僕の父親

ネコ エレクトゥス

第1話

「今考えてみると自分の父親は何の仕事に対して給料をもらっていたのだろうか。」

 自分の父親をそんな風に書くのはどうかとも思うけど、父親の親兄弟はみんな亡くなってるし、問題は母親なんだが、母親も文章を書くのが僕だったらきっと許してくれるだろう。


 さて、そんな僕の父親だがあの戦争の真っ最中、地方都市で男三人兄弟の末っ子として生まれた。裕福ではないが貧しいという程でもなく、末っ子の宿命として上の兄弟に泣かされながら親に甘えて育ったようだ。

 後にたまたま父親の履歴書というやつを見る機会があったのだが、最終学歴は地元の定時制高校だった。ただあの時代を考えるならこのくらいの学歴は平均値と言っていいのかもしれない。専門的な知識を修めるでもなく最低限の知識は身に着けました、ということなのだろう。そして時代は高度成長期に入り、あの当時の多くの若者がそうだったように僕の父親も東京へと旅立った。

 実は後にそういう人とたまに出会ったのだが、あの時代に東京に仕事を求めて田舎を出た人には何となく仕事をしていればそれで仕事が務まってしまった、という人たちが結構いる。もしその仕事が順調にいってれば問題はないのだが、低迷期に入った時にリストラや配置換えの対象になる。僕の父親は後者だった。

 ちょっと話は戻って東京に出てから十年程、父親はある女性と出会って結婚する(もちろん僕の母親)。二人は三人の子供を授かる。共働きしながらなんとか子供を育てていった。しかし子供三人を育てるとなると職場で微妙な立ち位置にいる父親の給料がやっぱり問題になってくる。子供に何か買ってあげたくてしかも自分自身が機械好きだった父親は他の家庭に先駆けて衛星放送の受信機などを買ってきてくれたのだが、「どこにそんなお金の余裕があるんですか」という母親のお叱りも当然セットだった。ちなみに当時父親がうちに導入したものの中に今や伝説と化したソニーのベータ式ビデオデッキがあったのだが、今考えてみると父親の先行きの見えなさを象徴しているようで面白い(逆に今あれを持ってたらお宝になっていたのかもしれないが)。

 さて、そうこうしているうちに子供がなんと三人とも大学に受かってしまった。一方では誇らしかっただろうが、一方ではそれを支えなければならない立場にいる自分の無能さ、ふがいなさ。あの当時の父親の心労はどれほどだったのだろうか。そこへ先の会社の低迷期、変革期が重なる。五十代を近くにして父親は研修という形で単身赴任に出ることになる。実は東京の大学にいた僕が最後に生きている父親に会ったのがこの時だった。

 その後で父親から手紙をもらった。

「相変わらずギンギンにギターを弾いてるのかな。お父さんも何とか頑張ってます。」

 書は人を表すというが、どこか子供のような甘えたところのある優しい人の書く字だった。 

 僕が大学三年生のある日父親が入院したと連絡があった。それからはあっという間だった。

 本当に優しい人だった。


 それから二十年が過ぎた今間違いなくこう思う。

「自分にはやっぱり父親の血が半分流れている。」

 いいのか悪いのか。

 

 


 

 

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