Upstream

USA

Upstream

現代物理学は過去へのタイムトラベルを否定している。


つい100年前までは過去へのタイムトラベルについて真剣な議論が交わされ、可能だと思う科学者も少なくなかった。


しかし、22世紀にもなると、過去へのタイムトラベルを実現するためにワームホール生成を試みるマッドサイエンティスト達は完全にいなくなる。人々の間でも過去へのタイムトラベルはフェアリーテールと同様の扱いを受けるようになっていた。それは、過去へのタイムトラベルが演繹的に不可能だと証明されたからだ。


その論文、「過去へのタイムトラベルの不可能性」を発表し、ノーベル物理学賞を受賞したのが僕の師匠、ハイドル博士だ。


ここまで述べてとおいてなんだが、実際のところ、過去タイムトラベルは可能だ。

実は、ハイドル博士の「過去へのタイムトラベルの不可能性」の証明には抜け穴があった。


「抜け穴」の存在については僕とハイドル博士以外は知らない。

というのも、ハイドル博士の論文は非常に難解で、その正当性の確認に10年を要した。世界中の物理学の天才達が召集され、検証を行った。そして出た結論は「論文は90%正しい」だ。恐らくは50%も理解できていないだろうが、物理学者たちも見栄を張るためにそう言わざるを得なかったのだろう。


そこでムカついた博士は自分の論文を量子コンピュータに分析させ、その論理に「抜け穴」がないかを一つ一つ確認させた。すると、量子コンピュータが見事にエラーを見つけ出した。そこが「抜け穴」だったのだ。


しかし博士はこの「抜け穴」を発表しないことにした。すでに「過去タイムトラベルは不可能」という結論で収束してしまった物理学をめちゃくちゃにするのは、流石の博士でも気が引けたようだ。


それから長い年月をかけて、僕と博士はタイムリープマシンの作成に成功した。タイムマシンというと、SF映画で出てくるような車だとかどでかいマシーンを想像するかもしれないが、そんな大それたものではない。もはや乗り物でもない。残念ながら、質量を過去に送ることはできないのだ。質量はエネルギーであり、エネルギーを過去の一点に送ることは熱力学第一法則に反する。

しかし、エネルギーがダメでも情報なら送れると博士は考えた。大雑把に言えば、情報の塊を過去の向かって投げるのである。これを使えば、理論上、自分の脳データを過去に送ることが可能となる。





「博士。粒子加速器の準備ができました。」


「了解。クリス、覚悟はできているんだな」


そう言う博士の目からは不安と期待が見て取れる。


「勿論です」


「じゃあさっきやった通りだ。そこに座れ」


僕は博士に指示された通り椅子に座り、脳解析器具を頭に被せた。

僕は今から、10年前にタイムリープする。

先程リハーサルをしたばかりなのに、極度の緊張で汗が滲み出る。


「博士、次会うのはいつでしょう」


緊張を紛らわすために博士に話しかけた。


「この私と君が会うのは十年後ということになるかな。この君と私が会うのは十年前だけど」


脳解析器具のせいで博士の顔は見えないものの、笑っているのがわかった。

少し緊張が和らいだ。


「そうですね。さあ、僕の気が変わる前に行かせてください」


「そうするか。じゃあな、クリス」


「ええ、博士」


博士がボタンを押す音がした。凄まじい重力がかかった。次の刹那、平衡感覚が一気に狂い、僕は意識を失った。



轟音で目が覚める。


そして目が覚めた途端、タイムトラベルの成功を確信した。


僕はいま電子脳検査機器EBIEの中にいる。10年前(つまり僕が今いる時間)の最先端の脳検査機器だ。患者からは検査中の音がうるさいと不評だったようだが。


起き上がろうとしたが、全身が固定されて動けない。すると、急にインターホンから声がする。


「クリスさん。検査機器に異常が発生したので一旦検査を中断します」


シミュレーション通りだ。未来からEBIEをハッキングし、僕の脳に干渉させたのだ。一台数億円もするEBIEには犠牲になってもらった。


僕は病院のスタッフに何度も謝られ、病院を後にした。まあEBIEが異常をきたしたのは僕と十年後の博士の仕業なんだが。


僕は十年前の懐かしい光景を目に焼き付けながら家へと向かった。


ふと鼻をくすぐる良い匂いがした。七、八年前くらいに店長が急逝して潰れた近所のパン屋さんだ。

この時間軸だとあと二、三年で潰れてしまうはずだ。

僕はその店のカレーパンが大好きだった。

僕は店に入り、迷わずカレーパンを買った。レジで、白髪交じりの店長が、「いつもありがとう」といって微笑んだ。「どうも」と一言交わして店を出る。ペラペラなはずの暖簾がひどく重く感じられた。




僕は今、家の前に立っている。かれこれ10分以上立っている。立っているというよりは立ち竦んでいる。

というのも、妻と顔を合わせる心の準備ができていないのだ。

警察に通報される前に、と自分を奮い立たせ、ドアノブを開けた。温かい風が僕を包み込む。


「おかえりー」


奥の方から声が聞こえた。


「ただいま!」


僕は大きめの声で言う。


何年ぶりの「ただいま」だろう。

こんなにも「ただいま」は嬉しくて、明るくて、温かかったんだ。


奥に妻の影が見えた。僕はそれを目で追って、しばらくの間、恍惚としていた。


それを覚ますように怒号が響く。


「ちょっと早く来て!ご飯もうできてるんだから!」



一度死んだ妻が、僕の世界に蘇った。


妻との日常。妻と見る夕日。妻とのご飯。妻との夜。一度全て失われたと思ったものが取り戻された。灰色の世界が、色付けられていった。


僕はこの日常の永遠を願った。

そして僕は禁忌に手を伸ばし始めていた。絶対に犯してはならない禁忌に。



教授は僕がタイムリープすることになった時、こう言った。


「蓋し、この世界は本のようなものだ。然るべき秩序、順序をもって進んでいかなければならない。故に、過去の事実に干渉して変化をもたらせば、それ以降の世界は連鎖的に変わる。そして全くの別の「本」になるのだ。最悪の場合、タイムパラドックスが起こり、「本」は何の秩序も持たない「文字の集まり」へと変貌することもあり得る。過去は変えてはならない。ただ、それだけを神に誓って守ってくれ。」


つまり過去の事実を変えること、すなわち過去改変、いや、「過去改編」は教授が僕に課した絶対的な禁忌だった。



「明日から出張行ってくるね」


妻の言葉に僕は凍りつく。頭が真っ白になり、せっかく色付けられた世界がまた色褪せた灰色に侵蝕されそうのなるのを感じる。


妻は明日死ぬ。


十年前の記憶が洪水のようにフラッシュバックする。機体の半分が水に浸かった小型飛行機。むくむくとした真っ黒な煙が魂を乗せて空高く昇っていく。

忽然として失われた日常。依然として回り続ける世界。


8/13。明日を最後にしてこの幸せな日常は終わる。


これでいいんだ。これで元の通りなんだ。これが運命なのだ。

妻の幸せそうな顔がもう一度見れただけで幸せだ。


そうやって何度も何度も自分に言い聞かせて凌ごうとした。

だが、自分が一度飛び込んだ悲しみの深淵にもう一度飛び込む勇気は、僕には残っていなかった。


「出張はやめておいたほうがいいんじゃないのか」


僕は神に抗う一言を口にした。


「急にどうしたの?」


僕は手を握りしめる。汗がシャツを滲ませる。


「明日の出張はやめろ。行ったらお前は...」


瞼が熱くなるのを感じる。

僕は妻の顔を見るのが急に怖くなって俯いた。


「お前はもう...」


嗚咽が漏れる。僕はその先が言えなかった。


怖気付いたのだ。


やり場のない怒りと自分に対する失望が腹を苛む。


ふと僕は温もりを感じた。細い腕が僕の身体をきつく締める。妻の艶やかな髪が僕の腕をくすぐった。妻は顔を僕の胸にうずめた。何も言わず、ただ僕を抱きしめた。



僕は妻に出張に行かないでほしい、とだけ伝えた。その理由を言ってしまうと、タイムパラドックスが起こる可能性が高くなるからだ。

妻は訳も聞かず、落ち着いて受け入れてくれ、出張は取り止めになった。



その夜、恐ろしいことをしてしまったという後悔と、してやったりというアンビバレントな感情が僕を襲った。


「起きてるか」


隣にいる妻に、心許なく呼びかける。


「大丈夫。私はここにいるよ」


妻が僕の手をぎゅっと握りしめる。

妻の存在を肌で感じて安心した僕の意識は次第に遠のいていった。






「うわあああ!」


僕は叫んで起き上がった。頭に強い衝撃が走る。

目の前にはひどく痛がっているハイドル博士がいた。どうやら博士の頭に思いっきり頭突きしてしまったようだ。


「目を覚ましたかクリス!実験は失敗した。時空間転送がうまくいかなかったんだ!」


額から血を流している博士はそう言う。


「..あれ...僕はどこにいて...何をしたんだ...?」


「意識が混濁しているようだな。しばらく休みたまえ」


おかしい。抱きしめられた感触、優しさ、温かさ、ひしひしと感じる。この正体はわからない。僕は頑張って思い出そうとするが、考えれば考えるほど記憶は崩れていくようだった。

しまいには跡形もない砂だけが僕の脳内に残った。


「きっといい夢でも見てたんだろうな」


僕はそう呟く。



僕は研究室で少し休憩してから帰ることにした。博士はまだ残って先の失敗の原因究明に努めるそうだ。


帰り道、シャッターが下ろされている店に目が止まった。いつもならなんも思わないその光景が胸をチクリと刺す。


そういえばここパン屋だったな。カレーパンがうまかったな。


何か大事なことを忘れている。忘れてはならない何かを。

冷や汗が背中から滲み出る。まるで、隠していた秘密をだれかに見つかったときのように。


次の瞬間、僕は家に向かって走り出した。


名状しがたい感情の波が押し寄せる。僕は訳もわからず精一杯家に向かって走り続けた。


息を吸って吐くごとに、胸の迫りはどんどん強くなっていく。


そして1分も経たないうちに家に着いた。強い既視感デジャヴを覚える。不安が僕の心をかき乱し、計り知れない恐怖が僕の腹を抉っていた。


- 自分はあってはならない何かを期待しているのか。それとも、あるべきものが失われているのが怖いのか。


「ただいま」


そう言いながら思い切ってドアを開けた。


____________________________________














  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Upstream USA @NeverLetMeGo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る