朝起きたらTSしてた俺が後輩の童貞を奪う話
あー。
なんだ……。
ドチャクソ頭痛い。気持ちわるい。
つーか、身体中クッソ痛え。あれか、寝落ちしたなこりゃ。
確か——。
確か、暇すぎてクソ映画耐久レースやりながら酒飲んでたんだよなぁ。映画のクソさが飲めば飲むほど面白くなるから、歯止めが効かなくなって……。
いやしかし、ガチ寝してしまうとは不覚。今何時よ。クッソ起きるのだるいわ。
悪あがきだけど、できるだけゆっくり目を開けた。
——めっちゃ晴れてるやん?
カーテンから差し込む光がやばいくらい強い。こんな俺でも、酒飲んで寝落ちして次の日がバッキバキにいい天気だと少しはヘコむ。なんか、この地球上生きとし生けるもの全てに申し訳ない気がして。
俺は基本的に横着マンなので、視線だけを動かして状況を把握しようとした。やっぱり、俺をダメにするソファに埋もれたまま寝落ちしてたみたいだ。身体の痛みは変な姿勢で寝ていたからだろう。横目で壁掛け時計を見やると、ラッキーなことにまだ午前十時を回った程度だった。これが昼過ぎだと精神ダメージにバフが入る。
「あぁー喉乾いた……」
おん?
なんだぁ、今の声。誰の声だよ。
一人の部屋から聞きなれない女の声がするとか、ただのホラーだろ。ちょっとだけ、ちょっとだけそういうの苦手な俺は、上半身を起こして部屋中をぐるりと勢いよく見渡した。
——パサリ。
俺の顔に、何かが当たった。
「おわっ!?」
なんだなんだなんだ!? 俺そういうの苦手って言っただろ! なんだよ、物理と音声で畳み掛けるとか4DXかよ!
……いや、顔に当たった何かは、自分の髪の毛だった。うん。肩まで届く髪の毛を手で持ち上げれば、ブリーチとカラーを繰り返してズタボロのキューティクルがテメエの髪だと主張している。しかし、解せないことが一つある。
俺、決してロン毛なんかじゃない。
「俺の髪ー? マジでぇ……?」
しかも、この声、どうやら俺のらしい。いや、まあ、この部屋俺一人だし。ぶっちゃけ俺の喉から出てる自覚あったし。
これは、笑うしかないね。
「はっはっは……ウッソだろぉ?」
妙に力の入らない膝をぶっ叩いて、気合いでよろよろと立ち上がった。すると、目線が以前よりだいぶ低いことに気が付いた。どうやら、理屈はわからないが背も縮んでいるらしい。
なんとなく状況を理解し始めたせいか、さっきから身体中に、脂汗が噴き出している。普通なら絶対にありえないようなことが起こっているという、行き場のない焦りが胸を塗りつぶしていった。
そんな俺の精神状態を反映してか、カーテンを締め切った部屋がいつもより暗く感じた。小さい頃、学校で散々怒られた後の、薄暗い廊下を思い出す。
乾いた喉が痙攣する。
背が縮んだせいで歩きにくい体をなんとか制御して、埃をかぶった姿見の前にたどり着く。俺は、よくわからない義務感のような気持ちに突き動かされ、鏡を覗き込んだ。
そこには、見知らぬ女が映っていた。
量販店で買った安物の鏡は、無遠慮に事実を俺に突きつける。髪が伸びて、生え際が黒くなった金髪に、拡張したピアス。驚きの形に固まった顔のパーツの輪郭や黒子の位置、ありとあらゆるものにかつての自分を感じる。
この女は、確実に、俺自身だ……。
そう認識した途端、増殖を続けていた不安や不快感といった、負の感情が膨れ上がり、その場にへたり込んでしまった。腰が砕けるって、こんな感じなんだろうか。鏡の中で、女になった俺がぺたりと床に座る。シャツの裾から覗く太ももが、白くまぶしい。
指先が痺れたように、力が入らない。
「ウソ、だろ? そんな、女になるって、どういうことだよ……」
あまりに現実離れした現実。何かを考えなければいけないような気がするが、かえって何も考えられない。ゾワゾワ、イガイガする不安だけが満ちて、鼻の奥がツンとする。
どうしよう、どうすればいい? これから俺は、どうすればいいんだ?
大学は、友人は……家族は? こんな俺を、俺だと、
バカじゃないの? 人間は魚じゃない、自由に性別を変えられる訳がない。当たり前のことなのに、俺は、その当たり前じゃないナニかになってしまった……?
途方も無い不安に押しつぶされそうになって、喉に酸っぱいものがこみ上げる。心臓が握りつぶされるように痛くて、息ができない。無理に呼吸をしようとするから、喉がびゅうびゅう鳴って、胃液のようなものが逆流するのを感じた。
(なんで俺が、なんでこんな、訳わかんねぇ……。どうして、どうしてだ?)
鏡の前、頭を抱えガタガタ震える。そんな、もうこのまま泣き出してしまいそうだというタイミングで、部屋の呼び鈴が鳴った。
「ひっ……」
インターフォンのマイクが、外の音をこの部屋に届ける。チープな音質のスピーカーから、聞きなれた声が出力された。
『センパイさーん、あーそびーましょー』
この声は、サークルの後輩のメコンの声だ。
彼は一つ年下の後輩で、俺にとてもよく懐いている。それを抜きにしても、驚くほど馬が合いまくるので何かあるとすぐ一緒に遊んでいた。あまりに四六時中遊んでばかりいたせいか、前の彼女から「私より後輩くんの方が好きなんでしょ」とフラれた上に、俺がバイだなんてありもしない疑惑をふっかけられてしまった。確かに、恋人ほったらかして後輩とばかり遊んでたらフラれてもしょうがない。
でもなあ、ぶっちゃけ話合わなかったし、デートも退屈だった。顔は好みだけど、常に一緒に居たいとは思えなかった。ま、おっぱいはデカかったけどな。
そんな最低なことを考えていると、なんとか冷静さが戻ってきた。
そうだ、俺は彼の先輩で、彼はこんな俺をとてつもなく慕ってくれている。今まで培ってきた関係や、役割が、俺の心を落ち着かせてくれた——きっと彼なら、俺だとわかってくれるはずだと。なぜだか、根拠のない確信のようなものを抱いていた。
俺は震える手で両頬をパチンと叩くと、気合いを入れて立ち上がった。
いつもどおり、いつもどおり。
それを心がければ分かってくれるはずだと、自分に言い聞かせる。
薄暗い廊下。その大した長さはない廊下の先、途方もなく遠く感じるドア。それを開ければ、きっといつもの冴えないメガネ君がいる。俺は藁にもすがる思いでドアを開け放った。
「うおぉーメコンじゃん。どした。まあ入れよ」
まあ、ちょっとテンパっておっぱい揉ませたのは悪かったよ。悪ノリした。
◆◆◆◆
やあん。俺、どうしよう。
内定バイバイしちゃった……。俺もう就活したくないよお……。
つらみがふかい。
さっきまでノリノリでベンジーちゃんにメイクしてもらってたのに、こんな仕打ちが待ってるなんて聞いてねえ。ただただクソじゃーん。ちゃんと病院も行って裏が取れてるのに内定取り消しとかほんと横暴だ。もう怒りすら湧いてこねえ……。
穴場の喫煙所のベンチにてアイスのようにとろけていく俺。ここ日陰でひんやりしてるからマシだけど、こんなメンタルで梅雨入り直前の夏日の日向に出たら秒で蒸発しそうだ。ああー、死ぬぅ。ダラダラと口から出ていくたばこの煙を眺めてると、なんか魂吐き出してるみたいだと思った。いっそ吐き出させてくれよ。
……あと一本吸ったら帰ろ。なんか疲れたし、酒飲んで寝よ。めんどくさいことは、全部明日の俺にお任せ。俺ちゃんがんばえー。負けるなぷいきゅあー。
心の中で明日の自分へエールを送り、半分くらい白目を向いていると、すぐ脇の階段を降りてくる足音が聞こえてきた。やっべ油断しすぎた。でももう遅い。そこの階段降りてる途中からここ丸見えなのよね。つまりバチコンみられたわけだ、放心状態の俺を。
そして、半分白目を戻して来訪者を見やると、その人物はメコンこと誠くんだった。去年俺が誕プレであげたタイダイ染めのTシャツに、膝上丈のサファリショーツを合わせて、クタクタのバケットハットを被った真夏のような装いだ。ただ、赤いコンバースのワンスターと、そこから覗く白いクルーソックスが全体をちぐはぐにしてしまっていた。
ああーもう。下半身はいいのになんでそこでド派手なシャツ着ちゃうかなあ。お気に入りなのはわかるけど、普通に無地Tとか着ときなよ。やっぱ俺が見立ててやったほうがいいのかねえ。
ふと、さっきまでのサークル室での出来事が脳裏に蘇った。
**
金髪ショートボブの俺と、毛先を緑に染めたベンジーちゃんで鏡を覗き込んでいるせいで、色味がやかましい。
「センパイさんって、メコンさんのこと好きすぎですよねー」
「おー、あいつめっちゃ良いやつだかんねえ。忠犬感あるよな」
「えぇー、犬扱いっすかぁ? でもセンパイさんも満更じゃないのでは?」
ベンジーちゃん、なんのことかな?
「いやいやないない、ただの後輩だって、後輩。なんだったらベンジーちゃん今度俺とデート行く?」
「んふー。そうですねえ、行きますかぁ」
ああーやりにくい。なんていうんだろう、女の勘ってやつなのかね。俺は後天的乙女だからそこらへん未実装なんですよ。仕様外なんですぅ。
俺が女になって以来、サークルの後輩であるベンジーちゃんにレディの嗜みをレクチャーしてもらっていた。女物の服や下着を着ることへの抵抗は特になかったけど、メイクだったり立ち振る舞いだったりを自分だけで身に付けるのは難しい。今もメイクの手ほどきをしてくれてる彼女は、喜び勇んで俺に協力してくれた。
あと、彼女は自称サブカルクソ女なだけあって、急に女になった俺を軽く受け入れてくれた。……のはありがたいが、ただちょっと、恋愛脳というか、そういうのに首を突っ込みたがるきらいがある。すんません恋愛脳の仕様書ってありますか? 俺そういうのよくわかんねえよ。なんでいつも通りに接してるつもりなのにバレバレなん?
確かにさあ、少なからず思ってることはあるよ。こんな俺を真っ先に理解して、支えてくれた恩もあるし。……誰とは言わないけど。
「——は何色が好きですか? センパイさん?」
「……あ、ごめん、ぼーっとしてた。リップの色だっけ?」
「そうっす。私的には、センパイさん肌白いし、発色いい赤系似合うと思うんですよねえ」
「赤かあ、嫌いじゃないけどちょっとキツくない? もっと淡い色味からじゃだめか?」
なんか、女性ビギナーがいきなり真っ赤な口紅とか、ハードル高くない? 心構えというか、色々あるじゃん。ねえ。
「そうですねえ、といっても私もそんな持ってないんで、これとかどうでしょ」
そう言って彼女が新しいリップを取り出した。
「ピンク? ピンクかぁ」
「そこまで色きつくないですし、これ一本だけでも結構グロス感あって可愛いですよ。ただ、やっぱりセンパイさんには濃い色の方が似合うと思うんですよねぇー」
ベンジーちゃんが俺の服と顔を交互に見て、納得するように頷いた。
今日の俺はゆったりサイズのボウリングシャツに、ダメージ加工の入った太めのジーンズを履いている。単位も足りているから、サークルか研究室くらいしか大学に来る必要がないので、基本的に楽でゆるいコーデばかりだった。今日はそこにベースボールキャップを被った、殊更ボーイッシュな感じなので、確かに濃い赤のリップの方が似合うだろうと思う。
でもなぁ、ちょっと、狙いすぎてない?
いや、ピンクはピンクであざといか?
俺は、この短い間に激変した人間関係を思い出すと、つい憂鬱げなため息をついてしまった。
「まあ、今日は好きな色で試してみますか」
そんな俺の心境を汲んでか、ベンジーちゃんの声音が優しいものになる。
「お、うん。了解」
そんな感じで、一通りメイクのやり方を教わった。こんな風にメモ取りながら何かをするのも久しぶりで、最後らへんは普通に楽しくて自分からいろいろ質問をしたりした。
「いや、マジでメイクすると人間変わるよなあ」
「センパイさんめっちゃ可愛いっす! これならメコンさん振り向いてくれますよ!」
「んなー。なぁんでそうなるかなぁ」
「だって今のセンパイさん、メコンさんの理想のタイプじゃないですか」
「んあー、それはたまたまっしょ? つーかそれ、みんな知ってるけど本人隠してるつもりなのウケるよね。彼ヤンキーとかマジで苦手だし」
「ほんとヘタレメガネ君ですよねぇ」
「君入部してきた時彼ビビってたからね、
「男だった時のセンパイさんの方が見た目イカツイのに何言ってんだって感じですよぉ」
「だよなあ」
机に置いた鏡の中、メイクを終えた俺の顔を眺める。こうしてみると、本当に女になってしまったんだなと感慨深い。まあ、顔の出来は悪くはないんじゃないかな、と我ながら思う。そして頭によぎるのは、とある後輩のこと。
彼は、ぶっ倒れていた俺を心配して駆けつけてくれた上に、急に女になったことを信じてくれた。それに、女になったせいで、どうしても避けられなかった人間関係の崩壊に打ちひしがれてる中、彼は努めてこれまでと変わらない態度で接してくれた。正直、心の底から安心した。
そして、俺はクソチョロガールになっていたようだ。
ベンジーちゃんに言われるまでもなく、俺は、メコン——誠くん——のことが気になっていた。……ただ、たぶんこれは良い感情じゃない。たっぷりと依存心も含まれているし、彼以外にいないという逃げのような気持ちもある。
でも、今の俺が心底安らげる場所は、数少ない。
大学では好奇の目に晒されて、街をゆけば外面を繕わざるを得ない。
卑怯極まりないが、彼の誠意に甘えている時が最も心安らいだ。もっと、一緒に過ごしたい。もっと、彼の近くにいたい。もっと、彼を独り占めしたい。気がつけば、そんな自分勝手な願望が俺の心に根を張っていた。
しかし、彼にこの想いを告げることは叶わないとも思っていた。
——元同性から好意を向けられるなんて、気持ち悪いだろ。
それに、もしも俺が一線を超えたら、彼の努力を裏切ることになる。
そうだとわかっているのに、ベンジーちゃんにメイクをしてもらったり、もうやめようと思っていた金髪を染め直したりしている俺はバカなんだろうか。
さっきベンジーちゃんと話した通り、誠くんは自身の見た目に反して派手な女性がタイプだ。いつだったか居酒屋でベロベロに酔っ払った誠くんが、その場で仲良くなったインド人へ、エロゲーのギャル・ビッチ系ヒロインについて熱弁をふるっていたことがある。他にも、サークルの飲み会にて性癖を演説調に暴露していたこともある。彼は、酔っ払うと悪い方向で饒舌になるタイプなのだ。そのため、彼の好みの女性像は、サークルメンバーに広く知れ渡っている。
図らずしも彼の好みど真ん中になってしまった俺は、すぐに髪を黒に戻して、ピアスも普通のに——残念ながら拡張した分は元に戻らないけど——するべきだった。でも俺は、また、派手な色に染め直してしまった。
(誠くん、赤の方が好きかな……)
そんなことを考えていると、ジーンズのポケットでスマホが震えた。
「お、電話だ。……内定先から? ごめん、ちょっち出てくる」
「りょーかいです」
俺はベンジーちゃんに断りを一言入れると、席を立って電話に出た。
**
「センパイさん……。どしたんすか、顔死んでますよ」
「おー、誠くんじゃあないか。ヘイラッシャイ。聞いてくれるかい?」
「まあ、いっすよ」
俺の隣にやってきた誠くんに、これ幸いと先ほどの悲劇を語った。
いつもと同じような会話と距離感。安心するけど、少しちくりともする。そして、会話の途中、彼が俺を漠然と眺めていることに気が付いた。
「なんだよぉ、もしかして惚れちゃった?」
いいんだよ惚れちゃって?
「い、いやあ滅相もない。というかセンパイさん化粧してます?」
たっはー、トゲトゲな否定。これは調子乗った罰ですわ……。
「さっきサ室行ったらさ、ベンジーちゃんに襲われちゃって……」
わかりやすくいじけて、捻くれた答え方をしてしまった。実際には襲われてなんかいない。俺から彼女に頼んだんだよ。必要な嗜みだっていうのと、ワンチャン君に振り向いてもらえるかもなんて、打算的な考えでさぁ……。
何故か素直に接することができなくて、俄然酒が飲みたくなってきた。
「なんか疲れたわー。メコンくんはこれからどうすんの? ウチくる?」
俺はいつもの感じを装って、彼を部屋に誘う。宅飲みか、適当なところに飲みに誘う腹積もりだ。
「いや、ちょっとサークルに顔だして来ます。来月の展示会のやつ現像したいんで。終わったら行きます」
「あーそういえばそんな時期か。俺のやつまた選ばれないんだろうなぁ」
ここ最近カメラどころじゃなくてすっかり失念していた。あちゃー、やってしまったと凹んだのも一瞬、現像が終わったら来てくれるらしい。勝ったな!
彼と別れ一足先に部屋に戻った俺は、わちゃわちゃと部屋の掃除を始めた。
「やべえよ部屋めっちゃ散らかってた!」
まあ、付け焼刃だってのは、知ってる……。
女になっただけで家事が上手くなるわけないでしょうが。ただせめて散らかった着替えとか壊滅的なのだけは片付けたい。
「ん!? おまえこんなところにいたのか!」
行方不明になっていたと思っていたショーツがビーズソファの下から出て来た。
んんん! 誠くんサ室行ってて助かったぜ!!
あーやだやだやだ。マジで俺滑稽だわ。二律背反、自分の想いに板挟み。クソかよ、恋する乙女かよ。ちくしょうだいたい合ってんな。クソー、無駄にそわそわする。緊張してんのか、腹痛えし。最近ストレスのせいか多いんだよ腹痛。
しゃーない! 酒飲んでごまかすか!! 百薬の長とか言うしね!!!
****
とてもたのしい。
部屋でビール飲んで、居酒屋でも飲む。今日はしこたま飲むぞ。好きな人と一緒に。たまんねえなオイ! なんかもうとっても上機嫌! サヨナラした内定なんて気にしない! あんなクソ企業こっちから願い下げだい!
そんな感じで、行きつけの居酒屋の、割とよく通される席に到着。サクッと注文と年確済ませて一服一服。やっぱラッキーはソフトパッケに限る。パッケージの底をデコピンすると、うまい具合に一本飛び出てきた。そのまま野菜ジュースのストローみたいに咥えて抜き出して、愛用のジッポーの石を擦る。
……あー。タバコうっま。
ほんとタバコって嗜好品だよな。同じ銘柄でも死ぬほど美味いときと死ぬほど不味いときがあんの。さっきの喫煙所で吸ったのとかゲロクソマズだったもんなあ。ま、そんな時のタバコも嫌いじゃないけどさ。
「……もしかして攻撃表示のほうがよかったかな」
「守備表示で正解だと思いますよ」
「やっぱり?」
「あおり運転は犯罪っすから」
「「ガハハ」」
うわ、たっのし。
こんな感じで、ずっと遊んでたいわ。
叶うはずがないと分かりきった戯言を心の中で転がしていると、向かいの席に座った誠くんがタバコを咥えたままポケットというポケットをまさぐっている。
お、これはライター忘れたな。言ってくれればすぐ貸すのに。往生際の悪いヤツめ。
そこで、ふとイタズラというか、好奇心が鎌首をもたげた。アレやってみよう。そう思うと、胸が少し高鳴る。
テーブル越しに上半身を乗り出して、顔を近づけた。
シガーキスの構えだ。
「火ィかしてやんよ」
俺の声に反応した彼が顔をあげて、レンズの奥、色の薄い鳶色の瞳と目があう。
「あざっ……す」
素っ頓狂な返事と間抜け面。くっつきあったタバコの先端。
——は? 顔ちっか。
……早く、吸えよ。火をつけろ。早よせえ! ニヤつくぞオラ!
完全に自業自得だけど、焦ってアイコンタクトを出すと、意味を理解した彼がタバコをふかす。やがてしっかりと火種が燃え移ると、俺から身を戻した。
「あ、ありがとうございます……」
「これやってみたかったんだよねー! 男同士でやってもムサいしさ、今がチャンスかと思って!」
ヤッベーッ!! 思ったより顔近かったわ! バカ! 俺のバカ! バカチン! 頭おかしくなるかと思ったわ! あー、墓穴墓穴。漫画の真似なんかすんじゃなかった。これやばいわ。胸がキューンてなるわ……。心臓に悪いわ……。
「たっ確かにそうっすね……へへ……」
「ハーイ生ふたつお待ち! こちら本日のお通しでーす!!」
先ほどの店員さんがなんか空元気でビールをもってきた。
うん、ごめんなさい。でも良いもん見れました。
**
「だからあ、なんでみんなセンパイさんのすごさが分かんないんすかね! 僕ね、このサークル入ったのセンパイさんの作品にあこがれて入ったんすよ! それなのにほかのみんなぜんっぜんセンパイさんの作品の良さがわかってない。とくにあのデブ、自分がボンボンで機材いいからって調子乗ってんすよ」
いつも通り、酔っ払って饒舌になった誠くんが、めのまえで管を巻いている。顔をまっかにして、頬杖ついて、すこし恥ずかしいのか、わざと視線をはずして。
そんなに褒めそやしてくれるとむずむずするが、できればちゃんとこっちを見て言って欲しい。……贅沢かね。
ま、痘痕も靨。こんな彼も可愛らしい。
「ああー誠くんかわいいねえそうやって褒めてくれるの君だけだよほんとかわいいちゃんだなあ! ほらおビールお飲み」
照れ隠しで、空になっていた彼のグラスに瓶ビールを注ぐ。
ただ、ちょっと今気持ち悪い。端的に言えば吐きそう。
「もうほんと最高なんすよお。ほんと、最アンド高。僕なんかじゃうんこマンだもん」
「そりゃうんこに失礼だろ」
あ、今の返事、少し投げやりになってしまったかな。
「あーそうだ、センパイさん。僕アイパッド買ったんすよ。そんでライトルーム入れてみました」
全っ然気にしてない感じで、カバンからタブレットを取り出した。うっわーなんかムカつくな、俺の心配かえせ。
「マジでー? どんな感じー?」
とりあえず、興味を持ったフリで手を伸ばすと、彼はそれを手渡してきた。なんだっけ、ライトルームだっけ。いやあ、俺、情報系だけどこういうアプリケーションの操作は得意でもなんでもないんだよなあ。というか、あんま加工とか現像にこだわらないタイプだから、なんとも言えない。そうだ、カメラロールの中身みてやろ。
俺は勝手にアプリを切り替えると、保存された画像を見ていく。
あちゃー、見事に街並みとかそういうのばっか。たしか彼、俺がまぐれで撮った作品に影響受けちゃったんだっけ。なんだかなあ、俺より技術も知識もあるんだから、もっと色々試せばいいのに。そんなことを思いながら、画面をスライドさせていく。画面の中で、流れ去っていく画像たち。そんな中、黄色っぽいサムネイルが一枚。ふと気になって、そこで指を止めた。
画面に広がった写真には、破顔した二人の男が写っている。向こう側が見えるくらいに拡張した耳たぶのピアスと金の短髪が輩臭い男。衝撃でずれたのか、メガネが変な角度になっている黒髪の地味な男。チグハグな二人が、酒で顔を赤くして、肩を組んで写っている。
いつだったか、サークルの飲み会のあと、ふざけて撮った自撮りだった。
「いや、これ俺には難しそうでむりだな!」
懐かしくて、すこし悲しくて。俺は彼にタブレットを押し付けるように返した。
「ぜったい嘘だー。……たばこもないし、お会計しますー?」
「あー、飲み足りねえし、ウチで飲むか!」
それでも、まだ誠くんとさよならしたくなくて、咄嗟に飲み直しを提案してしまう。
「マジっすかー。うーん……オッケーでーす!!」
「すみませーん、お会計おねがいします! メコンちゃん、これで会計頼むわ。俺ちょっとおトイレ」
もう、やばいかも。色々頭がぐちゃっとして、吐き気がひどい。なんとか笑顔を繕って、席を立った。
「了解っすーお気をつけてー」
「あぁー世界がまわるぅー」
トイレの個室に逃げ込んだ俺は、すぐさま胃の中身を吐き出した。それだけで、飲みすぎた時の気持ち悪さはすぐにマシになった。でも、頭のモヤモヤやぐちゃぐちゃは消えてくれない。俺は、頼むから全部いなくなってくれと何かに願いながら、指を喉に突っ込む。ぞわぞわ寒気のようなものが背骨を貫いて、胃が痙攣する。
とても苦しい。涙がでる。
わからなくなる。自分が、何なのか。
苦しくてしょうがなかった。
****
部屋に帰って、飲み直すと、すごい酔いが回ってきた。
なんかもう自己嫌悪とかどうでもいい。アルコール万歳。アルコールだけが世界を救う。おれまことくんと飲めればしあわせ。
そうだ、ウイスキー飲ませてあげよう。このまえ、バイト先でおこずかい貰って買ったやつ。いつも千円以下の飲んでるから、奮発したんだ。奮アンド発!
つーかクソあついな。お? 俺なんで服着てんだ? バカじゃん、あついわけだわぁ。酒をのんだらあつくなる。これ常識ね。
「さっすがセンパイちゃん! 僕にも! くれるんですよね!?」
「モチのロンよ。ああー、あっちいー」
あーくそ、ボタンの向き逆なのなれねー。 せや、頭通るし、そのままぬいだろ。こうすりゃタンクトップといっしょにぬげてお得じゃん。真輝ちゃん天才! ジーパンもベルトきっつ。ぬいだろ!
「やったー! おっぱいだ! 神様ありがとう!」
そうだぞ! 俺のおっぱい見られるのなんてラッキーなことなんだからな、肝に銘じたまえ。
んん、コップだすのめんどいし、ラッパ飲みでいいか。ほれほれ飲め飲め!
「俺の裸は高くつくぜ! 飲めー!!」
誠くんにウイスキーをシュート! 超、エキサイティン!
おわ、思ったよりいっぱい飲んだ……。だいじょぶか?
とか心配してたら反撃くらった。うっわ、ちから強い。ぜんぜん反抗できない。瓶を奪われてそのまま俺もラッパ飲み。
——うわーきっつい!! 焼ける!!
「うえー! きっつい! ビールビール」
「やっぱチェイサーには、バドワイザーっすよねぇ!」
買っててよかった軽いビール! 一気に流し込めば、胃のあたりがカッカとしてくる。がっつり減った瓶が目に入って、ちょっと勿体無かったかなと思った。
まあいいや。だって、誠くんあんなに楽しそうに笑ってる。なんかウイスキーの蘊蓄みたいなの語ってるし。何いってるかはあんま意味わかんないけど、彼が楽しそうだと俺も楽しい。このままずっと、親友のままでいれればそれでいいのかも。
……なんか嫌だ。それが一番いいのに、なんかイヤだ。イライラするし、焦れったいし、俺の気持ち、分かってほしいのに知られたくない。やっぱり、ぜんぶぐちゃぐちゃで、わけわかんない。急転直下、モヤモヤがまた胸に満ちた。
アルコールがあれば全部忘れられると思ったけど、こうやって部屋で飲んだらまるで逆効果だ。自分が溢れ出しそうでたまらない。理性のハードルが、ガンガンに低くなっているきがする。
ふと、魔が差した。今までと変わらず楽しそうに笑う誠くんなら、ちょっとくらい羽目を外しても受け流してくれるんじゃないか。そんな甘い誘惑が、一瞬で心を奪った。
思いつきで行動するのが俺の悪い癖。俺は飲み干したビールの空き缶を片手で握り潰すと、ウイスキーを口いっぱいに含んだ。口の粘膜を、強い酒精が焼いていくのを感じながら、ソファでくつろぐ誠くんに迫る。
今から、このウイスキーを口移ししてやろう。実に二年ぶり二度目の口移しだ。それに、今の俺は女だから、彼も役得なはず。彼は一体どんな反応を返すのだろうと想像すると、胸が高鳴る。
俺は彼に馬乗りになると、一思いに彼の唇を奪った。
ほんの、冗談のつもりだった。でも、そんなのただの言い訳だった。
俺は、自分で思っていた以上に欲張りだったみたいで、頭のどこか、
頭の奥がピリピリして、腹の底がぐっと熱くなる。なんだかいけないことをしているような気がして、心臓のあたりが痛くなる。そして、実感した。
やっぱり、勘違いでもなんでもない。本気で彼のことが好きなんだって。
お互いの口腔からウイスキーがなくなって、より唇や舌の温もりを強く感じ始めた頃、俺の腰へ硬いものが当たっていることに気が付いた。
なんだっけ、これ。なんかすげえ心当たりとか、懐かしいような——。
ソレがナニか理解した途端、血の気がマッハで引いていった。
俺はとんだ思い違いをしていた。
何が、冗談のつもりだ。彼が普段、どんな思いで俺と接しているか、分かっていたはずなのに。
異性に免疫がないなりに、これまでと変わらないよう努めて接してくれていた彼の顔に泥を塗ってしまった。彼の気持ちを踏みにじってしまった。
もう引き返せない。それを理解した瞬間、俺の胸にドロドロとした感情が渦巻き始めた。これはなんだ、彼に対する失望か、それとも自己嫌悪か。もしくは、劣情か。
俺は口元に残った、唾液とウイスキーの混ざりあったものを腕で拭うと、彼の股間に手を重ねた。
「うへー、なにこれ、ビンビンじゃん。まことくん、俺でそういうこと考えてたの?」
熱い怒張を感じながら、彼を煽る。俺は今、どんな顔をしているだろう。背徳感と焦燥感があわさって、手のひらに汗が滲むのを感じた。
馬乗りにされ、呆然としたままの彼の瞳に、ギラついた焔が灯るのを見た。その瞬間、俺の両手首は彼の大きな手で掴まれ、体格差でゴリ押すようにベッドへ押し倒された。天井の照明によって逆光になった彼が、苛立ちを隠さずに言い放つ。
「せ、センパイさんあんたおかしいっすよ、酔っ払ってんすか!? そんなんじゃ、僕本気にしちゃいますよ!」
これで、これできみは本気になってくれるのか? こんな、得体の知れない俺に。既に選択肢を間違ってしまった俺は、今更素直になれなくて彼に噛み付いた。
「うるせー童貞やろー! やるならやってみろぉ!」
今度は、彼の中で何かが弾ける音がしたような気がした。俺たちは多分、このまま一線を超える。
「なっ、このやろ、もう知らねえからなっ!」
「……バーカ」
**
も、もう限界……。
誠くん、お酒のんでも元気なタイプだった。
正直、最初の最後ぐらいしか気持ちよくなかった。
痛いっていっても、やめてくれなかった。
パンツだけ履いた誠くん、ソファでさっさと寝ちゃった。
ヤるだけヤって寝るとか俺でもした事ねえよ……。こいつ意外と図太いところあるなあ。泣くぞ。というか少し泣いた。
「いててて」
ひとりになったベッドの上、女の子座りをしようとしたら痛くてやめた。股間壊れそう。
上半身だけ起こして、浅い寝息をたてる誠くんを眺めていると、ベッドの上にゴミやら何やらが散らかっているのに気が付いた。
コンドームの袋とか、使った後の本体とか、丸まったティッシュとかが転がり放題。本当ならちゃんと片付けたほうがいいんだろうけど、どうにも全部放っておきたい気分だった。
ふとテーブルの上を見やれば、散々飲み散らかした空き缶や内容量の減ったウイスキーのボトル。その足元には、小さな水たまりがある。どこかのタイミングでこぼしてしまったらしい。俺はやけくそ気味にボトルを手に取ると、一気に残りの液体を流し込んだ。
****
翌朝、やっぱりバチが当たった。こっぴどい二日酔い。目が覚めた時には、もう吐き気が限界だった。ほとんど裸のままトイレに駆け込んだ俺に、誠くんはパーカーや水を用意してくれた。こんなときでも彼は優しくて、俺を放っておかないでいてくれる。そんな彼に比べて俺は——。
さむくて、死にそうで、ひどく惨めだった。
それでも、背中を優しくさすってくれる手の暖かさが嬉しくて、辛い。どこまでも欲深い自分が嫌になる。本当に浅ましい。
彼が用意してくれた水を飲むと、すぐに全部吐き出した。繰り返す嘔吐に、涙と鼻水が止まらない。
「誠くん、ごめんな……」
俺、君の努力を全部無駄にしてしまった。
「僕の方こそ、本当に、すみませんでした……」
蚊の鳴くような声の謝罪。それが、俺をじくじくと責める。こんな姿を晒したくなくて、彼に「大丈夫」と告げれば、誠くんは何かを言いたそうにしながら、部屋へ戻っていった。
しばらく嘔吐を続けていると、悪いものを全部出し切ったのかようやく寒気が去った。精根尽き果てたような気分で、足場を確かめるようにゆっくりと部屋に戻れば、誠くんがビーズソファに埋もれている。彼は外したメガネを無造作にテーブルに放り、右腕で目元を覆っていた。自分の部屋のはずなのに、どこにも居場所が無いような気持ちになって、逃げるように浴室までやってきた。そして、部屋で俺が入浴の準備をしている間、誠くんは一度も顔をあげなかった。
冷え切った体に、熱いシャワーが沁み渡る。身体は素直に熱を取り戻していくが、俺の心は冷え切ったままだった。
俺は、誠くんに最低な事をしてしまった。彼の意思を無視して暴走してしまった。頭から熱いシャワーをかぶって、目を閉じる。暖かな水が内腿を伝うと、昨晩のことがフラッシュバックする。
「俺……ほんとにバカだ」
口に出すと、どうしようもなく悲しくなって、涙があふれた。彼と一緒にいるのが一番安心するなんて思っていながら、自らの手で全部ぶち壊してしまった。もう、絶対に、今までのように接するなんて無理だ。
どうしよう……。不安と後悔、そして今朝から強さを増した腹痛に耐えきれず、しゃがみこんでしまう。自分でも何を考えたらいいのか、どうするべきかわからなくなって、嗚咽が出そうになるのを歯を食いしばって堪えた。
静かに、涙だけがシャワーの中にとけこんで、排水溝へと旅立っていく。
そうやって、ぼやけた視界のまま、流れていく水を眺めていた時だった。流れの中に、赤い筋が混じるようになった。
なんだろ、これ。白っぽい浴室の床の上、赤い筋が流れに乗って、排水溝に吸い込まれていく。ぼーっと眺めていると、その赤がどんどん増えていった。どうやら、その筋は俺の後ろから流れてきているようだ。でも、体をひねって後ろを見ても、特になにも見当たらない。そこで俺はようやく気がついた。
これ、俺の血だ。しゃがんだまま限界まで足の間を覗き込むと、確かに赤い血が滴っている。も、もしかして、昨日のエッチの時に裂けたりしたんだろうか……。
泣きっ面に蜂って、こういうこと?
恐る恐る、手で触って確かめてみると、痛いことは痛いが、切り傷のようなものはなさそうだ。じゃあ、昨晩の破瓜の名残? こんなに血出るもんなの? やばい、わからない。少しパニクって、頭を抱えた時。
「あ、もしかして」
ふと、ベンジーちゃんの言葉が蘇った。
『女になって、そろそろ一月くらい経ちますよね。これ、生理用品です、もしも来たら使ってください。適当に見繕っておきました。あと、あんまり痛みがひどいようだったら、すぐ病院いくんですよ』
あー。
これ、女の子の日?
じゃあ、ずっと腹痛が続いていたのも、これのせい?
「う、ううぅぅぅううう」
現実を突きつけられて、床にへたり込んだ。フックにかけられたシャワーから降り注ぐお湯が、雨粒のように俺の身体に降り注ぐ。見慣れてきたと思っていた胸の膨らみに、広くなった骨盤、そして質感の違う肌。
そうか。
俺、正真正銘の『女』になってしまったんだ。昨晩処女を喪って、それで今日生理か。笑えてくる。もう二度と、あいつと肩を組んだりして、同じように笑えないんだ。
そうか、そうか。
男と女だもんな。
誠くん、ごめんよ。俺やっぱダメな先輩だ。こんな俺といたら、君は絶対に辛くなる。だからもう、一緒にはいられない。
恥を忍んで生理用品を持って来てもらい浴室を出れば、彼は部屋の片付けをしていた。それもほとんど終わりかけ。
ああもう! なんで、いつも通りに優しいんだよ君は! 少し影のある微笑みで「おかえりなさい」なんて言われたら、俺の決心が鈍ってしまいそうになる。また、甘えてしまいそうになる。
惨めな気持ちを押し殺して、空元気を装い着れなくなった服を押し付け脱衣所へ彼を押し込んだ。
「ほらほらさっさといけ! 残りは俺やっとくから!」
彼を部屋から追い出すと、急に部屋がしんとした。お気に入りの大きな窓は開かれて、嫌味なくらいキラキラとした太陽光線と、底抜けに爽やかな風が部屋を満たしている。
彼がまとめてくれたゴミ袋の口を縛って、部屋の隅に寄せておく。
ところどころ血とか何かが染みたシーツを外して、丸めて洗濯カゴに入れておく。
片付いていく部屋に反比例して、俺の胸に悲しみと寂しさが満ちていく。テーブルを布巾で拭いたり、ソファへ消臭スプレーをふりかけたりしていると、勝手に涙がこぼれてきた。
歯止めの効かない涙が、ぼろぼろと溢れ出して、頬をつたい、足元に落ちていく。ああ、もう、泣いたってしょうがないのになぁ。片付けの手間が増えるじゃん……。
泣きながら後片付けをしたが、ほとんど誠くんがやってくれていたからそれもすぐに終わってしまう。急に手持ち無沙汰になってしまった俺は、窓際のデスク、キャスター付きの椅子に胡座をかいて座った。そして、窓の向こうを眺めれば、そこには誠くんと出会うきっかけになった風景が広がっている。耳をすませば、遠くから飛んでくる雑踏と、背後から聞こえるシャワーの水音がホワイトノイズのようだ。それに耳を傾けていると、自然と涙は引いていった。
「はぁ」
ため息ひとつ吐いて、灰皿とタバコ、ジッポーを取り出す。声こそ出さなかったが、たっぷりと泣いたせいで倦怠感を覚えていた。時期に彼も部屋に戻ってくるだろう。そしたら、ちゃんと話をしよう。気分を切り替えるためにも、俺はタバコに火をつけた。
この一本は、めちゃくちゃに苦い一本だった。
**
「センパイさん、服とシャワー、ありがとうございます」
光の射す窓辺、紫煙をくゆらしていると、背後から彼の声がした。俺は椅子ごとくるりと回って彼の方を向く。お風呂上がりの、さっぱりとした彼の顔に安心する。
「ん。具合どうよ」
「なんかシャワー浴びたら良くなってきたっす。僕も吸っていいっすか?」
「ん」
彼がタバコを手に俺の隣に並ぶ。確か、使い捨てライターも買っていたはずだけど、忘れているのかパッケージの開封に夢中になっている。なので、彼がタバコを咥えたタイミングで俺のライターを差し出した。
「あざっす」
彼は短く礼を述べて、俺のライターで火をつけた。その瞬間、メガネのフレームの脇から覗く瞳が、とても優しいものになるのが見えた。
——昨日の今日で、どんなことを思ったんだろう。
想像もできないけれど、無言のまま二人して煙をふかした。そうこうしてると、俺のタバコが先になくなる。ちょうどいいタイミングかもしれない。とりあえず咥えた新しいタバコに着火するのをやめ、誠くんへ問いかけた。
「メコンさ……昨日のことどれくらい覚えてる?」
「……その、一回目終わったところくらい、ですかね」
遠くを眺めて答える彼の耳が赤くなる。
「あー、あそこまでか」
はにかむ横顔が可愛く思えて、小さく笑ってしまった。そんな、相変わらずな思考回路を誤魔化すために、新しいタバコに火をつけた。
今度は、彼からの問いかけ。
「やっぱ、この感じだとあの後も、続いたんすよね」
「そうね。俺も結構記憶ねえけど」
なんだか、俺だけ全て覚えているのが気恥ずかしくて、顔が熱くなる。だから、とっさに嘘をついた。しれっと視線を外すと、昨晩の情事が頭をかすめた。
「センパイさん。本当に、すみませんでした」
視界の外、彼が沈痛な声音で謝罪を述べた。予想外のタイミングだったから、慌てて向き直ると、彼は腰を九十度に折っていた。
「あわわわ、やめろやめろ。いいんだ、俺も悪かった。いや……全部俺が悪いんだ」
なんで君がそこまで気を病むんだと、彼の肩に手を置いた。しかしその瞬間、彼の両肩に力が入るのを感じ、視線を落としてしまった。
俺は、いたたまれなさに負けて、言い訳のようにまくし立ててしまう。
「俺さ、急に女になって、マジで訳わかんなくってさ。実は、最初メコンがウチにきた時、目が覚めてからちょっと経ってたんだよ。
ほんと、訳わかんなかった。滅茶苦茶不安で、頭おかしくなりそうだった。そんな時におまえが来てさ、誠くんなら受け入れてくれるんじゃないか、力になってくれるんじゃないかって、ドアを開けたんだ。……実際超安心したよ。あーいつも通りだ、って」
「そうだったんすか……」
彼は、身動ぎひとつせずに、俺の無様な言い訳に聴入ってくれているようだった。
「だから、その。今まで通り接してくれてるのに、甘えてた。見た目はこんなに変わっちまったけど、おまえは何も変わらずに俺として扱ってくれてさ……。バカみたいに酒飲んでたら、ちょっと悪戯心がな」
「やっぱあれ、悪戯だったんすね」
「悪ぃ。勝手に、冗談としてあしらってくれるって期待してたんだよ。ほんとバカだよ、俺。自分のことしか考えてなかった。普通あんなことされりゃ勃ってもしょうがないよな。ちょっとこの前まで男だったのに忘れてんだ。そんで、チンコ勃ててるのみて、勝手に失望して、あんなこと……」
言葉にしてみると、ひたすらに最悪だった。全部、全部俺が悪かった。俯いていたせいで顔に落ちた前髪をかき上げて、涙をこらえ彼を見やる。
「もう、元にはもどれないって……実感した。内定も取り消されたし、誠くんにひどいことしてしまってさ。だから、俺、学校やめて地元帰るよ。今までありがとな。ほんとうにごめん」
俺は、地元に帰ってひっそりと暮らすよ。家族だって、女になった俺を受け入れてくれるかわからないけれど、それならそれで君を傷つけた罰として甘んじて受け入れる。全部俺が悪かったんだ。女になった時点で、どこか消えてしまえばよかったんだ。
そんな時、誠くんの拳が強く握りしめられているのを視界の端に捉えた。
「バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!! あんた何自分だけうだうだ言って、一人で気持ちよくなってサヨナラかよ、バーカ!! 僕にもちょっと時間くださいよ! あーもうムカつくムカつく! そうだ、原付借ります! テメエ逃げんなよ!?」
はじめて誠くんが怒るところを見た。
彼は、俺に一番懐いてくれた後輩だった。そんな可愛い後輩が激怒しているところを、今日初めて目の当たりにした。いつも穏やかな彼が、黒縁メガネの下、色白な顔を真っ赤にして怒鳴り散らかしている。その怒声を聞いていると、胸が引き裂かれるように痛くなって、勝手に目が潤んだ。
俺が唖然としていると、彼はズカズカと部屋を後にし、ヘルメットと原付のキーをひったくり玄関から出ていった。
まるで、俺だけが世界から取り残されたかのようだ。
ふと灰皿をみると、吸いかけのたばこが二本、くすぶっている。ゆっくりと立ち上る細い煙が、空気に紛れて消えていった。
「おまえたちも置いてけぼりか」
俺は鼻で笑うと、二本のたばこをもみ消した。外から、走り去る原付の音が聞こえる。部屋に満ちる静寂が耳に痛い。俺はそっと、椅子の上で膝を抱えた。
こころも、からだも、今まで知ることのなかった痛みを訴えている。
「おなか痛い……」
レースのカーテンが、遠慮がちに揺れるのを眺め呟いた。
誠くん、俺の原付でどこ行ったんだろう。
「バカとかうんことか、小学生かよ……」
激昂した彼の言葉を反芻して、抱えた膝の間で悪態をつく。
「逃げ場なんて、ねえよ……」
散々泣いたはずなのに、また涙が頬を伝った。
こんなに苦しい恋なんて、今までしたことなかった。
これまでは、適当にいいなと思った子に声をかけて、漠然と付き合ってきた。初めて付き合った子だって、向こうから告白してきたからOKを出して、自然消滅的に別れた。確かに、どの子にも恋心のようなものはあったし、セックスだってした。でも、何かが足りなかった。
「どうしたらよかったんだよぉ……」
多分、俺はきっと本当の意味で人を好きになったことがなかったのかもしれない。
知らなかったんだ、何も。
一緒にいるだけで楽しくなったり、会えるか会えないかで一喜一憂しちゃうような人がこの世にいるなんて。
まさか女になって、初めてそう思える人ができるとは、思いもしなかった。
ただただ愛おしくて、隣に居て欲しくて、頬に、そっと手を添えたくなるような。
その人は、一番近くて、遠い場所にいた。
「帰りたいわけないよぉ……ずっと一緒がいいよぉ……」
泣き出しそうな顔でつばを飛ばす彼を思い浮かべる。
『バーカ! うんこ! あんぽんたん! ほでなす!!』
『僕にもちょっと時間くださいよ!』
『テメエ逃げんなよ!?』
誠くん、怒ってたなあ。俺、また一人で突っ走っちゃったなあ。彼の言いたい事、聞いてあげれなかったし、ちゃんと話そうと思ったのに、自分の事しか頭になかったなあ。
頭の中で反省会が始まる。ぷかぷかと、俺のダメなところが浮かんで、消えていく。ぼたぼたと溢れる涙は、さっきから流し放題。この短い時間に、情緒が乱れまくっていた。
俺は無限ループに陥った思考をなんとかしようと思って、目を思いっきり閉じて頭を何度か横に振った。そして、右腕で乱暴に涙を拭うと、深呼吸して瞼を開いた。
涙で二重三重にブレた部屋、タバコの残り香。
ぐるりと見渡せば、彼の私物がいくつか置きっ放しになっている。
無駄にでかいタンブラーだって、彼が勝手に置いていった物だし、泊まるとき用のジャージもそうだ。
ここ三年くらい、それこそ兄弟みたいに一緒にいた思い出が、鮮明に蘇ってきた。俺は一人っ子で、少し年上の従兄弟がいるくらいだから、本当に弟ができたみたいに思ったこともある。全く料理ができない俺の為に、彼がつまみを作ってそれで宅飲みをしたことなんか、数え切れないほどある。
この部屋には、どうしようもないくらい彼の気配や思い出が染み込んでいた。
「あはは、こりゃ、俺本当にバイだったのかも」
もしかしたら、男のままでも彼のことが好きになることがあったかもしれないと想像すると、なぜだか急に気が楽になった。今の俺は女で、誠くんが好き。そして彼は派手な見た目の女の子が好き。少し乱暴だけど、それでいいじゃないか。
きっと、誰かを好きになるってことは、大なり小なり苦しいものなんだ。俺は、いままでその痛みや苦しみを大して知らずに、のらりくらりと生きてきたから余計に戸惑ってしまったのかもしれない。それに、培ってきた関係を壊す一歩を踏み出してしまったからには、しっかり決着をつけないと……。
涙も引いて頭が大分スッキリしてきた頃、ふたたびカーテンが遠慮がちに揺れた。ふわりと、動物的な動きでまくれたカーテンの向こうから、バイクのエンジン音が飛び込んできた。
この音、多分自分の原付のだ。乗るときはヘルメットを被っているし、自分で運転するのとは音の聞こえ方が違うからあまり自信は無いが、なんとなく彼が帰ってきたと思った。そしたら、今度こそちゃんと話し合うんだ。そこで、彼がもう金輪際関わりたく無いといったら、大人しく身を引こう。
**
「ただいま!」
玄関のドアが開く音と、少し苛立ちの残る声音で彼が帰宅を告げた。俺は椅子に座り直して、少し緊張しながら彼が部屋に戻ってくるのを待ったが、どうもガサゴソと物音がするばかりで入ってこない。な、なんだろう、何が起きたんだろう。ちょっと想定外だったから、なんとなくすり足で扉へ向かって、ゆっくりと廊下を覗き込んだ。
「お、おかえり……」
そこには、妙なテンションでスーパーの袋を掲げた誠くんがいた。
「今日は! 二日酔いを吹っ飛ばせ! トマトたっぷりお野菜カレーをつくります!!」
わぁ、なんか変な方向に吹っ切れているみたい。でもよくわからないが、これからご飯を作ってくれるらしい。個人的に、彼の作るカレーは実家のより手が込んでいて美味いと思う。素直に嬉しい。
「わ、やったぜ」
「センパイお腹いたいんでしょ! 寝てろ!」
俺が素直に反応すると、彼はビニール袋の中から細長い箱を取り出し、そのままの勢いで放り投げてきた。かろうじてそれをキャッチして、パッケージを確認してみると例の鎮痛剤だった。ちゃんと、ピンク色の、生理痛向けのやつ。
「は、はい……」
とりあえず何か言える雰囲気じゃなかったので、すごすごと部屋に戻る。扉を後ろ手で閉めて、そのままベッドの縁に腰掛けた。
正直、あそこまで彼を本気で怒らせたことがないから、今がどんな状態なのかわからないけど、態度ほど怒ってないのかもしれない。ドアの向こうからは、冷蔵庫を開け閉めしたり、なにか金物を取り出したりする音が漏れてくる。最初は少し雑だったその音も、次第に落ち着いた、丁寧なものになっていった。
手元には、彼がわざわざ買ってきてくれた新しい鎮痛剤。
彼の気遣いが単純に嬉しくて、俺は鎮痛剤の箱を両手で握りしめたままベッドへ横になって身悶えた。
「ううぅぅうんん」
胸の奥がじんわりと暖かくなる。これから、彼がどんなふうに話を切り出すかわからないけど、ちゃんと部屋に帰ってきてくれた。彼と同じ部屋にいるだけで、気分が上向いていく自分の単細胞さに呆れるがしょうがない。しょうがないのだ。
腰全体に広がるような痛みも、なんだか嫌じゃ無いような気すらしてきた。もぞもぞと据わりのいいポジションを探してゴロゴロしていると、部屋のドアが開く音がした。
「お腹減ったっしょ。まずはこれ」
なぜだか呆れの色が滲む声の誠くんが、両手に器を持って立っている。
「えっ、カレー!?」
予想以上にご飯が出てくるのが早くて、ついメニューの確認をしてしまった。
「カレーは夜です」
「夜かぁ」
いや、そうか。こんな短時間でカレーができるわけないか。ちょっと早とちりしてしまった。微妙に気恥ずかしくて、頑張って表情を消す。すると、何かが面白かったのか、誠くんは鼻で小さく笑うと手にした器をテーブルに並べて続けた。
「僕たち昨日の夜から酒しか飲んでないんですから、まずはなんか入れないと」
彼がテーブルに手招きするので、いつもの席につくと、梅干しが乗ったおかゆが湯気を立てている。
「ふええ女子力高ぁい」
「あ、梅干しは僕の実家で漬けたやつなんで、かなりしょっぱいと思います。それでも味薄かったらごま塩あるんで、それで調節して」
彼が得意げに説明を続ける。ドヤ誠くん可愛い。というか、気づいたら冷蔵庫にあるから勝手に食べてたけど、実家の梅干しですって。妙に美味いと思っていたら、俺胃袋もしっかり掴まれてたんだなあ。
「ほえー、結婚しよ」
「……それ本気っすか」
「えっいやっ、それは……あれ……? ん? できんのか?」
ヤッバ、つい油断していつもの冗談を言ってしまった。いやいやいやこれ冗談にならねえって、あっ、うわっ、クッソ恥ずかしい……。
「センパイまだ酒残ってます? ま、どうぞ召し上がってください」
「お、おう」
胡乱げな視線を送ってくる彼を見る限り、特に気にしていないようだった……。すこし残念な感じもあるが、とりあえず勧められるままにスプーンを手に取る。
「「いただきます」」
あぁ、なにこれ、こんな美味しいおかゆ初めて食べた。体調は随分とよくなってきてたけど、いろいろ水分とかミネラルとか放出してしまった体にとてつもなく優しい。優しさが素早い、マッハ出てる。ホッとして、じんわりする。
「はぁ……生き返るねこれは」
「簡単なんで、作り方教えますよ。あんた酒飲みなんすから」
簡単ねえ。どうなんだろう、俺にも作れるのかな。
「んー、作ってくれないん?」
「センパイ、そういうところっすよ。昨日の今日で、そんなこと言われたら僕どうしたらいいんすか」
あーあーあー、俺のバカ。もっと考えて物を言えよ俺! ついさっき失言したばかりでしょうが。
「あ……。ご、ごめん、反省します」
なんともいえない沈黙が訪れた。思った通りに喋れない情けなさと恥ずかしさで、黙ってスプーンを進める俺と、何も言わず黙々と食べ続ける誠くん。たまにメガネを押し上げて、少し焦ったようにおかゆをかき込んでいく彼を眺めていると、完食したのか器とスプーンを置き、水を一口飲んで大きく息を吐き出した。
そして彼にしては珍しく、真っ直ぐに俺の目を見て口を開いた。
「あと、センパイ、学校やめないでください。もちろんサークルも。最後にもっかい渾身の作品見せてくださいよ。もう二年くらいまともなの撮れてないじゃないすか」
あぁー、そうかあ、引き止められちゃったかあ。じゃあ、しょうがないかなあ。そもそも、今学校やめるとか確実に親から殺されるし?
ただ、やっぱり彼は俺の作品にしか興味がないんだろうか。それはそれで、なんだか虚しいな。
「うん……わかった。なんとかやってみる」
「あっ、でも、まずは就活っすか?」
「ギャーやめろー! どうすっかなあ……また髪黒染めしなきゃなあ」
すっかり頭からこぼれ落ちてた、就活とかいうヤツ。ぶっちゃけそれどころじゃなかったけど、もう夏になるし焦らないとマズイ。せっかく美容室でトリートメントとカラーしてもらったのに、黒染めしなくちゃいけないのか? こんなに手触りよくなったのにもったいない……。あー、証明写真撮らなきゃいけないし、どうしよ、果てしなくメンドくさい。
残酷すぎる目の前の現実に惚けていた俺に、誠くんが世間話といったふうに問いかけてきた。
「そういやセンパイって、金髪になんかこだわりあるんすか? ずっとですよね」
金髪について? そういや、特に理由はなかったなあ。大学に入ってからすっかりトレードマークみたいになってしまって、変えるタイミングを見失ってたってのもあるけど。
「かっこいいじゃん。それだけだよ」
「シンプルっすねー」
ありゃ、身もふたもない理由だったのに、妙に納得した顔をしてらっしゃる。
「そういやさ、なんでさっきから俺呼ぶ時に『さん』抜けてんの?」
「い、いやあ、なんか拍子抜けしちゃって……。あと、なんだかんだ『センパイ』にさん付けって違和感ないすか」
「それは俺も思う。一年の時からややこしいあだ名だなって。でもさ、今じゃ『さん』がついてないとそれはそれで違和感あんのよね。なんか別のない?」
「えー、うーん。じゃあ、仙庭さん……?」
俺の名字を呼ぶ彼が、首をひねりすぎて梟みたいになっている。
それが面白くて、あと、少しこそばゆくて、少し戯けて返す。
「うん。なんか逆に気持ち悪いな」
「クッソー! でも僕だって、もう慣れてますけどメコンってあだ名酷くないすか? 川っすよ、河川、リバー。なんかナマズとかいそうじゃないですか」
「いるぞ、メコンオオナマズ。最大で体重三百キロくらいになる」
タイの怪魚だぞ。釣り堀があるらしいし、一度でいいから俺も釣ってみたい。両腕を広げてスケール感を表現してみたが、やっぱり全然足りなくて彼に笑われた。
「まーじすか。デカすぎでしょ。こわ」
「じゃあなんだ、誠くんって呼べばいいんか? え? んふふ」
「なんか……すんません……。フフッ」
やっぱり、彼の笑顔が一番の幸せだった。
**
誠くんが作ったカレーは、いつも通り素晴らしいクオリティーだった。ただ、いつの間にか置いてあった大鍋いっぱいに作ったせいで、ここしばらくの食事からカレーが消えることはないだろう。そのことに責任やらなにやらを感じたのか、後片付けは任せてくださいと、テキパキと食器洗いやカレーの小分けをしていく誠くんを眺めながら、食後の一服と洒落込んだ。
なんだか、不思議な気持ちの一服だった。満腹感とほろ酔いで火照った体を、夜のすこしひんやりとした風が冷やしていく。そしてゆっくりと、夜風の香りとタバコを味わう。舌がピリピリする感じが心地よく、たっぷりと時間をかけて煙を吐き出し、甘いタバコの葉の余韻に浸る。
俺と彼の関係が決定的に変わってしまった後なのに、驚くほど穏やかな気持ちになる一服だった。
「センパイさん、カレー小分けにして冷蔵庫に入れときましたよ」
「おーありがとうメコンくん」
誠くんがタバコを咥えながら、隣に並ぶ。そういえば、今日こうやってタバコを吸うのも二回目か。
そして気がつけば、お互いいつものようにあだ名で呼び合っていた。
「結局この感じっすね」
「わかるわー」
彼は水色の使い捨てライターでタバコに火をつけて、一度大きく煙を吸い込んだ。彼はハイライトメンソールを愛飲している。きっと、彼は今ほどよい清涼感を楽しんでいるんだろう。すると、昼前に並んで一服した時のような、優しい目をした彼が、独り言のようなトーンで言葉を紡ぎ始めた。
「僕、センパイさんに憧れてたばこ吸い始めたんすよね」
「えっマジか。ごめんよ、体に悪いのに」
「いいんすよ。かっこいいと思って吸ってるんすから」
「そうかー? でも君俺と一緒じゃないと吸わないじゃん」
彼を見ていると、どうにも普段の喫煙頻度は高くないようだった。喫煙所に誘えばついてくるし、居酒屋なんかでは結構矢継ぎ早に吸ったりもしている。ただ、それも一人でいる時や周りが吸わない人たちだと違うらしかった。
「……バレてました?」
「まあね。先輩だからね」
彼はすこしだけバツの悪そうな顔をして、タバコを咥えて煙をふかし始めた。
二人の間に、優しい沈黙が訪れたようだった。立ち上る煙が、夜風にもてあそばれる。俺がそれに見とれていると、再び誠くんの声が降ってきた。
「結局、センパイさんが僕の一番の憧れだったんですよ。センパイさんみたいになりたかったんです。たばこ吸って、酒飲んでふざけて、最高の写真撮りたくって。でも、一緒に遊んだり、勉強したりすればするほど、どうしようもなくセンパイさんにはなれなかったんです。当たり前っすけどね」
「うわあ、なんか色々背負わせちゃってんな俺」
「いいんすいいんす、僕が勝手に背追い込んでるだけだったんで。実際、全部忘れちゃいましたよ。先輩としては敬いますけど、もう神様みたいに見るのはやめました」
誠くんは、肩の荷を下ろしたような顔で、楽しそうに言う。
「それがいいよ。俺なんてそんなに持ち上げるような人間じゃないぜ。天才でもなんでもないしな」
俺は首を横に振って彼の抱いていた幻想を否定した。どうしてだか彼は俺をとてつもなく持ち上げてくれていたが、俺は、そんなに大層な人間じゃない。どちらかというと、凡人もいいところ、カメラだって趣味というのもおこがましいようなもんだ。たまにまぐれでいい感じのが撮れるけど、狙って撮れたことなんて一度もない。
「今まで通りでいようなんて、お互いどっかしら限界だったんですかねー」
「かもしれねえなあ」
「センパイさんは、どうしてカメラ始めたんすか——」
彼の問いかけに、俺はちょっとした昔話をした。夜明けが好きなこと。特に、これから訪れるだろう、夏の夜明けが好きなこと。そして、高校時代に見た景色が、ずっと胸に残っていること。
俺は、あの時のような瞬間を閉じ込めたくて、シャッターを切ってきた。どこにでもある、見慣れた街並みだったり、平凡な風景が色を変える瞬間。光の粒が、視神経に飛び込んでくるのを感じるような瞬間を、切り取りたかった。万が一にも、似たような感情を抱いてくれるような人がいたらと思ってやってきた。今のところ、全然ダメみたいだけどさ。そんなことを、つらつらと語った。
一通り語り終えたところで、一つ伸びをして、ビールを一口飲む。ここから見る景色だって、気に入っていた。俺みたいな寝るところがあればそれでいいような人間には少し持て余すような部屋だが、窓からの眺めが気に入ってここに決めた経緯がある。
そして誠くんが、言葉を区切り区切り、確かめるように会話を引き継いだ。
「あの、僕が一年の時に見た、センパイさんの作品って、ここからの景色ですか?」
「そうだねー。二年に上がる時、何と無く音楽かけてさ、レンズのメンテしてたときだっけな。試しに何か撮ろうかなって思ってたら、目の前の木が芽吹く準備をしててさ、おー春がくるなー、風の匂いも変わってきたなーって思いながら撮ったんだよ」
なんとなく、全部が気持ちいい日だったのをよく覚えている。冬の間、閉めっぱなしがちだった窓を心置きなく開け、新鮮な空気を味わいながらカメラをいじり、漠然と幸せな満ち足りた気持ちでシャッターを切ったはずだ。
すると彼は、自分に言い聞かせるよう、滔々と言葉を紡ぐ。
「やっぱ……センパイさんは天才っすね。僕、その作品見た時、全部わかったんですよ。近所の公園で遊ぶ子供の声とか、まだ冷たい風に混ざる春の匂いとか。ちょっとねむい感じの曇り空だけど、なんか新しいことが始まりそうな感じとか」
——その通りだった。
あの日は、薄ぼんやりと曇っていて、近所の公園で遊ぶ子供の笑い声が、まだ肌寒い春の風に乗って部屋に飛び込んできた。ありふれた、厚手のパーカー一枚羽織れば快適な春の一日。
そんな些細なことが、一枚の写真を通して確かに彼へ伝わっていたのだ。
胸に、暖かな喜びが広がった。
「……そっかー。伝わってくれてたんだー。よくわかったねえ。君には伝わったんだなぁ……」
「いやあ……なんだかんだセンパイさんとずっと遊んでたのに、最後の年にようやく気づくなんて、全然ダメダメっすよ……」
俺たち二人、これ以上何も言えなくなってただただタバコを吸った。
紫煙がくれる、優しい静寂の中。
俺の中で、打ち明ける覚悟が決まった。
「あのさ、誠くんに訊きたいことがあるんだけど」
「なんすか、急に改まって」
それでも流石に緊張して、声音が硬くなる。
しかし、意外と声は震えなかった。
「俺ってさ、気持ち悪くない? 外側と中身が不釣り合いというか、ちぐはぐというか。正直、自分がよく分かんねえんだよね、いろいろ。それでさあ、こういうの、相談できるのって、誠くんぐらいしかいなくて……」
自分でも自分のことがわからないなんて、月並みな言葉だ。でも、そうとしか言いようがない。
「センパイさんは、センパイさんっすよ……」
絞り出すようにそう言った彼は、少しだけ俯いた影の中、ちいさく唇を噛んでいた。
いいよ、それでいいよ。君が、俺のために『俺』を『センパイさん』として接してくれていたのはよく分かってる。君だけが、すがたかたちの変わってしまった俺を、俺のままでいさせてくれた。
でも、もういいんだ。俺、気がついたら中身もどんどん変わっちゃってたから。だから、君も無理して今まで通りのふりをしなくていいよ。
「俺、おまえのこと、すげーいい後輩だと思ってる。こんなことになっても助けてくれて、ほんといいヤツだよおまえ。
実はさ、俺こんな見た目だから軽くヤレるとか、下心丸出しのやつも結構いたんだよ。あとは、急に女になったことで気味悪がって離れてくやつとかさ。俺の四年間の人間関係、ほとんどダメになって、マジ笑えねえ……。そう思うと、やっぱおまえすげえなって。あーダメだ、うまくまとまんない」
彼に思いの丈を伝えようとするけど、うまく言葉が繋がらない。こんなときも言葉に詰まる自分が情けなくて、タバコを一本咥えるが、なかなかライターの火がつかない。一回、二回、三回……。小さく、細くなった右手の親指で石を擦れば、柔らかくなった皮膚に痛みを感じる。
躍起になって火打石を回すうちに、火花は散るのになかなか燃え移らないライターへ自分を投影していた。泣きそうになりながらもダメ押しで擦ると、ようやく、控えめな火が灯った。
よし。これで、ちゃんと訊ける。安堵と、不安の混ざった煙を吐き出して。
「おまえはどう? 俺といて、なんか嫌なこととかないか?」
じっと、彼の瞳を見つめて問いかけた。
「僕は……センパイさんと一緒が良いです。嫌なことなんて、一つもありません」
笑いそうになるくらい情けない声で、誠くんはそう言った。合わせた視線は、数秒の間しか保たずにビュンビュンと泳ぎだす。
しまいには、強張った顔を真っ赤にして、窓の外に視線を逃してしまう。
——なんだよそれ、ずるいよ。
一緒がいいとか、嫌なことなんてないとか、本当にずるい。どうとでも受け取れる返事なんて、今は欲しくない。でも俺だって、ちゃんと想いを言葉にしていなかったから、お互い様なのかもしれないなぁ。長いこと一緒だったから、今更どう言葉にしていいかわからないんだ。
そんな俺の思考を置いてけぼりにして、身体が動き出す。まだ長いタバコを押し消して立ち上がると、未だ目を泳がせてそっぽを向いた誠くんを見る。
思い立ったらすぐ行動するのが、俺の悪い癖だろ?
俺はちょっと八つ当たりみたいな勢いで、彼の背中にしがみついた。
「エフッ」
誠くんから、情けない音が漏れる。
「ほんとうに、昨日はごめん! ちょっと、順番、間違えたけどさ、お、俺……」
今日一日、ガバガバになった涙腺から涙が溢れ出す。生まれて初めて心の底から好きになった人に想いを伝えるのが、こんなに怖いことだとは。それでも、いちばん大切なこと、言わなくちゃ。今すぐにでも折れてしまいそうな弱い心を無理やり鼓舞して、がむしゃらに言葉を続けた。
「誠くんのこと、好きだ」
あまりにも短くて、飾り気のないことば。
これだけのことが言えなくて、俺は……。
もう、涙も鼻水も、嗚咽もぜんぶ我慢できない。
「君の、気持ちを聞かないまま、あんなことして、本当にごめん。こんな……ずるくてアホな俺でよかったら、これからも、一緒にいてほしい……」
俺の言葉を最後まで聞き遂げた彼は、しばらく微動だにしなかった。彼は見事な硬直のあと、何かを言おうとしたり、よくわからない形に手をわきわきさせている。俺は、溢れて止まらない涙もそのままに、だんだん高くなっていく彼の体温を感じていた。
そして、もう少しだけ、こうしていたいと厚かましくも思ったとき、彼がついに口を開いた。
「あ、あの、センパイさん。あ、いや、ま、真輝さん……」
「……なに?」
「ぼ、僕、金髪ピアスとかちょっとやんちゃっぽい女の子、めっちゃタイプなんですよね実は。ウェへへへ……」
彼は少しテンパってるのか、気持ち悪い笑い方をする。
「……知ってた」
少しだけ意地悪な口調で告げると、彼が大きくビクついた。ふふ、面白い。
そして、ついに。
「マジすか……。えっと、その。こちらこそ、僕でよかったら、よろしくお願いします」
胸を押しつぶす緊張が、ぶわっと霧散した。
さっきまで苦しかった涙が安堵の涙に変わるのを感じて、思わず腕を前に回してしまった。すると、抱きしめた身体が、緊張したのか強張った。
ああー誠くんの背中大きい……。服は全部あげたやつだから慣れ親しんだ匂いなんだけど、その奥から彼の体臭だろうか、胸がざわざわする匂いがする。
——可愛いすぎかよ。
俺の思考回路がいよいよヤバイ。それに誠くん、あんまり可愛いって言ったら怒るかな。男の子は自分に向けられる可愛いを褒め言葉として受け取り難いところがあるのは、俺もそうだったからよくわかる。彼もそうなら、その時はどんな反応をするだろう。はにかみながら照れ臭そうにするかもしれない。そういうところ、想像するだけで、胸に暖かいものが満ちていく。
「んんんー」
思ったよりも甘えた声が出てしまって、自分でも少し恥ずかしいけど、そういう気分なんだからしょうがない。
気分だからしょうがないね。
「今日さー、泊まってけよ。明日日曜だし」
「きょ、今日っすか……?」
「んー。その、なんだ。……もうちょっと、一緒にいたい」
「ンンーッ!!」
素っ頓狂な誠くんのリアクションに笑って、彼の肉の薄い背中に頬をグリグリと押し付けた。
****
「お、ベンジーちゃんお疲れー」
いつもの喫煙所にて、加熱式タバコをふかすベンジーちゃんと出くわした。
「あ、お疲れ様ですぅ……ん!? センパイさんスカート履いてる!?」
そう、ロングなやつだけど、ついにスカートを買ってみたのだ。麻の混じった布地の手触りが涼しげで、値段も手頃だったのでいい買い物をしたと思う。それにちょっとレトロな柄のTシャツをタックインしてみれば、まあ、そんなに悪く無いのでは? という見た目になった。
それと一応、靴もちょっとだけヒールのあるサボサンダルにしてみた。ほんとにオマケみたいなヒールなので全然歩ける。なんなら就活用の革靴のほうが歩きにくいくらいだ。
「うん。いよいよ暑くなってきたし、物は試しだと思って、ね」
彼女の隣に並ぶと、斜めがけにしたサコッシュから加熱式タバコを取り出した。
「あら、紙巻もやめたんすか」
「え、ああ。ちょっとね。匂いとかもあるし、こっちの方がいいかなと」
「はえー、センパイさんが……」
顎に手をやってしみじみと唸る彼女を横目に、タバコの準備を進める。
が、加熱時間がなんともじれったい。
「あ、そういえば」
「はい?」
「無事というか、なんというか。俺……じゃない、私、メコンくんと付き合うことになりました。ちょっと遅くなったけど、ご報告」
「ほえー、それはおめでとうございますぅ……」
間抜けな声をあげて、力の篭っていない拍手をするベンジーちゃん。
あれ、意外と反応が薄いな……。
しばらく拍手を続けていた彼女だが、だんだんとそのテンポが遅くなってついに止まると、ゆっくりと目を見開いた。
「え、あれ。これマジっすか? ラブなやつっすか?」
「センパイ、嘘ツカナイ」
ベンジーちゃん、ようやく意味を理解したのか、小刻みに震えはじめた。
えっなにこれ、怖……。
「うえっ、ヌアッ……じゃ、じゃあ、最近メコンさんの服の雰囲気が変わったのって……」
「男だった時の服、殆どあげたからそれかも」
「なんと……なんと……」
とうとう彼女が壊れた。
「どうした、大丈夫か」
「すばら……すばらし……オエッ……尊みが……」
あっ、ダメみたいですね。目が完全にキマってる。
しかし彼女の超回復は見ものだ。無事再起動が終わったのか、口元をぬぐいながら私に詰め寄ってきた。
「せ、センパイさん、週末飲みに行きましょ、ね? 私全部出すんで、行きましょ? お酒ですよ、行きますよね?」
「あっはい。行きます、行かせていただきます……」
ようやく準備の整った加熱式タバコの吸い口を咥えて、ベンジーちゃんの猛攻を適当なところで切り上げる。
紙巻とは違う、なんとも物足りない味わいを残念に思いながら、目を爛々とさせているベンジーちゃんを横目に見る。彼女は「おっひょぉおおお」なんて不気味な声をあげスマホをえらい勢いでシュパシュパしている。すっげ、爆速両手フリック入力だ……。
——みんないい子だなあ。
「ふふ」
私はかたちの変わってしまった幸せを噛み締めながら、小さく笑った。
「んー、それじゃあ、肝機能バチバチに仕上げて行くから覚悟しといて」
「えっ……あの、お、お手柔らかにぃ……」
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