第3話
僕はキッチンへ引き返すと、食器棚から大型のタンブラーをふたつ取り出す。勝手知ったる他人の家だ。そのふたつを水道水で満たすと、再び部屋に戻り、テーブルに置いた。横目で見ると、まだセンパイは眠っている。ブラをつけていない胸が露わになっているため、タオルケットをかけてあげた。
「くっそ頭いてえ……」
独りごちると、床に脱ぎ散らした衣類からシャツを拾い上げ、もたもたと着た。居酒屋とたばこ、こぼしたウイスキーのにおいがする。くせえ。
閉め切ったカーテンの隙間から、梅雨入り直前の強烈な日差しが差し込んでいる。指先でカーテンの隙間を広げると、燦然と輝く新緑が飛び込んできた。センパイはこの部屋からの景色が気に入っている。毎年、季節によって見えるものが違うと力説していたのを思い出す。差しこむ光の筋ははっきりと熱く、触れれば掴んでしまえそうなほどだった。
そのまま座椅子ソファへ腰をおろし、横になった。頭は昨晩のことを途切れ途切れに再生してきていたが、ひとまずもう少し眠りたかった。
スマホのアラームで目を覚ます。9時半のアラームだ。特に予定がなければ、いつもこの時間に起床しているが、いまだに頭痛はひどく、胸中に充満する吐き気は治りきっていない。今朝方汲んだ水を飲むため、上体を起こす。すっかりぬるくなった水を半分ほど飲み込み、右側のベッドを見た。センパイは少し姿勢を変え、左半身を下に、両腕を枕にして眠っている。なんて綺麗な顔で眠っているんだろうと考えていると、センパイはゆっくりとまぶたを開けた。
目があった瞬間、ガバリと起き上がったセンパイはトイレに飛び込んでいった。ああ、限界だったのね。もそりと僕も立ち上がり、センパイ用のタンブラーを持ってトイレに向かう。水は減っていないので、口をつけていないのだろう。吐くときは水があったほうが楽だ。
「センパイさん、水っす。ここに置いときますね」
トイレの床にへたり込み、便器に顔を突っ込んだセンパイが軽く左手をあげて返事をする。大丈夫、生きてるようだ。念のためもってきたカーディガンを肩にかける。死ぬほどゲロを吐くときはだいたい寒気も尋常じゃない。ほとんど裸よりマシだろう。僕は半分も開いていない目で頷くと、もう一眠りするために部屋に戻った。
またソファで横になり、目を閉じるが、頭痛が邪魔でなかなか眠れない。吐き気はいつの間にかマシになっているが、眠れそうにない。体が知らない疲れ方をしている。
目を閉じ身悶えていると、トイレから何度か嘔吐の音が聞こえてきた。何かあるといけないので、トイレと部屋のドアを開け放っているため、すべての音が筒抜けになる。えずく時の声、苦しさに震えるうめき声も混ざっている。まあ、お相子だ。僕もしこたま吐いた。ここまでひどいのは滅多にないが。
しばらくすると、トボトボ、といった感じの足音が戻ってきた。どうやら、なんとか戦いを終えたらしい。何かを漁る音がすると、声をかけられた。
「水とカーディガン、ありがとう。……風呂入ってくる」
随分とか弱い声だ。僕はなんて返していいかわからず、「んん」とだけ言う。また足音が遠ざかっていった。一体どんな風に振る舞えばいいか、検討もつかなかった。
浴室から聞こえる、シャワーの水音が僕を眠りに誘おうとした頃、センパイの声がした。
「メコンくーん、おねがーい。クローゼットの下の、黒いビニール袋持って来てー」
センパイにしては随分と申し訳なさそうな声色だ。身を起こしてクローゼットの方へ目をやると、確かに黒いビニール袋がそのまま床に置いてある。これか。
「今いきまーす」
ビニール袋を持つ時、中身が見えてしまった。女性用生理用品の諸々である。なるほど。そのまま脱衣所までいくと、バスタオルで前を隠したセンパイが、困り顔で浴室から半身を出していた。
「持って来ましたよ、ハイ。大丈夫っすか」
「あー、うん。サンキュ。いや実は、生理きたみたい……。こんなに早くくるもんなんだな、へへへ……。なんか種類いっぱいあるなこれ」
「生理用はこれっすね。こっちが就寝用。なんか、メモが入ってますね。これもベンジーちゃんからですか? あの子もセンパイさんに懐いてますからねえ」
「ありがてえありがてえ」
「もうベンジーちゃんに面倒見てもらったほうがいいかもしんねっすね」
「自尊心がマッハで崩壊する」
無駄にテンションを下げていってよかった。中身はセンパイのはずだが、ドキリとしてしまう。だって、見た目は完璧女の子だ。しかも、昨晩のこともある。僕のようなクソ童貞野郎には荷が重い。ん? いや、もう童貞じゃない? おやおやおや?
部屋に戻ると、淀んだ空気に気がついた。センパイがあがってくるまでに、換気と片付けをしてしまおう。カーテンを開くと、いよいよ光の洪水だ。アルコール漬けの脳みそには眩しすぎて、涙がでそうだ。そのまま窓を開け、網戸の状態で換気を始める。風はもうすでに夏の匂いがした。そして、部屋が明るくなると、惨状が明るみに出る。『光のあるところに影ができる』とはよく言ったものだ。脱ぎ捨てられ放題の衣服、ゴミ箱から外れたであろうちり紙、テーブルの上に散らかる空き缶、空き瓶の数々。えぇ、ウイスキー飲みきったの……?
軽いめまいを感じながら、テーブルから片付けを始める。自分たちでやったことだが、散らかりように辟易する。缶と瓶、普通ゴミごとににまとめてゴミ袋に突っ込んでいった。
一通り片付けが終わったタイミングでセンパイが戻って来た。今日はハイネケンの柄のTシャツだ。下半身はちゃんとメッシュ生地のハーフパンツを履いている。
センパイは片付けられた部屋を見ると、バツの悪そうな顔をした。
「うわぁ、ほんと悪い。ありがとう……。そうだ、もう着れない服あげるからさ、風呂入ってこいよ。パンツは新品だから! そのシャツとか、めっちゃこぼしたやつっしょ。全部洗濯しちゃおうぜ! あと、今日も泊まってけよ! 明日も何もないだろ?」センパイはなんだか焦ったようにまくし立て、僕にもう着れなくなった男物の着替えを渡す。
「うわー! シーツやば! これも一緒に洗っちゃうかあ? 血って落ちるかな」
センパイは僕と目を合わさず、わたわたと動き出す。手渡された服を持ったまま呆然としてると、ついに背中を押され始めた。
「ほらほらさっさといけ! 残りは俺やっとくから!」
僕がシャワーを浴び終え、部屋に戻ると、センパイはパソコンチェアに座りたばこを吸っていた。
「センパイさん、服ありがとうございます」
「んー。具合どうよ」
「なんかシャワー浴びたら良くなってきたっす。僕も吸っていいっすか?」
「ん」センパイは僕にライターを差し出す。無骨なシルバーのジッポーだ。
「あざっす」手渡されたライターで火をつけると、普段のガスライターでは感じないオイルの匂いが鼻に入った。センパイのにおいのひとつだ。
煙を吸い込み、吐き出す。こういう時、たばこは静かな間を与えてくれる。しばらく無言で、窓の外を眺めた。先に吸っていたセンパイが2本目のたばこを咥えると、火をつける前に口を開く。
「メコンさ……、昨日のことどれくらい覚えてる?」
「……2回目ヤったとこまでは覚えてるっす」赤面しつつ答える。
「あー、あそこまでか」センパイはフッと笑うと、たばこに火をつけた。
「やっぱ、この感じだとあの後も飲んだんすよね」
「そうね。俺も結構記憶ねえけど」
再び沈黙が訪れた。気まずさが満ちる。
「センパイさん。本当に、すみませんでした。酒の勢いとはいえ、その……」僕はセンパイに向き直り、頭を下げる。
「あわわわ、やめろやめろ。いいんだ。俺も悪かった。いや……、俺が悪いんだ」
顔をあげると、センパイはうつむきながら続けた。
「俺さ、急にこんなんなって、マジで訳わかんなくってさ。実は最初おまえがウチにきた時、起きてからちょっと経ってたんだよ。そしたらお前が来てさ、お前ならいつも通りにふざけてくれるんじゃないかって、ドアを開けたんだよ。実際めっちゃ安心したんだ。あーいつも通りのメコンじゃん、って」
「そうだったんすか……」
「いや、だから、その。今まで通り接してくれてるのに、甘えてた。見た目はこんなに変わっちまったけど、おまえは何も変わらずにセンパイとして扱ってくれてさ……。バカみたいに酒飲んでたら、ちょっと悪戯心がな」
「やっぱあれ、悪戯だったんすね」
「悪ぃ。勝手に、冗談としてあしらってくれるって期待してたんだよ。ほんとバカだよ、俺。自分のことしか考えてなかった。普通あんなことされりゃ勃ってもしょうがないよな、ちょっとこの前まで男だったのに忘れてんだ。そんで、チンコ勃ててるのみて、勝手に失望して、あんなこと……」
センパイは、左手で髪をかき上げ、後悔で顔をくしゃくしゃにしていた。右手の指に挟んだたばこから立ち上る煙だけがこの部屋で動いている。絞り出すように続けた。
「だから、もう、元にはもどれないって……。実感したから、俺、サークルやめるわ。学校もやめる。地元帰るよ。今までありがとな、メコン」
「グダグダうるせえなこのほでなすが!! あんたさ何自分だけうだうだ言って、したっけサヨナラかよ! 俺にもちょっと時間くださいよ! あ! 原付借ります! 逃げんなよ!」
頭に血が上った僕は、思わず怒鳴り上げ、センパイの部屋を後にした。
はじめてメコンが怒るところを見た。唖然としていると、メコンはズカズカとヘルメットと原付のキーをひったくり部屋を出ていった。
まるで自分だけが部屋に取り残されたかのようだ。ふと灰皿をみると、吸いかけのたばこがくすぶっている。おまえも置いてけぼりか。鼻で笑うと二本のたばこをもみ消した。外から、走り去る原付の音が聞こえる。部屋に満ちる静寂が耳に痛い。そっと、椅子の上で膝を抱えた。
胸の中も、からだも、今まで知ることのなかった痛みを訴えている。
「おなか痛い……」
レースのカーテンが、風に揺れるのを眺め呟いた。
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