改稿版
TSした酒クズ先輩に童貞を奪われる話
大学一年生のとき、僕は一枚の写真に恋をした。
食堂に貼り出された写真サークルの展示のなかで、ひときわ目立つA0判のパネル。なんてことのない、この街の一部を切り取った作品だったが、すべてが完璧だった。目の前に立った瞬間、下腹部に鉛玉を落とされるような衝撃が僕を襲った。
どんなトリミングもレイアウトもしてはいけない。どんな書体も乗せられない。グラフィックデザインを志したばかりの初学者である自分ですら直感で理解した。
しばらく、パネルの前で惚けていると、ビラを持った上級生らしき男が話しかけてきた。
「きみ一年生? この写真すごいでしょ。ウチの二年が撮ったんだよ。おーいセンパイ、こっち来い。お前のファンだぞ」
「マジすか部長! えっへっへ、なんか照れるっすね」
『センパイ』と呼ばれた男は金髪で、耳たぶを貫通するプラスチックでできた紫のピアスをつけ、やんちゃそうで、しかし親しみやすい笑みを浮かべた人だった。
「どうも、情報工学科のセンパイです」
展示された作品と人間のギャップに、思わず眼鏡のポジションを調整しなおして返事をする。
「あっ、デザ科一年の、女ケ沢です」
「んー、女ケ沢くんか。ニコン使ってんの?」彼はニコニコと人好きのする笑顔のまま、僕の肩にかけたカメラバッグを指差す。
「あ、はい。父のお下がりですけど……」
「よっしゃーじゃあ、きみこれからメコンくんね。部長ォー! この子メコンくんです!」
彼はガバリと先ほどの上級生の方を向き声高々に宣言した。
これが僕、女ケ沢誠こと『メコン』と『センパイ』との出会いだった。
****
「センパイさーん、あーそびーましょー」
大学三年の五月頭、連休も終わって初夏の様相。僕はセンパイさんのアパートの部屋の呼び鈴を鳴らし、執拗に声をかけている。
というのも、彼はこの三日間ほど音信不通状態だからだ。学科やサークル室にも顔をださず、メッセージには既読もつかなければSNSの更新もない。もともと破天荒なところがある人なので、やれ「バックパッキングに出かけた」やら「インドに自分探しに出た」やら「謎の組織に拉致られた」などと冗談を言い合っていたが、いよいよ心配になり駆けつけた次第である。よくよく見てみると彼の原チャリは置いたままだし、電気のメーターは動いているので、アパートにいる可能性は高いだろう。野たれ死にしかけているパターンも考えて、いくつか差し入れも買ってきている。もし本気で死にかけてたら滅茶苦茶に恩を売っておこう。そんな、楽観的すぎる心持ちで声をかけ続けていた。
「僕車で来てるんで、ラーメンでもいきましょうよー」
駄目押しのベルと声がけをする。
果たして。軽い足音と解錠の音がすると、ゆっくり、控えめに扉が開く。今日は快晴のため、電気のついていない部屋の中が黒く切り取られたように見える。センパイさんがちゃんと生きていたことに少しだけ安堵した僕は、いつも通りに声をかけようとした。
「センパイさん生きてたんす……ね……?」
「うおぉーメコンじゃん。どした。まあ入れよ」
僕の予想に反して、隙間から顔を出したのは、見知らぬ女の子だった。
頭頂部が黒くなった金髪——いわゆるプリン頭——のセミロングに、いかつい拡張したピアス。そしていつもセンパイさんが部屋着にしているオリオンビールのTシャツを着た女の子は、外が眩しいのか眉間に皺をよせ顔をしかめている。
というか誰? 女の子? あの人の彼女さんか?
「えっあっ、あれっ? センパイさんいらっしゃいますか……?」
「ああん? おまえの目の前にいんだろ、寝ぼけてんのか? ンンっ、なんだ、声変だな。体ダル……」
センパイさんの部屋から現れた女の子は、僕が入りやすいように扉を開け放ち、咳払いをしながら部屋に戻って行く。
「もしかして、センパイさんの彼女さんですか? あの、なんかすみません……」
僕は、なぜかいたたまれなくなって、とっさに謝っていた。だってしょうがない。呆気にとられていたせいでよく見えなかったが、彼女、シャツの下ノーブラだった。今の僕絶対にお邪魔虫でしょ。
そんな僕の態度が気に入らなかったのか、彼女は呆れた色の滲む声音で続けた。
「だー、メコン、お前どうしたよ。どっからどう見ても愛しのセンパイさんだ……ろ……」
両手を上げてくるりと一回転してアピールする彼女だが、どうやら脱衣所の鏡が目に入ったらしい。わざとらしい大げさな動作で、両頬を引っ張っている。まるで、夢かどうかを確かめているようだった。
「あ、あの——」
「なんじゃこりゃあ!!!!」
大きな瞳をひん剥いて、彼女は絶叫した。
僕はビビった。
「うげぇっ! なんだこれ、女になってる!? んんん? メコン、大変だ。おっぱいがついてるぞ!」
「やべえよやべえよ、なんだこの状況……」
自分のことをセンパイさんだと言い張る黒と金二色頭の女の子が、自前の胸を揉みしだきながら眼前に迫る。股間を改めながらズカズカと歩み寄る彼女は、息がかかるくらいの距離で立ち止まり、僕を見上げて言った。
「マジかよマジかよチンコがねえ。どっかに置き忘れたか? まあいいや、ほらメコン、おっぱい揉んでみろ。本物だ」
玄関で立ち惚ける僕の腕を掴んだ女の子は、そのまま僕の手を自らの胸に当てた。
「ファッ」
……そう。僕はどうしようもなく童貞だった。
**
「つまり、センパイさんは三日前、しこたま飲んで寝て、目が覚めたら女の子になっていたと」
「いやー飲みすぎてそれくらいしか覚えてねえな、ワハハ! うわ、めっちゃ通知溜まってんじゃん」
自称センパイさんの彼女は、充電器に繋いだことで復活したスマホの画面を見て笑う。確かに、この笑い方に、ころころと話題が移り変わっていく感じ、センパイさんっぽい。彼女はスマホをアンロックすると、また笑い声をあげる。
「おーおーおー、なんか時間が新しくなるとみんな心配してきてるね。あははウケるー」
ん、今、指認証でスマホをアンロックした? このスマホ、どこからどう見てもセンパイさんのだ。サッポロ黒ラベルのラベルをホーム画面に設定している人を僕はあの人以外に知らない。
「あの、そのスマホ、全部使えます? アンロックとか、アプリのダウンロードとか」
「ん? 今使ってんじゃん。ホラ。全部うごくよ」
彼女の小さな手の中で、シュパシュパと軽快に動作するスマホを見る限り、どうやらこの端末は持ち主を本人だと認めているらしい。
「あの、じゃあ、センパイさんの誕生日、血液型、好きなもの、お気に入りの体位わかりますか」
「メコンもしつこいなあ。十二月十二日生まれのB型、好きなものはおビール様、好きな対位は基本の正常位!!」
「完璧センパイさんじゃないっすか」
「だから言ったべ」
彼女の、少し拗ねたような甘ったるい声が鼓膜を震わせた。
この受け入れがたい現状を無理やり飲み込んだ僕は、ベッドでゴロゴロとくつろぎ始めた彼女を視界に入れないよう心がけながら提案した。
「ところで、センパイさん、この状況どうしますか。病院行った方がいいんじゃないですか?」
「おっいいね。一緒に頭の病院行くか? 頭以外なら何科かな。とりあえず総合病院かな」
センパイさんは基本的にフィーリングで生きているが、まともな時は驚くほどまともだ。確かに、酒飲んで寝たら女になりましたとか頭が悪すぎる。病院から叩き出されてもおかしくない。
「そっすね。頭おかしいって言われるのが関の山ですよね」
「いや行ってみないとわからないだろ」
……そしてなぜか食いついてくる。センパイさん、掌を返しすぎてクルックルですよ。情緒不安定なのかな?
「わ、わかりました。僕今日車で来てるんで、病院まで送迎しますよ」
「やりー助かるわ。帰りに泡盛買ってあげよう」
「いらねっす」
しかし、三年間一緒に遊んでいるので、あしらい方は身についている。ここは話題を変えるに限る。この感じだといつも通りふざけてるだけみたいだし。
「そういやセンパイさん、ずいぶんと縮みましたね」
「おっそうか? ほんとだ、メコンがでかい」
僕の身長は一七〇センチちょうどだが、今のセンパイさんは僕の目線より拳三つくらい下にいる。もともと一七五センチあったとは到底思えない。彼女はベッドから立ち上がると僕の横に並び、身長差を確認し始めた。
「だ、だいたい、一六〇センチないくらいですか?」
身内以外の女性と縁遠い僕は、不意打ち気味にセンパイさんと密着したことによって硬直する。できれば前かがみになりたい。何がとは言わないが、鎮まりたまへ……。これはセンパイさんだぞ……気を確かに持つんだ、僕。
「そんぐらいだな! おもしれー、カメラでっかく感じる」
そんな僕の気も知らず、センパイさんはカメラを手にとってはしゃいでいる。
現在のセンパイさんの背格好をまとめると、身長は一六〇センチほどで、髪が伸び見事なプリン頭だ。服装は普段からオーバーサイズなオリオンビールのTシャツがさらにオーバーなサイズでワンピースのようになり、下半身はボクサーブリーフだけを履いている。肌は健康的な白さが眩しく、どちらかというと幼い顔つきに、0Gまで拡張した両耳のピアスが倒錯的な雰囲気を醸し出している。
そして、もちろんノーブラだった。
「センパイさん、服とか、どうしましょうかね……?」
なるべく直視しないように、顔をそらして伺う。
「なんだおめー気持ち悪い顔して。しゃーないから元カノの忘れ物でも着るわ」
センパイさんはそう答えると、男の一人暮らしにしてはよく整理整頓されたクローゼットから中型の衣装ケースを取り出す。蓋の部分にはガムテープが貼られ、上から「レガシー」と書かれている。さすがセンパイさん、ケースが埋まるくらい経験があるのか。先ほどの素っ頓狂な悲鳴を思い出し赤面する。
「これ全部一人分だよ。あいつ来る度に忘れ物して、いつか返そう返そうって思ってる間に別れちった。洗濯はしてあるし、お泊りセットを拝借しよう」
「なるほど」
見透かされていたようだ。
センパイさんは箱に手を突っ込み、しばらくモゾモゾしていると「君に決めた!」と叫び一セットの下着を引っ張り上げた。
淡いピンク色の、部分部分にレースやリボンがあしらわれた可愛らしい下着だった。
「うげー、これ着けるのぉー?」
「こっちみんな」
なんでこっち見て言うんですか。そんなパンツ広げて見せつけるとかただの痴女でしょいい加減にしなさい。
しかし、よく他人の下着つけようと思うなぁ。元とはいえ、彼女さんのだからそうでもないのか? 僕にはわからない……。そして、重要なことに気が付いた。
「あっ、でもサイズが違うんじゃ……」
「……あ」
悲しげな顔をして、彼女は自分の胸を揉んだ。
「あぁーなるほどですね」
僕はとりあえず、合掌した。童貞の僕でもわかる。デカイやつだ。
「い、いや、まだわかんないじゃん? シュレディンガーのおっぱいだ!」
言うが早いか、センパイはシャツの裾に手をかけ、一気に脱ぎ去った。
「ウワーッ!」
僕は急いでトイレに駆け込み叫ぶ。
「着替え! 終わったら呼んでください!」
「おーすまんすまん。いつもの癖で」
バカじゃないの!? 一瞬だが、しっかりと見えてしまった! クソが! 形のいいお椀型だったのがなんか悔しい。
彼女に悪気はないのだろうけど、とても心臓に悪い。お陰様で脳裏にセンパイさんのおっぱいが焼き付いてしまった……。そして、自分のクソ童貞ムーブにひとしきり凹んだ頃、トイレの外から声がかかった。
「よーし着替えた! もういいぞ!」
僕は念のため一気に開かず、何段階かに分けて、そろりとドアを開けた。
「思ったより普通っすね」
センパイさんは無地のTシャツの上に、これもまた忘れ物なのだろう女物のパーカーを羽織り、ワークタイプのハーフパンツを履いていた。
「サイズが合わなくてこれしか着れねえんじゃ……」
いつもニコニコ元気印なセンパイさんが珍しくしょげかえっている。しかし、急に女の子になったのだ、さっきまでの元気さ、呑気さの方がおかしいと思う。
「まあしょうがないんじゃないっすかね。結局、下着どうしたんすか」
「乳首が浮かなきゃいいんだろ。バンソーコー貼っといたわ。下はボクサーのままにしといた」
「バカかな?」
そんなのダメに決まってるでしょ。本気でやってる人初めて見たわ。いや、直接見たわけじゃないけど、色々言いたいことがあふれている。
「よせやいあんま誉めんなよ。あとは、病院か。保険証、免許証、学生証、健康診断の結果……。ダメだな。信じてもらえる気がしねえ」
「なんもないよりマシっすよ。あとセンパイさん、これどうぞ。お腹空いてません?」
そうして僕は、今まで忘れていたものを手渡す。コンビニの袋に入ったゼリーのパウチとおにぎり、ミネラルウォーターだ。勝手に色々と話を進めていくものだから、すっかりタイミングを見失っていたのだ。多分だけど、この人普通に何も食べていないはず。ぶっ倒れていたと聞いているし、事実シンクも直近で使った跡が無い。
「おー気がきくねぇ、よくできた後輩だぁ! ありがたくいただきます」
すると彼女は屈託無く笑い、恭しく僕から袋を受け取った。常々思うが、センパイさんはこういう時爽やかで、なんだか少しむず痒い。
「車、そこのパーキングに停めてるんで、ちょっと取ってきます。そのあいだ、食べれるものから食べててください」
「了解ー」
なんだか逃げ出すような気持ちで部屋を出てパーキングへ向い、アパートの前に停車してセンパイさんを待つ。少しの間スマホを弄って待っていると、センパイさんが部屋から出て来た。慣れた手つきでドアを施錠すると、いつものように助手席へ収まる。その表情は明るく、この非日常を楽しみ始めているようにも見えた。
「おまたせ、メコンくん。車の助手席に女の子を乗せた感想はどうかな、ええ?」
「センパイさんだと思うと、特に、何も。なんだか事実だけが汚された感じっすね」
「ワオ、詩的」
「そんじゃ、行きますか」
**
病院の自動ドアから吐き出された僕たちは、少し傾き始めた太陽が照らす街を一瞥し、二人して鼻で笑った。
「なんか、怒涛の一日でしたねぇ……」
「そうだなぁ……。俺、女になっちゃってたなぁ……」
病院では、なぜか全てが順調に進んだ。採血やレントゲン、様々な検査の結果、性別だけが丸っと変わってしまっただけらしい。しかも心身ともに健康そのものとのお墨付き。
明日は役所や学校に行って諸々手続きができるとまで言われた。なんだそれ。僕たちの知らない間にそんな性別が奔放な世界になっていたのか? お医者さんも「男女問わず最近稀によくあるんですよー」と笑っていた。絶対嘘だろ。僕の隣ではセンパイさんが「いつのまに人類はオキナワベニハゼに進化したんだよ」とわけのわからないことを呟いている。頭おかしくなりますよ。
まあ、何にせよ、このプリン頭でデカいピアスの空いた女の子がセンパイさん本人であると証明されたわけだ。あとは、この人の身辺を整えなければ。そうと決まれば、もう一踏ん張りといこう。そう僕の中で決心した。
「とりあえず、しまむらでも行きますか」
「えっしまむら!? なんで! やだ!」
「この時間から車でいけるとこそこくらいしかないっす。しまむらなら下着も靴も全部揃うじゃないっすか」
「確かにそうか。取り急ぎだしな」
センパイさんは根拠があると一瞬で意見を変えるタイプだ。返す手首が緩すぎる。パーツが劣化したガンプラの手首並みにユルユルだ。
「そしたらラーメン行きましょ」
「俺二郎系がいい」
「その体でぇ? 絶対残す」
**
そうして国道沿いの大型店にたどり着いた僕らだが、センパイさんは土壇場で再び嫌がり出してしまった。何が「なんかやだ! 中学生じゃん!」だ、乳首に絆創膏貼ってる奴に人権は無い。それに今じゃ僕の方が高身長なのだ、首根っこを抑えて手頃な店員さんに突き出した。観念したまえ。
「店員さん、この子の下着一式おねがいします」
「ウオーッ! お前この! 裏切り者! こんなの聞いてない!」
「ハーイじゃああちらの方でサイズお測りしますねー」
やっぱりどのお店でもおばちゃん店員は強いんだなーと思いつつ、抵抗むなしく連行されるセンパイさんを眺める。これが普通のお店だったら、多分あの人は変なところに拘って、無駄に時間がかかっただろう。しっかり女の子になっておいで……。
そうやって別れた後、しばらく服を眺めていると、センパイさんが買い物かごを持ってズカズカ戻って来た。
「Cのアンダーが65でした!!」
なぜか達成感に溢れた顔で宣言する。結構声量が出ていて、周囲のお客さんが胡乱な視線を向けてきた。クッソ恥ずかしい。
「はあ……?」
「なんか言うこと無いのかよ童貞」
「えっなんですか、なんで僕ディスられてるんですか」
「うるへーほら必要なもの買うぞ」
なるべく無難な、着まわしに困らないようなブラウスやカットソー、スキニージーンズを中心に、いくつか服をカゴに放り込んでいく。そこで、ふと思いついたことを聞いてみた。
「センパイさん、スカートは履かないんですか」
「えっお前、俺がスカート履いてるとこ見たいの……?」
キョトン、といったオノマトペがしっくりくる表情で僕を見上げるセンパイさんと目が合った。するとだんだん、頭の中に男だったセンパイさんが蘇ってくる。
しまった。これは、失言だった。
「すみません想像しました、やっぱり結構です。あまりのおぞましさに五秒前の僕をぶん殴りたいです」
「なんかよくわからないけどおまえのことぶちころがしたい」
僕の脳裏に、さっきのキョトンとした彼女の顔がこびりついている。よく見れば以前の面影が残る瞳に浮かんだ、失望と悲しみの色。
すこし、胸がちくりと痛んだ。本来は僕が少し見上げる側だったのに、今じゃ僕が見上げられている。あまりにいつも通りのセンパイさんだったから、いつも通り、デリカシーに欠ける振る舞いをしてしまった。僕は、「この人はエキセントリックだから」と理解を拒んで、胡座をかいていたのか? と自責した。
そんな、しみったれた後悔を抱えたまま、僕たちは買い物を終えた。二人で大きな買い物袋を持って、僕の親から引き受けたお下がりのボロ車まで戻ってきた。
僕がリアハッチを開け、彼女から袋を受け取りながら切り出した。なんとなくよそよそしくなってしまった空気を変えたかったのかもしれない。
「結構な量になりましたね。車でよかった」
「ほんとなー。出費が痛いわー。でもしまむらめっちゃ安い」
袋から解放されたセンパイさんが、手を頭の後ろに組んで駐車場の小石を蹴飛ばす。その声音はいつも通りのトーンに聞こえる。——今までとはかけ離れた女の声だが、なんとなく、いつも通りに聞こえた。
「思ったより安かったすね」
「なー」
狭いラゲッジスペースにパンパンの買い物袋を押し込むと、僕たちはそれぞれの座席に乗り込んだ。ペラペラのドアを閉めれば、若干ながら国道の騒音が遠のく。僕の隣で、センパイさんが小さなため息を一つつくと会話を再開した。
「ちょうど晩飯時だな」
「そうっすね。どうします?」
「あの国道沿いの新しいラーメン屋行きたい。メニューに二郎系がある」
「えぇーほんとに食べるのぉ? 残したりしません?」
「いや余裕っしょ! 自信しかない」
「んじゃあ僕普通のでいいや。あ、センパイさん、飯食うときこれで髪結ぶといいっすよ」
僕はそう言いながら、あらかじめ買っておいたヘアゴムを手渡した。
「おーありがとう! で、どう使うん?」
「あ、そうか。センパイさん、あっち向けます?」
僕は助手席側の窓の向こうを指差す。
「こう?」
彼女はくるりと体の向きを変え、僕に背を向けた。僕はいつもの感じで髪の毛を手に取り、頭の後ろで一つ結びにする。就活を音速で終えたセンパイさんは、黒髪に戻したと思ったらすぐに金髪に染め直していた。そのせいか、毛先のダメージがひどいことになっている。
「……なんかメコンくん手慣れてない?」
「あー僕すこし離れた妹いて、昔よく髪結んであげてたんすよ。というかセンパイさん、金髪部分ダメージやばすぎでしょ。犬みたい」
「なるほどなるほど。ワン! ワンワン!」
犬みたいという言葉に反応して、急にはしゃぎ出す。やっぱこの人情緒不安定なのかな。
「ほらポチ、お手!」
思わず右の手の平を差し出した。
「アァオン!」
センパイさんが思いっきり僕の手を叩く。狭い車内に、パチンと破裂音が響いた。そしてめっちゃ痛かった。
すっかり元どおりになった僕たちがしばらく車内でゲラゲラと笑いあっていると、二人の腹の虫がクレームを入れる。僕たちは顔を見やると、ようやくエンジンをかけて食事へと向かった。
「この体マジで全然入ってかねぇ……メコンくんパス……」
「やっぱり全然食えてねえじゃん! だから言ったでしょこのアホ!」
「ひええ、ごめんなひゃい……」
◆◆◆◆
今では肩身の狭い喫煙者たちの憩いの場、それは喫煙所。昨今急激に禁煙・分煙がすすみ、喫煙できる場所も少なくなってきた。我らが学び舎も例外ではなく、学内の喫煙所は廃止に次ぐ廃止だ。
しかし、このキャンパスには一箇所穴場的な喫煙所がある。増改築を繰り返し、迷路のようになった屋外階段の先、教職員用の駐車場の脇にある喫煙所は、有志たちの手によってソファやベンチなどの設備が充実していた。アクセスの悪く、目立ちにくい場所なのでいつも閑散としているが、ゆっくりと喫煙を楽しむにはもってこいの場所だった。一日の講義を終えた僕は、サークルに顔を出す前に一服しようと、その喫煙所を訪れた。
そんな喫煙所で、金髪の女の子が死んだ顔で紫煙をくゆらせていた。雨ざらしの椅子と融合するんではないかという勢いでとろけて、だらしなく開いた口から紫煙がモワモワと漂い出ている。
「センパイさん……。どしたんすか、顔死んでますよ」
「おー、誠くんじゃあないか。ヘイラッシャイ。聞いてくれるかい?」
「まあ、いっすよ」
僕が声をかけると、待ってましたとばかりに両手を叩いて語り始めた。
「内定先にこのこと話したら、そんなバカなことがあるかって内定取り消しになったんじゃよ……。マジでふっざけんなよ……」
「あちゃー」
この金髪拡張ピアスの女の子はセンパイさん。僕のサークルの先輩で、写真の天才だ。もともと男性だったが、つい先日なぜか女性になってしまった。原因は酒の飲み過ぎでよくわからないらしい。
「あ。ほらほら、免許証と学生証見てみ。全部写真かえてもらったわ」
「へーこんなことできるんですね。更新とか以外で」
「いや、それがよくわからん……?」
「わからん?」
この件以来、不思議耐性がついてしまったのか、脳みそが真面目に情報を処理してくれないので、まあそんなもんか、と済ませてしまう。
——あーセンパイさん、髪染め直してる。
髪の毛のダメージが激しい部分をバッサリ切ったためか、髪型がショートボブになっている。この人がこういう格好をするとすこぶる良く似合うんだ。黒子の位置や整った鼻筋にこれまでの面影を見る。なんだかんだ馴染んでいておもしろい。
「なんだよぉ、もしかして惚れちゃった?」
「い、いやあ滅相もない。というかセンパイさん化粧してます?」
「さっきサ室行ったらさ、ベンジーちゃんに襲われちゃって……」
センパイさんは遠い目をする。どこか遠くを眺めるその瞳には、隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。なお、ベンジーちゃんとは、同じサークルの後輩の女の子である。椎名林檎が好きと自己紹介してきたので、みんなでベンジーと名付けた。こんな具合に、それぞれあだ名がついているため、場合によっては本名を知らない部員が居たりする。おそらく一年生の何人かは僕のフルネームを知らないだろう。
「なんか疲れたわー。メコンくんはこれからどうすんの? ウチくる?」
「いや、ちょっとサークルに顔だして来ます。来月の展示会のやつ現像したいんで。終わったら行きます」
「あーそういえばそんな時期か。俺のやつまた選ばれないんだろうなぁ」
センパイさんは写真の天才だ、それは疑いようもない。シャッターを切れば、路傍の石ですら完璧な作品にしてしまう。ただ、本人曰く、気合いを少しでも入れると全然ダメダメになってしまうらしい。センパイさんは大学から始めたせいで基礎がないんだと自嘲するが、彼が気まぐれで取る写真は全て美しかった。たとえ同じカメラ、同じ設定、同じ場所、構図で撮影しても、なぜか雲泥の差が生まれる。そして、僕は彼の写真に追いつこうとあがき、知識や技術を蓄えるほどに遠ざかる。まさに天賦の才。恨むべきは、クオリティーのブレ幅が酷すぎて、職業カメラマンとしては絶望的だということだった。
「いつもの感じで撮れれば無敵なんですけどねー」
「ダメな時は何千枚撮ってもダメなんだよなー。ん、じゃあ俺帰るわ。また後で」
「うっす。お疲れ様です」「おつかれー」
大学生の挨拶は基本「お疲れ様」である。朝だろうが夜だろうがお疲れ様。疲れてなくてもお疲れ様。乾杯の音頭もお疲れ様である。万能か。
僕は彼女の去った喫煙所で、吸いかけのたばこをもみ消した。
「お疲れ様でーす。お邪魔しまーす」
「はいはいいらっしゃい」
なんだかんだ暇があると、こうやってセンパイさんの部屋にお邪魔する。気がつけばそうなっていたし、これからも変わらなさそうだった。ただ、ふと疑問に思うこともある。今まで、どうやってセンパイさんは女の子と付き合っていたんだろう。鉢合わせたことすらないのが謎である。
そして、彼女の根城に足を踏み入れた途端目に飛び込んできたのは、人をダメにするソファでダメになっているセンパイさんだった。
「まーた昼間っから酒飲んでるんすか」
「晴れた日に昼間から飲むビールは最高だな!」
僕は大きくため息を吐き、彼女を見据える。
「大筋同意っすね!」渾身の笑顔にサムズアップを添えて。
かく言う僕も、だいぶこの人に毒されてしまっている。この前高校の同級生と飲みに行ったら、哀れみの表情で「なんか変わったね」と言われた。余計なお世話である。
「そういやさ、こうなってからコンビニでもなんでもすぐ年齢確認されんの。あと夜中歩いてるとめっちゃ補導されかける」
「マジすか。あ、いや。納得ですね。どう見ても不良少女っすもん。でも、免許証変わったならこれから楽じゃないすか」
「と、いうことで」
いままでだらだらしていたセンパイさんが急にすっくと立ち上がり、右腕を頭上高く振り上げ宣言した。
「イクぞ誠くん! パイセンと行くおビールの旅! 年確なんて怖くないぞ編! はじまりはじまり!」
「イエース! はやくおビールちゃん達に会いたいゼ!」
なにせ明日は土曜日だ。遠慮はいらない。
僕たちのボルテージはうなぎのぼり、誰にも止められない。止められるもんなら止めてみろ、ビールのもろみにしてやる。
「んで、どこ行きます」
「近いしいつものとこでいいだろ」
「ウッス」
**
「イラッシャッセーイ! お客様何名様ですかー?」
「「二人でーす」」
「お二人様ですねー! 奥の小上がりの席どうぞー!」
「「ありしゃーす」」
そういうことで、僕たちは近所にある行きつけの居酒屋にやってきた。なかなか早い時間から営業しているので、いつもお世話になっている。この前は初対面のインド人留学生とアダルトゲームについて語り合った思い出深い場所だ。
「あーどっこいしょー」
掘りごたつの席に着くと、センパイさんが大儀そうに唸り声をあげて着席する。
「……その見た目でその感じ、ヤバイっすね」
「どう? 何かに目覚めそう?」
「いやーキツイっす」
「「ガハハ」」
僕らは部屋でビールを一本ずつ飲んできているので、しっかり暖機運転は済んでいる。
「すみませーん! 注文お願いしまーす」
「ハーイ只今ー!」
センパイさんが店員さんに声をかける。彼女が声を張ると意外にアニメ声だ。狙ってやってるのだろうか、だとしたらあざとい。
ほどなくして店員さんがオーダーを取りにきた。
「お伺いしまーす」
「えーと、生ジョッキ二つ、甘エビの唐揚げ一つ、枝豆一つ、あと何かいる?」
「とりあえず以上で」
二人とも酒が入るとあまり食べられないタイプなので、軽いおつまみだけで様子を見る。僕がいつも通り注文を終えようとすると、店員さんが眉尻を下げながら切り出した。
「えーと、お客様、恐れ入りますが年齢の確認できるものはお持ちでしょうか?」
「ホイ来た! 免許証を守備表示で召喚!」
センパイさんまさかの掛け声で免許証を差し出す。
「……ハイ。ご協力ありがとうございます。少々お待ちください」
あんなに元気のよかった店員さんから覇気が消えた。なんだか申し訳ないことをしてしまった気がする。
そんな僕の思いをよそに、彼女は満足そうな顔でラッキーストライクにジッポーで火をつけた。無駄に今のビジュアルにしっくりきている。
薄い桃色のリップを塗った唇とラッキーストライク。なんだか、とても絵になる。
というか、ぶっちゃけ今のセンパイさん僕の性癖ドンピシャなんだよなあ……。
色落ちした太めのジーンズにゆったりしたボーリングシャツを着て、古着のベースボールキャップから脱色を重ねた金髪が覗く。得意げにたばこを咥える口元と、拡張したピアスがエロい。
……そんな、思いはしても決して口に出せないことを考えていると、センパイさんが深刻そうに眉間にシワを刻んで切り出した。
「……もしかして攻撃表示のほうがよかったかな」
「……守備表示で正解だと思いますよ」
「やっぱり?」
「あおり運転は犯罪っすから」
「「ガハハ」」
適当かつくだらないやり取りでひとしきり笑うと、僕もたばこを咥える。そして、火をつけようとして気が付いた。ライターがない気がする。
完全に忘れてきた確信があるが、一縷の望みをかけて身体中のポケットをまさぐっていると、テーブルの向こうでセンパイさんが身動ぐ気配がした。
「火ィかしてやんよ」
「あざっ……す」
僕が顔を上げると、目の前にセンパイさんがいた。
驚いて固まっていると、僕が咥えているたばこの先端に、彼女のたばこがくっつく。彼女は目で訴える。『吸え』と。
ハッと我に返ってゆっくり吸い込むと、彼女のラッキーストライクから火種がじわりと僕のたばこへ移っていく。数回息をふかすと、やがてしっかりと燃焼を始めた。
「あ、ありがとうございます……」
「これやってみたかったんだよねー! 男同士でやってもムサいしさ、今がチャンスかと思って!」
「たっ確かにそうっすね……へへ……」
「ハーイ生ふたつお待ち! こちら本日のお通しでーす!!」
先ほどの店員さんにも覇気が戻ったようだ。
よかったよかった。
**
「だからあ、なんでみんなセンパイさんのすごさが分かんないんすかね! 僕ね、このサークル入ったのセンパイさんの作品にあこがれて入ったんすよ! それなのにほかのみんなぜんっぜんセンパイさんの作品の良さがわかってない。とくにあのデブ、自分がボンボンで機材いいからって調子乗ってんすよ」
「ああー誠くんかわいいねえそうやって褒めてくれるの君だけだよほんとかわいいちゃんだなあ! ほらおビールお飲み」
「もうほんと最高なんすよお。ほんと、最アンド高。僕なんかじゃうんこマンだもん」
「そりゃうんこに失礼だろ」
もう飲み始めて四時間くらい経つ。めちゃくちゃだ。
「あーそうだ、センパイさん。僕アイパッド買ったんすよ。そんでライトルーム入れてみました」
「マジでー? どんな感じー?」
僕は持参のタブレットを彼女に渡した。
画面を撫でる細い指先を目で追いながら、心地よい酩酊感を覚えた。僕はふと口さみしさを感じ、たばこの箱を手に取るが、中身はもうない。どうやら、センパイさんもすでに吸いきっているらしい。まいったな。もうそろそろお開きかもしれない。いやだなあ、帰りたくねえ。
「いや、これ俺には難しそうでむりだな!」
「ぜったい嘘だー。……たばこもないし、お会計しますー?」
「あー、飲み足りねえし、ウチで飲むか!」
「マジっすかー。うーん……オッケーでーす!!」
おけまるでーす。異存ありませーん。
「すみませーん、お会計おねがいします! メコンちゃん、これで会計頼むわ。俺ちょっとおトイレ」
センパイさんが会計の旨を店員さんへ叫ぶと、机に万札を一枚置いて席を立った。
「了解っすーお気をつけてー」
「あぁー世界がまわるぅー」
ふらふらとお手洗いに向かうセンパイさんの背中を見送ると、店員さんが伝票を持って来た。
「あざーっしたーこちら本日のお会計でーす!」
「これで、お願いします」
万札を渡して、会計を済ます。
「ありゃーす! またお越しくださいませー!」
会計後、バッグやスマホなどの忘れ物がないか確認していると、ずいぶんお手洗いにしては時間がかかっていることに気がついた。
「なんだべ。センパイさん遅いな」
確かこのお店はお手洗いが個室一つだけで、今のところ出てきた形跡はない。少し心配になり、様子を見に行くことにした。個室のドアを、おぼつかない手でノックする。
「センパイさーん、だいじょうぶっすかー? 生きてますー?」
するとすぐに、水を流す音が聞こえた。そこからちょっと待つと、ドアが勢いよく開く。その向こうには、拳を突き上げたセンパイさんの姿があった。
「なにしてんすか。帰りますよぉ」
「全部出した! まだ飲める!」
口元をティッシュで拭いながら言う。どうやらゲロってたらしい。
「いいぞ! 古代ローマ人もびっくり!」
適当なことを言って、お手洗いから引きずり出す。いつの間にか後ろに順番待ちができていたので、会釈しながら店を出た。
**
僕らはコンビニの冷蔵庫の扉を開けたり閉めたりして、次の獲物を物色している。我ながら迷惑な客だと、頭の隅、ミジンコ程度に残った理性で省みるがもう止められない。
「そうして我々おビール探検隊は、メコン川の源流を探るべく南米アマゾンに降り立った……」
「メコン川は東南アジアっすね! なに買いますか、ウオツカいきますか」
「家にウイスキーとズブロッカあるからいっらなーい」
「じゃあおビールにしましょう。IPAが最高っすよね」
「もしかして、ビールって無限……?」
センパイさんが目を見開き、両手を口元に当てる。親の顔より見た広告、大げさに驚く女性のあのポーズだ。普通に可愛いくてムカつく。
「「ガハハ」」
タチの悪い酔っ払い二人の夜は続く。
**
「あぁーついたついた。ただいまー」
「ただいまっすー」
千鳥足でふらふらと歩いたので、思ったより時間がかかった。ようやくセンパイさんの部屋に戻ると、テーブル中央に先ほどの戦利品をそなえて、膝をついて祈りを捧げるポーズをとった。僕らが彼女の部屋にお邪魔する際の、毎度の儀式だ。ルーチンを済ませた僕は色々ダメにするソファにどかりと座り込むと、早速新しいビールに手を伸ばす。センパイさんはベッドの端に腰掛けて、被っていたキャップをフリスビーのように投げ捨てると、僕に負けじと袋から缶を取り出してプルタブを引き起こした。
「いえーいかんぱーい」
「かんぱーい」
今日何度目かの乾杯を交わす。しこたま飲んでるはずだが、やっぱり普通のビールに比べるとIPA(インディア・ペール・エール)は一味違う。コンビニでも手に入る青い鬼のラベルの缶を呷れば、強烈な柑橘類の香りにガツンとくる苦味。いくらでも飲めそうだ。
「いやあでも、センパイさんが吐くなんてめずらしいっすね。どしたんすか。女の子になったせいすかね」
「いやー、酔っ払いかたね、かわんないけどぉ、お腹たっぷたぷで入んねえの。悔しいわー。なんだか腹いたいし」
「うんこっすか。出せばまだ飲めるっすね!」
ただのバカふたりが、ベロベロになっている。楽しくてしょうがない。
ベッドに腰掛けたセンパイさんが、三五〇ミリリットルの缶を瞬殺すると、部屋の隅のカラーボックスへフラフラと近づいていく。
「ウイスキーに、切り替えていくぅ」
彼女の手にはウイスキーのボトル——シーバスリーガルのミズナラだ。学生が普段飲みするには少し腰が引ける銘柄だ。
「さっすがセンパイちゃん! 僕にも! くれるんですよね!?」
「モチのロンよ。ああー、あっちいー」
元の位置まで戻ってきた彼女がそう言うと、急にシャツを脱ぎ始めた。
そういえば、この人は家で酒を飲むとすぐパンイチになる癖があった。
それを思い出した僕はサッと酔いが引くべきところだが、あいにく昼間から深酒をしている。
僕にはもう、アルコールの引く場所が残っていなかった。
「やったー! おっぱいだ! 神様ありがとう!」
「俺の裸は高くつくぜ! 飲めー!!」
無事ブラとショーツだけになったセンパイさんから、ウイスキーの瓶をそのまま口に突っ込まれる。熱い液体が喉を焼く感覚が襲う。しかし、豊かな香りが後を追いかけてきた。
なんか微妙にもったいねえ! こういうのはクリアニッカでやれ!
強いアルコール感にむせながら、瓶をもつ彼女の腕を押しのける。しかし、なにかがおかしい。こんなにセンパイさんって押しが弱かったっけ?
まあいいや、目には目を、歯に歯をだ。ハンムラビ法典にもそう書かれている。僕は瓶を奪い取り、彼女にもお見舞いすることにした。瓶が歯にぶつからない程度の、絶妙な力加減でウイスキーを押し付ける。彼女も結構酔いが回ってるのか、見える範囲の肌色が真っ赤に染まっていた。
「うえー! きっつい! ビールビール」
「やっぱチェイサーには、バドワイザーっすよねぇ!」
お互いすっかり酒クズである。
軽めのビールはチェイサー。いいね?
イキった大学生の僕らは積極的に地獄を呼び込む。唸れ肝臓、命を燃やすんだ。
そしてビールを一通り飲みきったセンパイさんは、不敵な笑みを浮かべ、紅白に塗られた缶を握り潰すともう一度ウイスキーを口に含み、ずいっと僕に迫った。とっておきの悪戯を思いついた少女のような、爛々と輝く瞳が迫る。細かいビーズの詰まったソファにもたれかかった僕は、なんとか反応しようにも身動き一つ取れない。
センパイさんが僕に迫る。
とても近い。
すこし、女の子とたばこの混ざった匂いがして。
僕は唇を奪われた。
いや、奪われたというのは気取りすぎているかもしれない。これは大学生の定番、ウイスキーの口移しだ。しかし、喉を焼く熱い液体だけではなく、柔らかく暖かい舌も僕の口内へ侵入してきたのだ。
その瞬間、僕の頭の後ろの方で火花が散る。彼女の、記憶より随分と細くなった指が僕のシャツごと肩を、二の腕をきゅっと掴む。
「んんっ!?」
情けないことに、初めての感覚に僕の下半身は反応してしまった。随分と長く感じた口付けのあと、彼女が名残惜しそうに唇を離す。そして口元を腕で拭い、僕の股間へ手を重ねた。
「うへー、なにこれ、ビンビンじゃん。まことくん、俺でそういうこと考えてたの?」
はあ? 僕が、あんたに、そういうことを? いったいどの口で言ってんだ? この痴女め。
煽られた僕は、反射的に彼女の両手首を掴み、そのまま体格差にまかせ、ベッドへ押し倒していた。
「せ、センパイさんあんたおかしいっすよ、酔っ払ってんすか!? そんなんじゃ、僕本気にしちゃいますよ!」
僕とベッドの間に押さえつけられた、ほとんど裸の彼女がいじらしく歯向かう。
「うるせー童貞やろー! やるならやってみろぉ!」
彼女は、耳の端まで真っ赤にしている。目尻には涙だろうか、何かがきらめいている。
それを目の当たりにした僕の背筋に、ビリビリとした何かが駆け巡った。
「なっ、このやろ、もう知らねえからなっ!」
「……バーカ」
そのあとのことは、よく覚えていない。
****
——意識が戻ってきた。
死ぬほど頭が痛い。まぶた越しに伝わる陽光から、すっかり日が登り始めていることを感じた。
最悪だ。
明らかに飲みすぎた。僕は胃からせり上がって来る不快感に耐えようとするが、耐えれば耐えるほど大きな波が押し寄せる。
つまらない攻防戦の後、口の中に唾液が溢れ出す。限界だ。僕は驚くほど俊敏に起き上がり、トイレへ駆け込んだ。
なんとか便器の蓋を開けた瞬間、堰を切ったように嘔吐する。うまく吐けず、鼻からも吐瀉物を吹き出す。……一晩胃の中で熟成された内容物は強烈だ。二度三度嘔吐を繰り返し、涙がにじむ中、もう金輪際二日酔いは勘弁だ、しかし翌日にはもう忘れているんだろう、などと思考を巡らしていると、膝が陶器製の便器に触れた冷たさに驚いた。
まてよ、なんで僕はパンツ一丁なんだ? 僕に裸で寝る習慣はないぞ。
頭がガンガンする。駄目押しの不快感がこみ上げる。ほとんど胃液だけの嘔吐をした頃、昨晩僕らになにがあったかを思い出した。
震えの止まらない足で洗面所へ向かい、顔をたっぷりの水で洗う。そこらへんのタオルを拝借し、水気を拭き取った。
「いや、まだ勘違いかもしれない」そう鏡の中の僕へ語りかけると、意を決して部屋に戻る。
清潔な朝日が差しこむ部屋、壁際のシングルベッドでは、ショーツ一枚だけを身にまとったセンパイさんが眠っていた。
そして白いシーツのところどころに、血が滲んでいる。
開封されたコンドームの袋が忌々しく散らかっている。
僕は彼女とセックスしてしまった。
**
僕はキッチンへ引き返すと、食器棚から大型のタンブラーをふたつ取り出す。勝手知ったる他人の家だ。そのふたつをミネラルウォーターで満たすと、再び部屋に戻り、テーブルに置いた。彼女を横目で見やると、まだぐっすりと眠っている。胸が露わになっているため、タオルケットをかけてあげた。
「くっそ頭いてえ……」
僕は口内に残る胃液の苦味を噛みしめるように独りごちると、床に脱ぎ散らした衣類からシャツを拾い上げ、もたもたと頭からかぶった。居酒屋とたばこ、こぼしたウイスキーのにおいがする。……臭え。
閉め切ったカーテンの隙間から、梅雨入り直前の強烈な日差しが差し込んでいる。指先でカーテンの隙間を広げると、燦然と輝く新緑が飛び込んできた。
彼女は、季節によって見えるものが違うのだ、この部屋からの景色が気に入っているのだと、いつかの僕に語っていた。そんな窓から差しこむ光の筋ははっきりと熱く、触れれば掴んでしまえそうなほどだった。
僕はそのままソファへ腰をおろし、横になった。ポンコツな僕の頭は昨晩のことを途切れ途切れに再生してきていたが、途方も無い虚無感のような気持ちに押しつぶされ、何も考えられそうになかった。
頼りない意識を掴んだり離したりしていると、スマホのアラームが鳴り響いた。九時のアラームだ。特に予定がなければいつもこの時間に起床しているが、いまだに頭痛はひどく、胸中に充満する吐き気は治りきっていない。今朝方汲んだ水を飲むため、上体を起こす。すっかりぬるくなった水を半分ほど飲み込み、右側のベッドを見た。彼女は少し姿勢を変え、左半身を下に、祈るように組み合わせた両手を枕にして眠っている。
なんて綺麗な顔で眠っているんだろうと考えていると、彼女はゆっくりとまぶたを開けた。
目が合った瞬間、彼女はガバリと起き上がり、そのままの勢いでトイレに飛び込んでいった。ああ、限界だったのね。色々と察した僕も、もそりと立ち上がり、センパイさん用のタンブラーを持ってトイレに向かう。水は減っていないので、口をつけていないのだろう。吐くときは水があったほうが楽だ。僕は、彼女になんて謝ろう、どう償おうと回らない頭で考えながらその後を追った。
「センパイさん、水っす。ここに置いときますね」
トイレの床にへたり込み、便器に顔を突っ込んだ彼女が軽く左手をあげて返事をする。大丈夫、意識ははっきりとしているようだ。念のために持ってきたパーカーを彼女の肩にかける。死ぬほどゲロを吐くときはだいたい寒気も尋常じゃない。これでもほとんど裸でいるよりマシだろう。
苦しそうに便器にしがみつく彼女が痛ましく、側にかがんで小さな背中をさする。パーカー越しに伝わる体温はぼんやりとしていていたたまれない。彼女は震える声で僕に礼を言うと、水を飲んでは戻すを繰り返した。
「ご、ごめん……ありがと……」
苦しそうな呼吸と、震える身体。
「大丈夫ですか? 水、足してきますね」
いつか、以前のセンパイさんが酔いつぶれたのを介抱した事がある。その時も、彼は寒い寒いと呻き、震えていた。しかし、自分より背も高く体格の良い成人男性だ。ある程度吐き出したら、あとは放っておいても勝手に回復していた。
でも今は、僕より小柄な女の子だ。
ひと時でも目を離したら、取り返しのつかないことになるのではないかと、心がざわざわした。
「水持ってきました。具合、どうですか」
タンブラーいっぱいに水を注いで、彼女の元に戻る。便器に突っ伏したままの上半身と、廊下の方まで投げ出した白くてスラリとした足のコントラストが艶かしい。再び背中をさすり始めると、彼女は蚊の鳴くような声で呻いた。
「さむい、さむい、しぬ……」
「寒いですか? もっと服持ってきますか?」
震える背中に熱を伝えようと、手を動かしながら提案すると、彼女は首を横に振って否定した。
「おみずちょうだい……」
彼女は僕の方を見ないで、左手を伸ばして新しい水を求めた。
僕の胸が締め付けられる。
そりゃ、そうだ。僕は人として超えてはいけないラインを超えてしまった。泥酔してたからとか、言い訳にもならない。むしろクソッタレ度が加速する。……もしかしたら、今こうやって触られていることすら嫌なのかもしれない。
かといって、悪寒に震える彼女を見捨てることもできなかった。水を一気に飲み干した彼女は一際大きく震えると、そのほとんどを吐き出した。しかし、それで悪いものが全部出切ったのか、体に熱が戻るのを感じた。
「誠くん、ごめんな……」
彼女が、いつものあだ名ではなく、名前で僕を呼んだ。
「僕の方こそ、本当に、すみませんでした……」
しばらくして、もう大丈夫と告げた彼女の隣に、半分ほど水を注いだタンブラーを置くと、僕は逃げるようにトイレを後にした。
なんとも言えない、淀んだような空気が満ちた部屋に戻ると、僕は力尽きたようにソファへ倒れ込んだ。頭の奥が、己の鼓動に合わせて痛む。脳ミソか、心臓どちらかを抜き取ってしまいたい気分だ。何も考えたくなくなり、ヤケクソ気味に目を閉じた。
どれくらい経っただろうか、気がつくと部屋の外から、トボトボ、といった感じの足音が戻ってきた。どうやら、戦いを終えたらしい。何かをガサゴソと漁る音がすると、声をかけられた。
「水とパーカー、ありがとう。……風呂入ってくる」
随分とか弱い声が、思っていたよりも近くから聞こえた。僕は何を言っていいかわからず、「はい」としか返せない。僕は、一体どうしたら良いのだろう。
ソファにもたれかかった僕の側から、足音が遠ざかっていく。一体どんな風に振る舞えばいいか、見当もつかなかった。
**
浴室から聞こえる、シャワーの水音が僕を眠りに誘おうとした頃、彼女の声がした。
「メコンくーん、ごめーん。クローゼットの下の、黒いビニール袋持って来てー」
センパイさんにしては随分と申し訳なさそうな声色だ。頭痛に耐え、身を起こしクローゼットの方へ目をやると、確かに黒いビニール袋がそのまま床に放ってあった。
「今いきまーす」
ビニール袋を持つ時、中身が見えてしまった。女性用生理用品の諸々である。なるほど。そのまま脱衣所までいくと、バスタオルで前を隠したセンパイが、困り顔で浴室から半身を出していた。シャワーによって体温が戻ったのか、頬やむき出しの肩が紅潮している。僕の胸中に罪悪感と、昨夜の情事が蘇ったが、つとめて平静を装って対応した。
「持って来ましたよ、ハイ。大丈夫っすか」
「あー、うん。サンキュ。いや実は、生理きたみたい……。こんなに早くくるもんなんだな、へへへ……。なんか種類いっぱいあるなこれ」
「ええと、メモが入ってますね。あーなるほど、CMでやってる夜用ってこういうことなんすか。それに、ベンジーちゃんのカッコいいサイン付き……」
「ありがたみがマッハ」
「もうベンジーちゃんの妹分になったらいいんじゃないっすかね」
「自尊心もマッハ」
再び部屋に戻ると、やはり空気が悪い。センパイさんがあがってくるまでに、換気と軽い片付けをしてしまおう。カーテンを開くと、いよいよ光の洪水だ。アルコール漬けの脳みそには眩しすぎて、頭がガンガンする。そのまま窓を開け、網戸の状態で換気を始めた。吹き込む風は、もうすでに夏の匂い。
そして、部屋が明るくなると、惨状が明るみに出た。『光のあるところに影ができる』とはよく言ったもので、脱ぎ捨てられ放題の衣服、ゴミ箱から外れたであろうちり紙、テーブルの上に散らかる空き缶、空き瓶の数々。昨日の僕らはウイスキー飲みきったのか。
軽いめまいを覚えながら、テーブルから片付けを始める。自分たちでやったことだが、散らかりように辟易する。缶と瓶、普通ゴミごとにまとめてゴミ袋へ突っ込んでいった。
一通り片付けが終えたタイミングで、浴室からセンパイさんが戻ってきた。今日はハイネケンの柄のTシャツを着て、下半身にはメッシュ生地のハーフパンツを履いている。
彼女は片付けられた部屋を見ると、風呂上がりのさっぱりとした顔にバツの悪そうな表情を浮かべた。
「うわぁ、ほんと悪い。片付けありがとう……。そうだ、もう着れない服あげるからさ、風呂入ってこいよ。パンツは新品だから! そのシャツとか、めっちゃ酒こぼしたやつっしょ? 全部洗濯しちゃおうぜ!」
彼女はなんだか、ひどく取り乱したようにまくし立て、僕にもう着れなくなった男物の着替えを押し付けてくる。
「うわー! シーツやっば! これも一緒に洗っちゃうかあ? 血って落ちるかなぁ」
センパイは僕と目を合わさず、わたわたと動き出す。僕が手渡された服を持ったまま呆然としてると、ついに背中を押され始めた。
「ほらほらさっさといけ! 残りは俺やっとくから!」
**
僕がシャワーを浴び終え部屋に戻ると、彼女は部屋の隅でパソコンチェアに座り、窓の外を向いてたばこを吸っていた。
「センパイさん、服とシャワー、ありがとうございます」
光の射す窓辺、紫煙をくゆらす後ろ姿に声をかけると、椅子ごとくるりと回って僕と向き合った。逆光気味の彼女の目元が、少しだけ赤く腫れぼったくなっている。
「ん。具合どうよ」
「なんかシャワー浴びたら良くなってきたっす。僕も吸っていいっすか?」
「ん」
僕が昨晩買ったままだったたばこを開封して隣に並ぶと、彼女は僕にライターを差し出してくれた。
無骨なシルバーのジッポーだ。
「あざっす」
手渡されたライターで火をつけると、普段のガスライターでは感じないオイルの匂いが鼻腔を蕩かした。これもまた、馴染み深いセンパイさんのにおいのひとつだ。
無言のまま煙を吸い込み、吐き出す。こういう時、たばこは黙っていても咎められない静かな間を与えてくれる。しばらく無言で、窓の外を眺めた。先に吸っていた彼女が次のたばこを咥えると、火をつける前に口を開く。
「メコンさ……昨日のことどれくらい覚えてる?」
「……その、一回目終わったところくらい、ですかね」
赤面しつつ答える。
「あー、あそこまでか」
センパイはフッと笑うと、たばこに火をつけた。オイルの匂いがして、蓋を閉じる際の金属音が凛と響く。
「やっぱ、この感じだとあの後も、続いたんすよね」
「そうね。俺も結構記憶ねえけど」
自分でも驚くほど綺麗さっぱり記憶が抜け落ちているが、片付けたゴミの一部が、その後を物語っていた。ふと椅子の上であぐらをかいた彼女を見やると、大きなピアスの空いた耳が赤熱していた。
再び沈黙が訪れ、僕らの間に気まずさが満ちる。
「センパイさん。本当に、すみませんでした」
僕は彼女に向き直ると、腰から頭を下げた。僕も焦っていたのだろうか、ともすれば失礼なタイミングで不器用な謝罪をぶつけてしまっていた。
「あわわわ、やめろやめろ。いいんだ、俺も悪かった。いや……全部俺が悪いんだ」
僕の肩に柔らかな手が乗る。
おずおずと顔をあげれば、彼女は俯きがちになって続けた。
「俺さ、急に女になって、マジで訳わかんなくってさ。実は、最初メコンがウチにきた時、目が覚めてからちょっと経ってたんだよ。
ほんと、訳わかんなかった。滅茶苦茶不安で、頭おかしくなりそうだった。そんな時におまえが来てさ、誠くんなら受け入れてくれるんじゃないか、力になってくれるんじゃないかって、ドアを開けたんだ。……実際超安心したよ。あーいつも通りだ、って」
「そうだったんすか……」
沈痛な声音で、彼女の独白が続く。
「だから、その。今まで通り接してくれてるのに、甘えてた。見た目はこんなに変わっちまったけど、おまえは何も変わらずに俺として扱ってくれてさ……。バカみたいに酒飲んでたら、ちょっと悪戯心がな」
「やっぱあれ、悪戯だったんすね」
「悪ぃ。勝手に、冗談としてあしらってくれるって期待してたんだよ。ほんとバカだよ、俺。自分のことしか考えてなかった。普通あんなことされりゃ勃ってもしょうがないよな。ちょっとこの前まで男だったのに忘れてんだ。そんで、チンコ勃ててるのみて、勝手に失望して、あんなこと……」
彼女は、左手で前髪をかき上げ、後悔で顔をくしゃくしゃにしていた。右手の指に挟んだたばこから立ち上る煙だけが唯一、この部屋で動いている。僕がそれに見とれていると、彼女が絞り出すように続けた。
「もう、元にはもどれないって……実感した。内定も取り消されたし、誠くんにひどいことしてしまってさ。だから、俺、学校やめて地元帰るよ。今までありがとな。ほんとうにごめん」
え、なんて? 学校やめる? なんでよ。
ちょっと、まて。展開の速さに耳がキーンとする。というか、地元帰るとか何? いっつも自分だけで全部決めて一人で突っ走って。僕はなんなんだ? 置いてけぼり?
シャワーを浴びて、少しマシになった脳みそが沸騰した。キャパシティーオーバーだった。
「バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!! あんた何自分だけうだうだ言って、一人で気持ちよくなってサヨナラかよ、バーカ!! 僕にもちょっと時間くださいよ! あーもうムカつくムカつく! そうだ、原付借ります! テメエ逃げんなよ!?」
◇◇◇◇
はじめて誠くんが怒るところを見た。
彼は、俺に一番懐いてくれた後輩だった。そんな可愛い後輩が激怒しているところを、今日初めて目の当たりにした。いつも穏やかな彼が、黒縁メガネの下、色白な顔を真っ赤にして怒鳴り散らかしている。その怒声を聞いていると、胸が引き裂かれるように痛くなって、勝手に目が潤んだ。
俺が唖然としていると、彼はズカズカと部屋を後にし、ヘルメットと原付のキーをひったくり玄関から出ていった。
まるで、俺だけが世界から取り残されたみたいだ。
ふと灰皿をみると、吸いかけのたばこが二本、くすぶっている。ゆっくりと立ち上る細い煙が、空気に紛れて消えていった。
「おまえたちも置いてけぼりか」
俺は鼻で笑うと、二本のたばこをもみ消した。外から、走り去る原付の音が聞こえる。部屋に満ちる静寂が耳に痛い。俺はそっと、椅子の上で膝を抱えた。
こころも、からだも、今まで知ることのなかった痛みを訴えている。
「おなか痛い……」
レースのカーテンが、遠慮がちに揺れるのを眺め呟いた。
◆◆◆◆
僕はあの人の原付でスーパーへ向かっている。
「あークッソ腹立つー!! なんなんだよあの人!」
「あんな人に憧れて! 俺は!」
「俺だってわっけわかんねえっての! バーカバーカ!!」
彼女が使っていたフルフェイスのヘルメットの中で、僕はひとしきり喚き散らかした。
今まで飄々としていて、自分なんかが追いつくなんて一生できないと思っていた人が、あんなみみっちい泣き言を漏らすとは思っていなかった。
そんなことを抱え込んでいることに気がつかなかった自分の幼稚さに腹が立った。
お互いに、今まで通りにやっていけると相手に甘え続けていた結果だった。
——この感じで原付乗ってると、漫画や映画じゃ大体事故って死ぬパターンだな。
そう思った。
が、特に何もなくスーパーに着き、買い物を済ませて無事帰還した。人生なんてそんなものなのかもしれない。
「ただいま!」
僕は乱暴に帰宅を告げると、そのままキッチンに立った。すると、部屋のドアがゆっくりと開き、困惑した表情のセンパイさんが顔を出した。
「お、おかえり……」
「今日は! 二日酔いを吹っ飛ばせ! トマトたっぷりお野菜カレーをつくります!!」
僕はスーパーの袋を両手に掲げ宣言した。
僕の趣味の一つに料理がある。気が立った時なんかは、大量のカレーでも拵えるに限る。苛立ったままで刃物を扱うのは危ないし、順序立てて仕事をしている間に精神が落ち着くのだ。
「わ、やったぜ」
彼女の目が輝く。
「センパイお腹いたいんでしょ! 寝てろ!」
僕はついでに買ってきた頭痛生理痛によく効く半分優しさのヤツを投げつけた。
「は、はい……」
うまい具合に箱をキャッチした彼女はしょんぼりと部屋に戻っていった。いつも振り回されてばかりだったから、なんだか新鮮で面白い。まあ、いつまでもこんなにカリカリしてられないので、さっさと調理の準備に移ろう。
キッチンの収納から小さめの鍋を取り出し、冷凍保存している白米と水適量を火にかけ、温まるのを待つ間に買って来た食材を冷蔵庫にしまっていく。程なくすると、白米が解凍され、ふつふつと煮立ってきた。一度火の通り具合を確認すると、鳥だしと食塩で軽く味をつけ、二人分の器に盛る。そこへ種を抜いた梅干しをひとつずつ添えて、出来上がり。
まずは腹ごしらえのおかゆだ。お盆なんて気の利いたものはないので、お行儀は悪いがそのままスプーンを器にぶち込み、足で扉を開けた。
「お腹減ったっしょ。まずはこれ」
「えっ、カレー!?」
うんうん唸っていた彼女がベッドから飛び上がる。
「カレーは夜です」
「夜かぁ」
カレーを期待していたのにおかゆが出てきたのがそんなに嫌なのか、落胆の色を隠さない彼女を見たら、なんだか知らないが肩の力が抜けた。
「僕たち昨日の夜から酒しか飲んでないんですから、まずはなんか入れないと」
彼女を諭してテーブルにつかせる。
「ふええ女子力高ぁい」
「あ、梅干しは僕の実家で漬けたやつなんで、かなりしょっぱいと思います。それでも味薄かったらごま塩あるんで、それで調節して」
実は長い付き合いの中で、キッチン周りには僕の私物が増えていた。このごま塩だって初めは僕が持参したものだ。出会った頃、この人は米すらあまり炊いていなかったのだ。
「ほえー、結婚しよ」
「……それ本気っすか」
「えっいやっ、それは……あれ……? ん? できんのか?」
彼女はいつもの軽口を叩いたつもりだったようだが、どうやら冗談にもならないことに気がつくと、顔を赤くして慌てる。
「センパイまだ酒残ってます? ま、どうぞ召し上がってください」
「お、おう」
「「いただきます」」
そうやって、遅めの朝食を取り始めた。昨日から散々にいじめ抜いた胃に優しい滋味が広がる。梅干しをほぐしながら食べると、思ってたよりかるく平らげてしまいそうだ。
「はぁ……生き返るねこれは」
「簡単なんで、作り方教えますよ。あんた酒飲みなんすから」
「んー、作ってくれないん?」
「センパイ、そういうところっすよ。昨日の今日で、そんなこと言われたら僕どうしたらいいんすか」
僕は手を止め、スプーンを口に運ぶ途中で固まった彼女の間抜け面を眺める。
「あ……。ご、ごめん、反省します」
なんだか逆に照れ臭いが、しょうがない。彼女が言った通り、もう元の関係には戻れないのだ。どうやったって今までと同じではいられない。それに、確信めいた予感でしかないが、センパイさんはこれから女性として生きていかなければならないだろう。何かあるたびにこんなでは僕の寝覚めが悪い。
それでも、できれば、この人が卒業するまでは一緒に遊んでいたいと願う。
「あと、センパイ、学校やめないでください。もちろんサークルも。最後にもっかい渾身の作品見せてくださいよ。もう二年くらいまともなの撮れてないじゃないすか」
「うん……わかった。なんとかやってみる」
「あっ、でも、まずは就活っすか?」
「ギャーやめろー! どうすっかなあ……また髪黒染めしなきゃなあ」
彼女は自慢の金髪を弄びながら毒づく。どうやら美容室で良いトリートメントをしてもらったようで、これまでのようなボサボサではなくなっている。自分でもその手触りが気に入ったのか、手入れや髪型にこだわるようになっていた。
「そういやセンパイって、金髪になんかこだわりあるんすか? ずっとですよね」
「かっこいいじゃん。それだけだよ」
「シンプルっすねー」
この人はいつもこうだった。さも当然のように、事も無げに言い切る。
「そういやさ、なんでさっきから俺呼ぶ時に『さん』抜けてんの?」
「い、いやあ、なんか拍子抜けしちゃって……。あと、なんだかんだ『センパイ』にさん付けって違和感ないすか」
「それは俺も思う。一年の時からややこしいあだ名だなって。でもさ、今じゃ『さん』がついてないとそれはそれで違和感あんのよね。なんか別のない?」
「えー、うーん。じゃあ、
僕は首をひねりながら、彼女を名字で呼んでみた。
「うん。なんか逆に気持ち悪いな」
「クッソー! でも僕だって、もう慣れてますけどメコンってあだ名酷くないすか? 川っすよ、河川、リバー。なんかすごい魚とかいそうじゃないですか」
「いるぞ、メコンオオナマズ。最大で体重三百キロくらいになる」
彼女は大きさを表現したいのか、両腕を横にグッと広げるが、どう考えても長さは足りていないだろう。そんな子供じみた仕草が面白くて、軽く笑いながら返す。
「まーじすか。デカすぎでしょ。こわ」
「じゃあなんだ、誠くんって呼べばいいんか? え? んふふ」
「なんか……すんません……。フフッ」
お互いに笑い出してしまった。次第にふたりの笑い声は大きくなり、息ができないくらいになる。ようやく笑い終わると、なんとか立ち上がって、空いた食器を片付けを始めた。
「俺もなんか手伝うよ」
「簡単なものしかないんで大丈夫っす。というかセンパイ、さんは、体平気なんすか?」
「もう好きに呼べって。体の方はまあまあかな。お腹と股間が少し痛い」
「あー、すみませんっした」
思わずガバリと平身低頭した。
「かまわんよ」
お互い目を合わせると、またへらへらと笑い合った。問題は解決しきってはいないけれど、僕たちはまだ一緒に笑っていられるのが単純に嬉しかった。
****
「何コレうっま! カレーうっま!」
「いやはや、怒りに任せて材料買いすぎちゃって、えげつない量になっちゃいましたね。一週間以上持ちそうで……」
「そうだなー。前みたいにおかわりできないから大変だぞこれ」
センパイさんが僕にスプーンの先を向け咎めた。
お行儀が悪い。
「ある程度は持って帰ります……」
「ウチに食べに来ればいいじゃん」
「いや、でも、そういうのもちょっと控えようかなって」
「……俺はまんざらでもないぞ、ガハハ」
「そういうのって自分で言っていんすかね。あー色気がない」
「二日酔いが治ってその夜にビール飲んでる俺らに色気はないな」
「……それもそっすね」
「「ガハハ」」
こうやって、一緒にご飯を食べていると本当に愉快だ。変わらないことだって、もちろんあるんじゃないかと思える瞬間だった。
食後、彼女はいつものパソコンチェアに腰掛けて、開け放った窓の向こうを眺めながら、うまそうに目を細めてたばこを吸う。その姿を眺めつつ、僕は食器や調理器具の水気を拭きとり、収納していく。そういや、たばこや酒を覚えたのも、全部センパイに憧れてだったなと、感慨に浸った。
食器を拭いたタオルを所定の場所に戻すと、僕もたばこを咥え窓際に並ぶ。
「センパイさん、カレー小分けにして冷蔵庫に入れときましたよ」
「おーありがとうメコンくん」
「結局この感じっすね」
「わかるわー」
コンビニで買った普通の使い捨てライターでたばこに火をつけて、一度大きく煙を吸い込んだ。
「僕、センパイさんに憧れてたばこ吸い始めたんすよね」
「えっマジか。ごめんよ、体に悪いのに」
彼女は気まずそうな顔でこちらを見あげた。
「いいんすよ。かっこいいと思って吸ってるんすから」
「そうかー? でも君俺と一緒じゃないと吸わないじゃん」
「……バレてました?」
「まあね。先輩だからね」
気がつくと僕は、彼女と一緒にいるか、酒の席でしか喫煙しないようになっていた。普段は学校が終わった時くらいしか吸わない。別に気を使っているわけではないが、一人でいるとあまり吸う気にならないのだ。
たばこを吸うタイミングが被ったせいか、短い間が生まれた。そんな無言の僕たちの間を、初夏の少し甘い風が通り抜ける。
「結局、センパイさんが僕の一番の憧れだったんですよ。センパイさんみたいになりたかったんです。たばこ吸って、酒飲んでふざけて、最高の一枚撮りたくって。でも、一緒に遊んだり、勉強したりすればするほど、どうしようもなくセンパイさんにはなれなかったんです。当たり前っすけどね」
「うわあ、なんか色々背負わせちゃってんな俺」
「いいんすいいんす、僕が勝手に背追い込んでるだけだったんで。実際、全部忘れちゃいましたよ。先輩としては敬いますけど、もう神様みたいに見るのはやめました」
「それがいいよ。俺なんてそんなに持ち上げるような人間じゃないぜ。天才でもなんでもないしな」
彼女は頭を左右に振りながら否定する。綺麗に染め直した金髪がばらけて、部屋の明かりにきらめいた。
「今まで通りでいようなんて、お互いどっかしら限界だったんですかねー」
「かもしれねえなあ」
センパイさん自慢の眺望は、木々の隙間から街の灯りが優しく漏れてくるようで、確かにこれは見続けられるな、と思う。
「センパイさんは、どうしてカメラ始めたんすか?」
いままで聞けていなかったことを、なんとなく訪ねてみた。
「どうしてねー。うーんと、俺さー、朝が好きなんだよね。特に夏の朝。高三の夏に部活引退して、友達ん家で初めてオールで酒飲んだんだよ」
彼女は最初っから酒かー、と自分にツッコミを入れつつ続ける。
「三時すぎたあたりからみんな潰れてたんだけど、妙に目が冴えちゃって。酔っ払ってんだけど眠れない感じ、わかるかな。それに、野郎ばっかりで男くせえから、ベランダに出てみたのよ。そしたらさ、夏の朝って、ぼんやりと青っぽい、まだ太陽が出てない時間が長いんだよね」
「あぁ、何と無く分かります」
「外に出た最初の一瞬がさ、甘酸っぱいような、ひんやりした空気で滅茶苦茶きもちよかったんだ。
なんか良いなあって思って、ぼーっと景色を眺めてたの。そしたら、どんどんいろんな音とか色、においがさ、わかってくるんだよね。黒っぽい丘の稜線を削った道路にさ、車のヘッドライトが光って、誰かが確実な速度でどこかに向かって走ってくし、名前も知らない鳥が裏の森で鳴きだすんだよ。住宅街のどこかから、郵便のバイクのエンジン音と、ギアを切り替える音が聞こえてきてさ。交差点にぼんやり赤いテールランプが現れたと思ったらまた角を曲がって見えなくなって。その間にも空気の重さっていうのかな? 匂いとか気配が、だんだん夜明けに向かって力を蓄えてるみたいなんだよ」
身振り手振りを交え語った彼女がたばこを一口吸う。昔話のその場所へ意識を飛ばしているのか、目を細める。
「そんで、山の向こうからようやく太陽が顔を出すんだって時に、一気に世界へ色が戻ってくるんだよ、これマジで。全部にブルーを乗算したような景色から、バババってキラキラすんの。コレはやばいと思って、とっさにスマホのカメラで撮ったら一ミリも感じたことが残ってなくてマジで笑った。
それからかなー。カメラであの時の瞬間を誰かに伝えたいって思ったのは。まあ、どんなに頑張ってもあの時の自分の目で見たものには勝ててないんだけどさー」
センパイさんは、随分と小さくなった背を伸ばしながら言い切った。昔を慈しむように煙を吐き出し、デスクに置いていたビールの缶を一口呷った。
満足げに微笑む彼女の視線の先を改めて追うと、ある一つのことに気が付いた。
「あの、僕が一年の時に見た、センパイさんの作品って、ここからの景色ですか?」
「そうだねー。二年に上がる時、何と無く音楽かけてさ、レンズのメンテしてたときだっけな。試しに何か撮ろうかなって思ってたら、目の前の木が芽吹く準備をしててさ、おー春がくるなー、風の匂いも変わってきたなーって思いながら撮ったんだよ」
あまりになんて事のない撮影秘話だったが、全てが腑に落ちた。
「やっぱ……センパイさんは天才っすね。僕、その作品見た時、全部わかったんですよ。近所の公園で遊ぶ子供の声とか、まだ冷たい風に混ざる春の匂いとか。ちょっとねむい感じの曇り空だけど、なんか新しいことが始まりそうな感じとか」
「……そっかー。伝わってくれてたんだー。よくわかったねえ。君には伝わったんだなぁ……」
「いやあ……なんだかんだセンパイさんとずっと遊んでたのに、最後の年にようやく気づくなんて、全然ダメダメっすよ……」
なんだか、とてつもなくしんみりしてしまった。青臭い自分語りの応酬に、お互い照れ臭いのか、無心で煙を吸って吐いてを繰り返した。
「あのさ、誠くんに訊きたいことがあるんだけど」
「なんすか、急に改まって」
センパイさんが、僕のことを名前で呼ぶ。そういえば、女性になってから、僕のことを名前で呼ぶことが増えたような気がするが、どういう風の吹き回しだろう。
「俺ってさ、気持ち悪くない? 外側と中身が不釣り合いというか、ちぐはぐというか。正直、自分がよく分かんねえんだよね、いろいろ。それでさあ、こういうの、相談できるのって、誠くんぐらいしかいなくて……」
彼女は、少し疲れたように「意外っしょ?」と笑いながらそう言った。
「センパイさんは、センパイさんっすよ……」
悲しいかな、僕はヘタレだ。こんな当たり障りのない言葉なんか欲しくないと、頭では分かっている。分かっているが、そのほかになんて言えばいいのか、想像力が働かなかった。
そんな僕の回答に思うところがあるのか、チェアの上の彼女が身じろいだ。チェアから足を下ろすと、少しだけ、キャスターを転がして僕に近寄る。
「俺、おまえのこと、すげーいい後輩だと思ってる。こんなことになっても助けてくれて、ほんといいヤツだよおまえ。
実はさ、俺こんな見た目だから軽くヤレるとか、下心丸出しのやつも結構いたんだよ。あとは、急に女になったことで気味悪がって離れてくやつとかさ。俺の四年間の人間関係、ほとんどダメになって、マジ笑えねえ……。そう思うと、やっぱおまえすげえなって。あーダメだ、うまくまとまんない」
今にも泣き出しそうな表情で、彼女は新しいたばこを咥えた。しかし、ライターのヘソが曲がってしまったのか、弱々しい指遣いで何度も火打ち石を擦っている。ようやく火がつくと、大きく息を吸い込んで、僕を見上げて言った。
「おまえはどう? 俺といて、なんか嫌なこととかないか?」
僕を見上げる彼女の大きな瞳が、不安げに揺れていた。
「僕は……センパイさんと一緒が良いです。嫌なことなんて、一つもありません」
なんとかそれだけ絞り出した。思わず目が泳ぎまくる。この後、何を言ったらいいんだ? 僕は、経験値が足りないんだ。狼狽えまくった挙句、どこかに答えが落ちていないかと、窓の外に視線を戻した。あまりの情けなさに、気が滅入る。そんな、クソダサい僕の視界の隅で、まだ新しいたばこをもみ消したセンパイさんが、すっくと立ち上がるのを感じた。
そのコンマ数秒後、僕の背中へ彼女が物理的に突っ込んできた。
「エフッ」
密着したところから彼女の体温を感じる。展開が理解できず、目が回って心臓吐きそう。
「ほんとうに、昨日はごめん! ちょっと、順番、間違えたけどさ、お、俺……」
僕の背中越し、彼女のぐずついた声が聞こえる。そして、貰い物のシャツの両袖を掴んだ細い指先が震えているのに、今更気が付いた。
「誠くんのこと、好きだ」
背中に、湿り気を感じる。この一言に、どれだけの勇気が詰まっているのだろう。所々しゃくりあげながら、嗚咽まじりの告白は続く。
「君の、気持ちを聞かないまま、あんなことして、本当にごめん。こんな……ずるくてアホな俺でよかったら、これからも、一緒にいてほしい……」
あっあっあー。
いやもう、既成事実あるし、僕もさっき『一緒がいい』とか言っちゃったし。逃げたい訳じゃないけど逃げ場がない。いやむしろ最近センパイさんみたいな人と付き合えたら楽しいんだろうなあとか思ったり思わなかったり? 鯔のつまり願ったり叶ったり? 正直この一ヶ月ほど、気が気じゃなかったりした。
だってさー、初日にこの人のおっぱい触っちゃってんだよ僕。いない歴年齢舐めんなよ、死ぬほど拗らせてる上にクソチョロいんだぞ。意識してねえわけねえだろ。あーもういいよ、僕もぶちまけるよ。
「あ、あの、センパイさん。あ、いや、ま、真輝さん……」
「……なに?」
「ぼ、僕、金髪ピアスとかちょっとやんちゃっぽい女の子、めっちゃタイプなんですよね実は。ウェへへへ……」
「……知ってた」
「マジすか……。えっと、その。こちらこそ、僕でよかったら、よろしくお願いします」
その途端、彼女の手が袖から離れ、僕の体の前に回された。
完全に密着した状態になって、僕の心臓がヤバげなリズムを奏で始める。
ウン! 死にそう!
****
「おーい誠くん、起きろー。今日卒業式だろー」
春眠暁をなんたら。あいも変わらず深酒をした翌日、僕のまどろみはめちゃんこ深い。
起床を促す声にうーんとかああーとか生返事を繰り返していると、だんだん遠慮がなくなってきた。ユッサユッサと肩を揺すられ、色々出ちゃいそうになる。
「センパイさーん、もっと優しく……」
「随分と懐かしい呼び方するなあ」
「んん、おはようございます、真輝さん。……今何時すか?」
観念した僕が目をこすりながら起き上がると、パンツスーツをパキッと着こなした真輝さんが、出勤の準備を整えている。
「安心しなー、まだ八時だから。あとこれ、ベンジーちゃんに渡して。グレッチのぬいぐるみ。会社の人からもらった」
「グレッチのぬいぐるみ……」
寝ぼけ眼の僕に、赤いギターのぬいぐるみが手渡された。なにこれ、どこで売ってんの。もしかしてハンドメイド……?
戸惑いつつも、真輝さんを見送るべく僕は寝床から這い出した。ここ数日追いコンや卒業旅行で疲労が溜まった体に、バチクソ快晴の青空が眩しい。
「そいじゃ、私もう行くから、あんま飲みすぎんなよ。帰ったらお見舞いしてやるぜ」
学生時代とは打って変わって、落ち着いた茶髪のショートカットに、控えめなピアス。それでも、何か企んでいるような子供っぽい瞳は健在で、僕はそんな彼女のままでいて欲しいと願う。
僕の学生生活は今日で終わりだけど、この人と一緒なら、これから先もまだまだ楽しいことが待ってるんじゃないかと予感した。
「行ってきまーす」
「はあい。行ってらっしゃい。気をつけて」
玄関から彼女を見送ると、ずいぶんと風も暖かくなってきたことに気が付いた。今日はコートもいらないだろう。
僕は部屋に戻ると、四年前に見た写真によく似たアングルで切り取られた景色を眺める。少しアイレベルが高いのはここが地上三階だからだろうか。僕はいちど背伸びをすると、古いニコンのカメラで景色をファインダーに収めてみた。
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