おうか咳

@yokoo

おうか咳

 おうか咳

ヨコオキンジ



 花とは鮮やかなものだと思っていた。

 だがそれはとても鮮やかとは呼べなかった。

 薄く、淡い桃色。堅い枝に五枚の花弁。香りはほとんどなく、吹けば散ってしまいそう。

 遠方の父から届いた手紙に、それは添えられていた。

『サクラ』と呼ぶらしいそれは、自分たちの国には存在しない花だった。

 いつか、この花が咲いているところを見てみたい――。

 いや、見るんだ。見て、そして、

 どちらがより上手にその花を描けるか勝負しよう――と。

 そう、約束した。



 焼け付くような激痛が全身を駆け巡る。

 呻きを噛み殺してまどろみから覚めると、目の前に見慣れた天井が映った。

 木造の屋根と壁に提げられたランタン。白い壁にはランタンとは別に、バケットに生けられた色鮮やかな花々が飾られている。

 狭い小部屋にあるのは大量の紙の束と、バケツに入れられた木炭の山。自分が寝ているベッドの隣にある机には、これまでに描いてきた数々の絵が窓から差し込んだ光に照らされている。

 痛みを堪えて体を起こす。そばに水の入った桶と布が置いてあり、その桶をのぞき込んだ。

 やや色素の抜けた、亜麻色の髪。瞳は青く、肌は不健康とも言えるほど白い。我ながら薄幸そうな顔が水面に映り込んでいて、それに布を突っ込んで脂汗に濡れた顔を拭いた。

 部屋に染みついた炭のにおいに混じって、シチューの香りが漂ってきた。下の階からひょっこりと顔を覗かせた母が、トレイにパンとシチューを乗せて現れる。

 シチューはリリィの大好物だ。

「おはよう、リリィ。食べられるかしら?」

 娘の顔を見てほっとした様子の母が歩いてくる。リリィは頷きを返すと、母は穏やかに微笑んで桶の隣にシチューを置いた。

 ミルクと鶏肉のいい香りがする。自然と唾が口の奥から湧いてくるのがわかった。

「ありがとう、お母さん。今日は自分で食べられると思う」

 そう? と母は心配そうに顔色を窺ってくるが、それ以上の追求はせずに「食べ終わるころにまた来るわね」と告げて階段へ向かう。

 その際、母はふと足を止めて振り返る。

「今日、お医者さまが来てくれるって。もう少しの辛抱だからね」

「……うん」

 それだけを告げて、母は階段を降りていく。リリィから見えない位置にある右手は、血が出そうなほどエプロンを握りしめていた。

 母が階段の下に消えてから、リリィはシチューを木のスプーンですくう。よく煮込まれた芋や鶏肉はほろりと溶け、しかし食べやすいようにかスープはさらりとして脂ぎっていない。

 口の中が更に『生唾』で満ちる。それでも口に運んだところで、こみ上げてきた吐き気にえづきそうになる。慌てず器にスプーンを戻し、音を立てないよう器を桶の隣に置いた。

 大きな音を出してしまえば、母に聞こえてしまうだろうから。

『こんにちはおばさん! 上がっていい?』

 その直後、元気のいい男の子の声が窓の外から聞こえてくる。続いて階段に足をかける音を聞いたリリィは、口に含んださらさらのスープを生唾ごとぐっと飲み込んだ。

 まるでイガ栗でも飲み込んだみたいな激痛に耐え、泣きそうになるのを堪える。

「リリィ! 元気か? 調子どうだ?」

 階段を駆け上がってきたのは、肩にベージュの鞄をかけた、跳ね癖のついた茶髪の男の子だ。やや目つきが悪くやんちゃな顔つきだが、それに似合わず優しさと行動力を兼ね備えた隣近所の幼なじみ。今年で十四歳になる彼は、二つ上であるリリィの弟分のような存在だ。

「大丈夫だよ。カクトも元気そうだね」

 カクトと呼ばれた少年は一瞬だけ安堵したように肩を下ろしたが、すぐにムッと顔を強ばらせる。

「当たり前だ。毎日描かなきゃ、お前より上手くなれないからな」

「そうだね」

「ハァ!? 今、さも当たり前のように言いやがった!」

「だってカクト、私に絵を教えてくれたくせに、私より下手だから」

「今はな! 『今』は! ぜってぇ超えてみせるし! お前なんか届かないとこまでいってやるし! だから、勝ち逃げなんて許さねえからな」

 カクトは言いながら机の上にあるベニヤ版と紙、そして木炭を取る。それらをリリィのいるベッドに放り込み、自分も同じ物を掴んでどっかと床に座り込む。

 いつものように、二人でスケッチするためだ。毎日カクトがモデルを持ってきて、それを二人で描く。それがカクトとリリィの日課だった。

「今日は何を持ってきたの?」

「今日はこれだ。今朝、裏にある丘に生えてた」

 ベージュ色の鞄から取り出されたのは、一輪の白い花。ベルみたいに花が垂れ下がり、ふわりと外側に膨らんだ花弁が可愛らしい。

「lily of the valley(スズラン)...リリィと同じ名前だったから」

「……いいチョイスだね」

 スズランの花はカクトが一緒に持ってきていたミルクボトルに生けられ、机の上に置かれる。あとはいつも通り、二人でそれを写生する。

「花瓶のチョイスはどうにかした方がいいけど」

「うっせ。手頃だろうが」

 床に座ってカシカシと木炭を紙に擦りつける背中を見ながら、リリィは密かに嘆息して同じように取りかかる。

 手は動かす度に内側から裂けていくような痛みを訴えるが、絵の描き方は忘れていない。頭を垂れたスズランの縁取りをしようとした時、ふとカクトの背が目に入った。

 背を丸め、一心不乱にスズランと紙を交互に見て木炭を走らせている。窓から差し込む光を照明代わりに使っているせいか、光の筋に当てられて眩しく見えた。

「ねえ、カクト。今朝、昔の夢を見たよ」

「どんな?」

 返事をしつつも、カクトは振り向かない。手を止めず、スケッチを続けている。

「カクトが私にお絵かきを教えてくれた時。覚えてる?」

「覚えてるよ。約束も。だからその時までに、俺はお前を超えるんだ」

「そうだね。『サクラ』を一緒に見て、どちらが上手に描けるか勝負しよう――……あの時、お父さんがくれたサクラの花は散ってしまったけれど、その約束は覚えてる」

 目線を外して、机のそばに立てかけられた写真立てに向ける。中にあるのは写真ではなく、はるか昔に描いたサクラの枝の絵。まだ絵を描くことに慣れていなかった頃のリリィが描いたもので、いびつではあるが、見ればいつでも思い出せる。

 あの、優しくて儚げな花の形を。

 どんな木だろう、と二人で妄想して創作したサクラの木々も。

「いいから、手を動かせよ。一分一秒が惜しいんだ」

 ぼんやりとサクラの絵を眺めていたリリィは、その言葉で我に返る。

 そうだね、と返して、自分の紙に向き直った。

「……あれ?」

 リリィもスケッチを再開してしばらく経った頃、誰かが階段を上ってくる音が聞こえた。母だろうかと思ったが、カクトが来ている時はスケッチの時間を邪魔しないようにしてくれているため、無言で上がってくることはない。

 誰だろう、とリリィが顔を上げると、階段の下から、ぬうっと黒い影が盛り上がった。



 カクトが気づいた時、それは既に立っていた。

 全身黒ずくめのコートとハット、そしてブーツ。暗闇から型どりしたかのような服装をした、見上げるほど長身の不審者。服装だけで十分に不審なのに、それの顔には、白いクチバシを前に突き出した不気味な仮面がつけられていた。

「こん にちは」

 二人が唖然としている中、仮面の主が人語を発する。透き通るような男の声だ。妙な、空きが言葉に含まれている。

「依頼を受け 参上しました。 魔女代行 クスシ と 申します」

「魔女、代行……?」

 理解が追いつかず、カクトは復唱する。そしてはっと我に返り、素早くリリィとクスシの間に割って入った。

「なんだお前、どこから入ってきた! 魔女って悪いやつって聞いたぞ! リリィと俺に何するつもりだ!」

「待ってカクト、大丈夫、大丈夫だから」

 リリィを庇うように広げた腕に、そっと青白い手が触れる。

「この人が私のお医者さまなの」

 リリィの手に腕を下ろされ、カクトはまたも唖然とする。他の大人たちと比べても細長く、相当に気味が悪いこの男が医者だとは到底信じられない。

「仰る とおり」

 二人の会話の間を縫って、クスシが澄んだ低温を漏らす。

「リリィさまを蝕む病は 普通の病に 非ず。この世にはまだ ヒトには理解し難き現象が在ります。魔女とは その研究を行う者。決して 犯罪者や悪人では ない の です」 

 ガン!! とクスシの手に提げられていたトランクが床に落ち、激しい音にビクリと体を跳ねさせる。蓋が開かれたトランクの中身は、赤いクッションに守られた四本の注射器。

 それらは宝石にも似た鮮やかな色合いを持ち、クッションに沈んでいるのも相まってひとつの装飾品のようにも見えた。

「このように 魔女 とは 病と薬を扱う者 でもあります」

 白い手袋に覆われた骸骨のような指が、桃色の液体が入った注射器をつまみ上げる。

「故に 魔女」

 注射器の空気を抜かれ、針から溢れた液体が桃色の雫となって床に散った。

「とは言えど 私はただの 代行。使い走りです。私が持ち得るのは 魔女より預かった薬と 知識 のみ。リリィさまを 私の力でどうこうすることは できません」

 ご安 心 を 。

 すれ違いざまに囁かれ、カクトはぞわぞわと産毛が立つのがわかった。

 気味が悪すぎて飛び退いてしまったが、リリィはクスシを恐がりもせずに腕を差し出す。未だクスシへの恐怖や不快感は拭えないが、当のリリィが呼んだのであれば、本当に医者なのだろうと自分に言い聞かせた。

「よろしい ですか」

 注射を打つ前に、クスシが確認を取る。リリィはぎゅっと唇を強く噛んで、何秒か逡巡するように目を強く閉じたまま、微かに頷いた。

「つっ……」

 直後、銀色の針がリリィの細腕に突き刺さる。唇を噛んだままリリィは痛みに耐え、桃色の液体がゆっくりと減っていく。

 よほど痛いのか、きつく閉じられたリリィの瞼から涙が滲み、ベッドに滴る。やがて押し殺せなかった嗚咽が漏れ始め、咳をするように泣き出してしまう。

「お、おいおい……そんな、注射なんかで泣かなくても……」

 まさか自分より二つお姉さんであるリリィが注射で泣いてしまうとは思わず、カクトはクスシのことも忘れて狼狽する。

 注射はすぐに終わり、クスシが針を抜いた後処置をてきぱきとこなす。その間もリリィは鼻をすすっていて、カクトは自分は何も悪くないのに何故かばつが悪い気がしてきた。

「リリィさまをしばし 安静にしてあげましょう。カクトさま こちらへ」

「え、なんで俺の名前……」

「こちらへ。リリィさまが落ち着くまで リリィさまが罹った病を お伝えしましょう」



 下の階に降りると、リリィの母は姿が見えなくなっていた。

 広い居間には焼きたてのパンが中央のテーブルに置かれていて、居間の隣にあるキッチンにはシチューの鍋がある。暖炉を挟んだ先にある玄関は閉じられていて、他に部屋はない。

 暖炉の火も消さずにどこへ行ってしまったのだろうとカクトが考えていると、クスシは何の断りもなくテーブルに座った。

「どうぞ」

 クスシに着席を勧められる。ふてぶてしいな、と思いながらカクトもクスシの対角に座った。

「リリィさまが 今 罹った病は」

 何の前触れもなく話し始めた。どうもタイミングが取りづらいな、と座り心地が悪くなる。

「おうか咳 と呼ばれております」

「おうか咳……?」

 聞き慣れない病名に、思わず復唱する。

「感染症 のひとつです。とはいえど感染力は低く 滅多に蔓延しない稀な病です。ですが 非常に危険でも あります」

「危険、なのか」

「ええ。致死性が高く 完治まで半年を要します。ほとんどの方が半年を待たず亡くなってしまわれる。めまい 吐き気 食欲不振から始まり ひどい咳に見舞われます。条件を満たした時 罹患者は 安らかに」

 だん! とテーブルを拳で叩く。

「そんなのはいい! どうせわかんないんだ! どうやったら治る? 致死性が高いって、リリィは死んじゃうのか? さっきの薬で治ったんじゃないのかよ!?」

 しばし、沈黙。やけに長く感じる沈黙に、クスシは答えない。

 先に痺れを切らしたのは、カクトだった。

「確かに、あいつはずっと昔から病弱で、しんどそうだったよ。でも今回のは、一ヶ月も前から苦しそうで、色んなお医者さまに見てもらって、どうにか生きてくれてるんだ。がんばってるんだ」

 テーブルの上に乗り出して、クスシの仮面の奥を見つめる。その奥には漆黒の暗闇が広がっているだけで、何も見えない。

「なあ、あんたも医者なんだろ? 使い走りでも、なんでも、治すために来てくれたんだろ? 治してやってよ。あいつ、絵が好きなんだ。俺が教えたお絵かきを好きになってくれたんだ。一緒に『サクラ』ってやつを見ようって約束してるんだ。どっちが上手く描けるかって勝負があるんだ俺はまだあいつに勝ててないんだよだから!」

「おうか咳の患者が 死に至る 条件 は」

 淡々と。想いをまくし立てたカクトに当てつけるがごとく、淡々と言葉を紡ぐ。

「生を 諦めた時」

「は……?」

「生きることを諦めた時 おうか咳は 罹患者の体を 植物へ 変えてしまいます」

 生きることを諦めた時? 植物へ変わる? そんな、ことが。

「それが おうか咳が危険たる 故。逆に言えば 生きることを諦めさえしなければ。生きていたいと。願い続けることができたならば」

 両手の指を組み、クスシはため込んだ息を吐いて締めくくる。

「おうか咳 は 立ち去るでしょう」



 クスシとの話を終えて一時間ほど。

 リリィの家の扉を蹴り開けてカクトは中に入る。行儀が悪いが、両手が塞がっているのだから仕方ない。未だリリィの母は戻ってきておらず、またクスシの姿も見えなくなっていた。

 両手いっぱいにバスケットを抱えて階段を上る。だが身の丈に合わない大きさのバスケットのせいで足下が見えず、踏み外した勢いで階段を転げ落ちた。

「……~~~~っ、いっでぇ……」

 階段下まで転げ落ちたカクトの周囲に、バスケットの中身が散らかる。

 色鮮やかな花々や果物、クッキーなどのお菓子に、いくつかのガラスのシリンジ。

「……こほっ……、カクト?」

 強打した頭を押さえて唸っていると、階段の上から声が降ってくる。尻餅をついたまま顔を上げると、不安そうに眉をひそめたリリィが手すりの傍らに立っていた。

「リリィ! 起きて大丈夫なのか?」

「……うん。もう、けほっ、安静にしておく必要はないと思うから。それ、どうしたの?」

「土産だ!」

 乱暴に散らかった中身をバスケットにねじ込んで、リリィに向けて強く差し出す。

「村中の果物と花を集めてきたんだ。俺の家にあるやつも全部! お前にやるよ!」

 立ち上がって、今度こそ慎重に階段を上ってリリィの元へたどり着く。

 床にバスケットを置き、少し形が崩れた花束や果物を床に並べていく。

「何も見たり食ったりして楽しむためだけにやるんじゃないぞ。見ろよ、これ」

 バスケットの奥からガラスのシリンジを取り出す。液体とは呼べない、どろりとした赤や青の塊。リリィは緑色の瞳をぱちくりと瞬かせていて、シリンジの青がリリィの瞳に映ってコバルトブルーに見えた。

「絵の具だ。油絵の具だよ。丘の向こうに偏屈な画家のジジイがいるだろ? あそこの奥さんに頼んで、内緒で貸してもらったんだ。これで俺たちの絵に色が乗せられる!」

 そう口にした直後、薄暗かったリリィの瞳がきらきらと輝いた。しめた、とカクトは内心で拳を握る。絵の具なんて高級品、そうそう手に入らないのだ。それを使えるとなれば、絵が好きな人間は誰だって目の色を変える。

「カ、カクト……っ」

 リリィは両手で口元を押さえ、体を打ち振るわせて数歩だけ下がる。今にも泣き出しそうに涙を溜めた表情を見て、カクトは一瞬不安になったが、手を下ろしたことで露わになった口元は、微笑んでいた。

「リリィ。まだ俺たち、絵を描けるだろ? 描きたいものが沢山あるんだから。もっとずっと上手くなって、大人みたいに額縁とかもらってさ、飾られるんだ。俺たちならできるよ」

 泣いているのに、笑っている。悲しそうにも嬉しそうにも見えるリリィに、カクトは絵の具が入ったシリンジを手渡した。

「ありがとう、カクト。ありがとう、けほ、……ごめんね……」

「謝るなよ、別に買えたわけじゃねーしな。借りただけだから、二人でちょっと使ったら返しに行こうぜ」

 シリンジを握りしめた袖口で何度も、何度も涙を拭くリリィにからからと笑いかける。それから空になったバスケットを持って、また階段に足をかけた。

「実はまだ全部じゃないんだ。まだサプライズがあるから、ちょっと待ってろよ」

 うん、と頷いた表紙に一筋の涙がこぼれて、リリィが微笑む。それを見送ってから、カクトは階段を駆け下りて家を飛び出した。

 石畳を跳ねるように走りながら、次に贈る物を考える。まだ全部じゃない、なんてのは嘘だ。とにかく少しでも未来に、生きていることに期待して欲しいあまり口をついて出てきてしまった。贈り物はこれから考える。

 さて、何をバスケットに詰め込もう。自分の家にあるリリィが喜びそうなものはすべて贈った。となれば村の外、あの見晴らしのいい丘に何か――。

「カクト」

 不意に呼び止められ、足も止める。声のした方に顔を向けると、先ほど花束をもらった花屋の店長と目があった。

「どこへ行くんだい」

 熊のように大柄な体で、もみあげと顎が繋がるほど毛深いヒゲの奥から優しい声がこぼれてくる。いつもと変わらず声音は優しいが、今はどうしてか重たそうに息を吐いていた。

「リリィにプレゼントするものを探してるんだ。あいつのとこに変な医者が来てさ、そいつが『生きることを諦めた時に死ぬ』って言うんだ。だから、たくさんプレゼントして、生きてたらいいことあるぞって」

「カクト」

 自分の言葉を遮って、店長は頭を振る。

「そんなことはありえない」

「え……? でも……」

「お前とリリィは仲良しだったから、みんな黙ってた。けどもう、いよいよなんだ」

「『おうか咳』ってやつなんだろ? だから、それの治療法が……!」

 おうか咳? と店長が訝しげに首を捻る。

「違う。リリィが罹っている病気は――」



 見渡せば、ずっと草原が広がっているように見えた。

 森に縁取られた草原は、奥の方で大地が盛り上がって緩やかな丘になっている。さわさわさわ……と風が吹く度に、草花が囁いた。

 そこに、黒いシミが一本。膝まである草花の海にぽつんと黒ずくめが立っている。

 その頭に、カクトは思い切り空のバスケットを投げつけた。

「――嘘つき!」

 クスシの頭に当たってバスケットが跳ね返る。地面に落ちたそれに目もくれず、カクトはクスシの裾に掴みかかった。あまりの身長差に、裾しか掴むところがなかった。

「村の人から聞いたぞ! リリィの病気はおうか咳なんかじゃないって!」

「いいえ おうか咳 ですよ」

「……っ! こ、の……! まだ嘘をつくのか!」

「厳密には おうか咳 も ですが」

 拳を振り上げ、クスシの太ももに叩きつけようとした右手が止まる。

「……じゃあ、本当なのかよ。リリィがかかってる病気は、」

「血晶病。全身の血が固くなっていき 筋肉を動かせる度に激痛を伴う 」

 すう、とクスシが息を溜める。

「不治の 病」

 それは、花屋の店長が言っていた病名と、同じだった。

「罹れば最後 全身の血はジワジワと凝固していき 手足の冷感 しびれ 筋肉痛。肌は白く 冷たくなり やがて激痛に変わる。そして 一月ほどで 死に 至る」

 ぼすっ、と情けない音がした。思い切り太ももを殴ったのに、虚しさしか感じなかった。

「……治療しろ」

 ぼすっ、ぼすっと何度も、何度も何度もクスシの足を叩く。クスシは丘の向こう側を眺めたまま、動かない。

「治療しろよ! そのための医者だろ? そのために来たんだろ!? 黒魔術とか、いけにえだとか、あるんだろ? 魔女ってそういうことやってんだろ!?」

「いいえ 先ほども申した通り私は 魔女代行。何の 力も ないのです」

「っ……! じゃ……じゃあ……じゃあ……っ」

「血晶病の原因は 未だ不明。既存の薬 輸血も 効果はありませんでした。ただ患者が真っ赤な結晶となって 朽ち果て」

「じゃあお前は何しに来たんだよッ!!」

「私は 治しに来たのでは ないのです」

 信じられない言葉がクスシから飛び出してきた。およそ医者の言うことではない、いや、クスシは自分を医者とは一度も言っていなかった。……だとすれば。

「私は 罹けに来たのです」

「……は……?」

「リリィさまを。ご本人からの頼みにて おうか咳に 罹(かけ)たのです」

 まるで、意味が、わからなかった。



 きっと私は、最低な女の子だ。

 油絵の具のシリンジを握りしめたまま、リリィはカクトを見送った後にくずおれた。

「カク、ト、げほっ、ごほ」

 おうか咳の症状か、咳がひどい。咳をする度に喉とお腹に激痛が走る。体が鉄になったみたいで、曲げたり、動かしたりするだけでギチギチと軋む。

「私、こほ、きっと、ひどいお姉さんだよね……」

 痛みを無視して立ち上がる。もうどれだけ痛くても、どれだけ血が固くなって悪くなろうとも、関係ない。おうか咳の死に方は、限りなく安らかだと聞いた。眠るように死ねると。何の苦しみもなく死ねるから、余計に助からないのだとも、聞いた。

 生きていると、苦しいことばかりだから。

「ごめん、ね。私、ここまでしか、行けない、こほっ、から」

 一段ずつ、階段を降りる。カクトがくれた宝物は、もう十分に焼き付けた。ここまでしか行けない私にも、ここまでしてくれる人がいた。

 それだけで、胸がいっぱいだった。

「カクト……夢を……約、束、を……」

 同時に、その人と一緒に歩けないことが、どうしようもなく、痛かった。

「せめて、こほ、あなたとの約束、を」

 階段を降りきって、膝が折れそうになるのを堪える。脂汗が頬を流れても、もう手足の先の感覚がなくなっていようとも、ただひとつの目的だけがリリィの心を支えていた。


 それが、医者ではなく魔女に頼んだ、ただ一つの願い。


 誰もいなくなった家に、窓から吹き込んだ風が二枚の紙を煽る。一枚はバランスのとれていないスズランのスケッチ。もうひとつは、

 懸命に紙へ向かう少年の背を書いた、一枚の絵だった。



 自分とクスシの他に、誰かがこの草原に現れた。

 それにカクトが気づけたのは、その誰かがあまりにもこの草原に似つかわしくなかったから。

「……リリィ? なんでここに?」

 カクトとクスシがいる場所からかなり離れたところに、ふらふらと、草原を撫でるそよ風にすら煽られそうなほど弱々しく、寝間着姿のままのリリィが歩いている。

「リリィ!」

 叫び、クスシから手を放して駆けていく。

 声は風の音にかき消されたのか、聞こえていないようだ。

 膝の高さまである草花に足を取られながら走る。リリィは丘の方へ向かっていて、一歩ずつ確かめるように坂道を上っていく。

 やがて人の気配に気づいたのか、亜麻色の髪が振り返る。

 それと目が合った瞬間、リリィは驚いて、笑いかけて、眩しそうに手で顔を覆った。

「リリィ! お前、なんでこんなとこまでっ」

 追いついたと同時に、力尽きたようにリリィが膝をつく。咄嗟にリリィの体を抱き留めると、まるで石のように冷たかった。

「行きたい場所が、けほっ、あってね……」

 リリィが指差した先は、丘の頂上。丘といってもなだらかな傾斜がわずかにあるだけで、そう急な坂道でもない。だが、靴も履かずに出てきたリリィの足はすり切れて赤くなっており、それでなくとも自力で歩いていけそうになかった。

「あそこへ行きたいのか?」

 一度だけ、頷く。カクトはリリィの腕を肩に回し、ゆっくりと立ち上がる。その際に苦しそうな呻きが聞こえて、カクトはずきりと胸が痛んだ。

「ちょっとだけ、けほ、聞いて欲しいの」

 体を引きずるようにして、二人が坂道を上っていく。その最中、かすれた息づかいでリリィが囁いてきた。

「騙すような真似をして、ごめんね。私の体、もう、こんなでさ」

 言いながら、リリィが寝間着をめくってお腹を見せる。本来ならばなだらかで柔らかいお腹があるべきはずなのに、カクトが目にしたそれはいくつにもひび割れ、赤く滲み、結晶のように固まった血がはみ出していた。

「もうカクトと一緒にいられないんだ、って、思ったから、少しでも一緒にいたくて……少しでも私を……覚えてて、ほしくて」

 声に嗚咽が混じる。すぐ隣にある顔から、透明の雫がこぼれ落ちる。カクトも何かを言いたかったが、目元まで溜まったそれは、何かを口にすればもう止められない気がした。

「カクトの絵……下手だけど、こほ、好きだったよ。これからどんどん、上手くなるんだなあって、思うと……うらやま、しく、て」

 預けられている体が震え、ボタボタッと塊の粒が地面に落ちる。

「わだじの絵……ごほ、もう、ここで止まっちゃうがら……っ」

 もう、止められなかった。

 唇から血の味がするほど噛みしめ、鉄の味にしょっぱさが混じる。ぼろぼろと自分の頬を涙が伝っていくのを止められず、それでも声だけは上げまいと、固く手を握って歩を進めた。

「カクトはね……わたじより、ごほっ、うまくなれるよ……。ずっと、未来があるよ……。置いていかれたくなかったけど、カグトならっ、けほ、大丈夫……」

 荒い息を繰り返しながら、頂上にたどり着く。そう高いわけでもない丘の頂上からは、何が見えるわけでもなくただ草原と森が広がっている。

 リリィはカクトの体から離れると、自力で立って前へ進んでいく。

「でも、ちょっと悔しい、けほ、から……」

 少しだけ声に落ち着きを取り戻して、リリィはカクトに背を向けたまま呟く。

「私の、最後の作品、見せるね……」

 呆然と立ったまま、カクトはリリィのやろうとしていることを見守る。何か言うべきかと思った。だが、何も言うべきではないとも、思った。

 振り返る。涙に腫れた目は、宝石のように瞬いていた。

「私、嬉しかったよ。あなたと出会えたすべて」

 刹那。

 リリィの体は、忽然と消え去った。

 強い風が吹く。草木が音を奏で、いくつかの葉が舞う。

 それに、小さな薄紅色が、加わった。

「……ぁ」

 いつか見た、はるか昔の記憶。ただ一輪だったそれは、眼前にて、壮麗に咲き乱れた。


 ――サクラ。


 東の果てにあるといわれる、彼方の花。風に吹かれ、舞うように花びらを散らす姿は、儚く、美しく、刹那的だ。

 ただ一本のサクラの木。そこから舞い散る薄紅は風に乗り、青いばかりだった草原に淡い色をもたらす。はらはらとひどく緩やかに舞う花弁は、カクトの頬を撫で、やがて落ちていった。

 ――一緒に見よう。そしてどちらが上手く描けるか勝負しよう。

 ――私の最後の作品、見せるね……。

「……こんなの、」

 独りごち、膝から地面にくずおれる。

「……かなわないよ……」

 俯き、震えるカクトの背にサクラの花びらが優しく重なる。

 声を殺し、泣いた。置いていかれたのはどちらだろう。届かない場所まで行ってしまったのはどちらだろう。もう何もわからなかった。ただ、リリィが何故、わざわざ魔女にまで頼んでこの病に罹ったのかは、わかった気がした。

 しばし泣いた後、ゆっくりと立ち上がる。サクラの木に近づいて幹に触れると、固く、ごつごつしていた。

「でも、これじゃ……お前がサクラになっちまったら……」

 見上げる。下から覗き上げるサクラは、まるで別世界だった。

「お前がサクラを見られないじゃないか……ばかだな……」

 涙が乾き、呼吸も落ち着いた。

 振り返る。クスシはすぐそばで佇んでいた。

「クスシ。魔女代行、クスシ」

 彼の名を呼ぶ。その眼は、子供とは思えないほど、力強い輝きを放っていた。

「俺の願いを聞け」



 いくばくかの時が流れ――。

 この国で一番栄えている街で、ある画家が話題になった。なんでも、この国では見られない植物の絵を描いたらしい。

 それはとてつもなく美しく、元もさることながら画家の腕も素晴らしい――と、芸術家たちの間で持ちきりのようだ。

「絵、ってのは素晴らしい。特に写生は、その一瞬を額縁に収めることができる。もう二度とない、その一瞬、その時間を。そう思わない?」

「そう ですね」

 馬小屋と言って差し支えない広さの空間に、大量の書物とスクロールがごった返している。その紙の山を蹴り飛ばしながら、女の声にクスシは淡々と返した。

「なんだい、珍しく絵を持ち帰ってきたからコメントしてあげたのに、そっけない」

「性分 でして」

 ゆらゆらと椅子の上で三角帽子が揺れる。その後ろを通り過ぎて、クスシは壁に貼り付けられている十字架やらメモやら緑色に光る花柄のランプやらを無理やり引きはがし、床にぶちまけた。

 更に増えた床のがらくたを気にもとめず、クスシは額縁に入れられた一枚の絵を壁にかける。

「で、何の絵だい? 誰が描いた?」

「無名 ですよ。とある田舎の画家が描いた ただの 絵 です」

「ふぅん……なんだっていいけどね」

「でしょうとも」

 壁にかけられたのは、真っ青な草原に咲き誇るサクラの絵。白黒ではない、鮮やかかつ繊細に彩られた、油絵だ。

「クスシよ。今度の病は、人を殺すのかね? それとも、生かすのかね?」

「さあ。私には わかりません」

 草原の丘の頂上、額縁の中でサクラは永遠に咲き乱れる。


 『二本』の若いサクラが、まるで寄り添い合うように、立っていた。 




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