルだ。

 橋の向こうには小さな茶屋のような建物がぽつりと待ち構えていた。手元のペンデュラムが勢いよく回り始める。ふと後ろを振り返ると、先程渡ったはずの橋は忽然と姿を消しており、代わりといわんばかりに一つの船が括り付けてあった。橋がなくなったことによって池の境界線はなくなり、リアルな鯉が絵画の水面に飲み込まれていく。同じ色に染まれば、まだ自分を保っていられるのだろう。


 茶屋の小さな入口から身を屈めて入る。案の定、Zが余裕綽々といった表情で座っていた。着物まで羽織っている。

「彼女の中から出ていってくれ」

 瀬戸口は立ち尽くしたまま、そう言い放つ。

「おや、無作法だね。君の祖国に合わせたのだから、楽しみたまえ」

 Zはこなれた手つきで抹茶をたてて、瀬戸口を見上げた。視線ひとつが強烈に強くて、一度まともに目があっただけで心の奥まで見透かされそうになる。しぶしぶ、というより半ば強制的に座った。抹茶の緑色の濃さが目に飛び込んでくる。さっきから色彩の認識がいかれてしまった気がする。蓮の花。

「知っているかい? トリガーは奪うだけじゃない。相手に与えることでも操れる。どこまで君の意思かな」

 Zはあやしく微笑みながら、瀬戸口の耳を指差した。

「そんなことは最初から知っている。彼女を巻き込むのはもうやめろ」

「酔狂だなぁ。君は飛んで火に入る夏の虫ってやつかい。はいそうですかというわけがないだろう」

「まぁ、確かに」

 ルンペンシュティルツヒェン。瀬戸口は目を瞑りナイフに触れて、小声で呟いた。周りの空間がごごごごと渦巻いて収斂していく。まだ目を開けてはいけない。確実に、幻想を閉じさせるイメージが定着してからでないと。


 しんと静まりかえる。ゆっくりと目を開くとそこは洋室で、テーブルを挟んでZと座っていた。狭い茶室や鯉の泳ぐ池、蓮の花、大広間もすべてが砂のように消え去り、ずしりと重量感のある固い現実の色彩が戻ってくる。Zの後ろの壁に絵画が飾られていた。絵の中で蓮の花が揺れている。開け放たれた窓から、生温い風が入ってくる。

「やるねぇ」

「解くのは得意なんだ」

 それでもZは焦りもしないで、手元のグラスを揺らしている。淡く青いグラス。瀬戸口ははっとしてそれを凝視した。

 これ見よがしに口をつけ、飲み干す。その喉元の動きが鮮明に焼き付けられる。

「君が今、喉から手が出るほど欲しているものだよ」

 Zはグラスをゆっくりテーブルに置いた。

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