第2話

 今では肩身の狭い喫煙者たちの憩いの場、喫煙所。昨今急激に禁煙・分煙がすすみ、喫煙できる場所も少なくなってきた。だがしかし、このキャンパスには一箇所穴場的な喫煙所がある。増改築を繰り返し、迷路のようになった屋外階段の先、教職員用の駐車場の脇にある喫煙所は、有志たちの手によってソファやベンチなどの設備が充実していた。アクセスの悪い場所なので、いつも閑散としているが、ゆっくりと喫煙を楽しむにはもってこいの場所だ。1日の学校を終えた僕は、サークルに顔を出す前に一服しようと、その喫煙所を訪れた。

 そんな喫煙所で、高校生くらいの金髪の女の子が死んだ顔で紫煙をくゆらせている。

「センパイさん……。どしたんすか。顔死んでますよ」

「おー、メコンくんじゃあないか。ヘイラッシャイ。聞いてくれるかい?」

「まあ、いっすよ」

「内定先にこのこと話したら、そんなバカなことがあるかって内定取り消しになったんじゃよ……。嫌だァア俺もう就活したくねぇー……」

「あちゃー」

 この金髪拡張ピアスの女の子はセンパイさん。僕のサークルの先輩で、写真の天才だ。もともと男性だったが、つい先日なぜか女性になってしまった。原因は酒の飲み過ぎでよくわからないらしい。

「あ。ほらほら、免許証と学生証見てみ。全部写真かえてもらったわ」

「へーこんなことできるんですね。更新とか以外で」

「いや、それがよくわからん……?」

「?」

 この件以来、不思議耐性がついてしまったのか、脳みそが真面目に情報を処理してくれないので、まあそんなもんか、と済ませてしまう。


 ——あーセンパイさん、髪染め直してる。


 髪の毛のダメージが激しい部分をバッサリ切ったためか、髪型がショートボブになっている。この人がこういう格好をするとすこぶる良く似合うんだ。黒子の位置や整った鼻筋にこれまでの面影を見る。なんだかんだ馴染んでいておもしろい。


「なんだよメコンくん惚れちゃった?」

「いやあ滅相もない。というかセンパイさん化粧してます?」

「さっきサ室行ったらさ、ベンジーちゃんに襲われちゃって……」

 センパイは遠い目をする。なお、ベンジーちゃんとは、同じサークルの後輩の女の子である。椎名林檎が好きと自己紹介してきたので、みんなでベンジーと名付けた。こんな具合に、それぞれあだ名がついているため、場合によっては本名を知らない部員が居たりする。おそらく一年生の何人かは僕の本名を知らないだろう。

「なんか疲れたわー。メコンくんはこれからどうすんの? うちくる?」

「いや、ちょっとサークルに顔だして来ます。来月の展示会のやつ現像したいんで。終わったら行きます」

「あーそういえばそんな時期か。俺のやつまた選ばれないんだろうなー」

 センパイは写真の天才だ。シャッターを切れば、路傍の石ですら完璧な作品にしてしまう。ただ、テーマが少しでもあると途端に平凡になってしまう。本人曰く、大学から始めたせいで基礎がないんだというが、彼が気まぐれで取る写真は全て美しい。たとえ同じカメラ、同じ設定、同じ場所・構図で撮影しても、雲泥の差が生まれる。追いつこうとあがき、知識や技術を蓄えるほど突きつけられる、天性の才能。恨むべきは、才能のブレ幅が酷すぎて、職業カメラマンとしては絶望的だということだった。

「いつもの感じで撮れれば無敵なんですけどねー」

「ダメな時は何千枚撮ってもダメなんだよなー。ん、じゃあ俺帰るわ。また後で」

「うっす。お疲れ様です」「おつかれー」

 大学生の挨拶は基本「お疲れ様」である。朝だろうが夜だろうがお疲れ様。疲れてなくてもお疲れ様。乾杯の音頭もお疲れ様である。万能か。

 センパイの去った喫煙所で、吸いかけのたばこをもみ消した。


「お疲れ様でーす。しつれいしまーす」

「はいはいおつかれおつかれ」

 なんだかんだ暇があると、こうやってセンパイの部屋にお邪魔する。気がつけばそうなっていたし、これからも変わらなさそうだった。ただ、そうすると、どうやってセンパイは彼女と付き合っていたんだろう。鉢合わせたことすらないのが謎である。

「まーた昼間っから酒飲んでるんすか」

「晴れた日に昼間から飲むビールは最高だな!」

 大きくため息を吐き、センパイを見据える。

「大筋同意っすね!」

 かく言う僕も、だいぶこの人に毒されてしまっている。この前高校の同級生と飲みに行ったら、哀れみの表情で「なんか変わったね」と言われた。

「そういやさ、こうなってからコンビニでもなんでもすぐ年齢確認されんの。あと夜中歩いてるとめっちゃ補導されかける」

「マジすか。あ、いや。納得ですね。どう見ても不良少女っすもん。でも、免許証変わったならこれから楽じゃないすか」

「と、いうことで」いままでだらだらしていたセンパイが急にすっくと立ち上がり、右腕を振り上げた。

「イクゾー! パイセンと行くおビールの旅! 年確なんて怖くないぞ編! はじまり!」

「イエース! はやくおビールちゃんに会いたいぜ!」

 なにせ明日は土曜日だ。遠慮はいらない。

「んで、どこ行きます」

「近いしいつものとこでいいだろ」

「うっす」


「イラッシャッセーイ! お客様何名様ですかー?」

「二人でーす」

「お二人様ですねー! 奥の小上がりの席どうぞー!」

「ありしゃーす」

 そういうことで、僕たちは近所にある行きつけの居酒屋にやってきた。なかなか早い時間から営業しているので、いつもお世話になっている。

「あーどっこいしょー」

「……その見た目でその感じ、ヤバイっすね」

「どう? 何かに目覚めそう?」

「いやーキツイっす」

「「ガハハ」」

 しっかり部屋でビールを一本ずつ飲んできているので、コンディションは良好だ。

「すみませーん! 注文お願いしまーす」「ハーイ只今ー!」

 センパイが店員さんに声をかける。しかし、声を張ると意外にアニメチックな声だ。狙ってやってるのだろうか。ほどなくして店員さんがオーダーを取りにくる。

「お伺いしまーす」

「えーと、生大ジョッキ二つ、甘エビの唐揚げ一つ、枝豆一つ、あと何かいる?」

「僕は大丈夫っす」

「えーと、お客様、恐れ入りますが年齢の確認ができるものはお持ちでしょうか?」

「ホイ来た! 免許証を守備表示で召喚!」まさかの掛け声で免許証を差し出す。

「……ハイ。ご協力ありがとうございます。少々おまちください」

 あんなに元気のよかった店員さんから覇気が消えた。なんだか申し訳ないことをしてしまった気がする。

 そんな僕の思いをよそに、センパイは満足そうな顔でラッキーストライクに火をつけた。無駄に今のビジュアルにしっくりきている。

「……もしかして攻撃表示のほうがよかったかな」

「文字の組み方からして守備表示で正解だと思いますよ」

「おっ、今の言い方デザイナーっぽい」

「いやあセンパイさんの作品レイアウトできるの僕ぐらいっすからねー」

「おめこの、言うじゃん」

「「ガハハ」」

 ひとしきり笑うと、僕もたばこを咥える。火をつけようとすると、ライターがない気がする。

 ポケットをまさぐっていると、センパイが身を乗り出す気配がした。

「火ィかしてやんよ」

「あざっす……」

顔を上げると、目の前にセンパイがいた。驚いて固まっていると、僕が咥えているたばこの先端に、センパイのたばこがくっつく。目で訴える。『吸え』。

ゆっくり吸い込むと、ラッキーストライクから火種がじわりと僕のたばこへ移っていく。数回ふかすと、しっかりと燃焼を始めた。

「あ、ありがとうございます……」

「これやってみたかったんだよねー! 男同士でやってもムサいしさ!」

「たっ確かにそうっすね……。へへっ」

「ハーイ生大ふたつお待ち。こちら本日のお通しでーす!!」

先ほどの店員さんにも覇気が戻ったようだ。よかったよかった。


「だからあ、なんでみんなセンパイさんのすごさが分かんないんすかね! 僕ね、このサークル入ったのセンパイさんの作品にあこがれて入ったんすよ! それなのにほかのみんなぜんっぜんセンパイさんの作品の良さがわかってない。とくにあのデブ、自分がボンボンで機材いいからって調子乗ってんすよ」

「それなぁー! わかってんだよ俺だって。なんかこういい感じのときと悪いときがあってさー! なんかよくわかんねえわ!!」

「もうほんと最高なんすよお。1ミリも1ピクセルも不必要なとこがなくて、どんな書体だって重ねらんないんすよ。ヘルベチカですら! フルティガーのおじいちゃんも天国でびっくり! 僕がセンパイさんの作品集作るならもう絶対見開きだけ。日めくりカレンダー!」

「馬刺しうめえ!」

 めちゃくちゃである。もう飲み始めて4時間経つ。

「あーそうだ、センパイさん。僕ライブハウスでカメラマンのバイト始めたんすよぉ。なかなか面白いっすよ。風景とか、ポートレートとかとも違う感じで」

「マジでー? おもしろそうじゃん」

 持参のタブレットをセンパイに渡した。画面を撫でる細い指先を目で追いながら、心地よい酩酊感を感じる。口さみしさを感じ、たばこの箱を手に取るが、中身はもうない。どうやら、センパイもすでに吸いきっているらしい。まいったな。もうそろそろお開きかもしれない。いやだなあ、帰りたくねえ。

「いや、これ俺には難しそうでむりだな!」

「そうっすかねえー。……たばこもないし、お会計しますー?」

「あー、飲み足りねえし、うちで飲むか!」

「マジすかー。オッケーでーす!」

「すみませーん、お会計おねがいします! メコンちゃん、これで会計頼むわ。俺ちょっとトイレ」

 センパイが机に万札を一枚置く。

「了解っすーお気をつけてー」

「ああー世界がまわるぅー」

 ふらふらとお手洗いに向かうセンパイの背中を見送ると、店員さんが伝票を持って来た。

「あざーっしたーこちら本日のお会計でーす!」


「これで、お願いします」「ありゃーす! またお越しくださいませー!」


 会計後、バッグやスマホなどの忘れ物がないか確認していると、ずいぶんお手洗いにしては時間がかかっていることに気がついた。

「なんだべ。センパイ遅いな」

 確かこのお店はお手洗いが個室一つだけで、今のところ出てきた形跡はない。少し心配になり、様子を見に行くことにする。個室のドアを、おぼつかない手でノックする。

「センパイさーん、だいじょうぶっすかー? 生きてますー?」

 するとすぐに、トイレを流す音が聞こえた。ほどなくして、ドアが勢いよく開くと、個室の中に拳を突き上げたセンパイの姿があった。

「なにしてんすか。いきますよぉ」

「全部出した! まだ飲める!」口元をティッシュで拭いながら言う。どうやらゲロってたらしい。

「いいぞ! 古代ローマ人の鏡!」

 適当なことを言い、個室から引きずり出す。いつの間にか後ろに順番待ちができていたので、会釈しながら店を出た。


「そうして我々おビール探検隊は、メコン川の源流を探るべく南米アマゾンに降り立った……」

「メコン川は東南アジアっすね! なに買いますか、ウオツカいきますか」

「家にウイスキーとズブロッカあるからいらなーい」

「じゃあおビールにしましょう。IPAが最高っすよね」

「もしかして、ビールって無限……?」センパイが目を見開き、両手を口元に当てる。大げさに驚く女性のあのポーズだ。

「「ガハハ」」

 タチの悪い酔っ払い二人の夜は続く。


「ひあーついたついた。ただいまー」

「ただいまっす」

 千鳥足でふらふらと歩いたので、思ったより時間がかかった。ようやくセンパイの部屋に戻ると、テーブル中央に先ほどの戦利品をそなえる。部屋を使う時、毎度の貢物だった。いつもの座椅子ソファにどかりと座り込むと、早速新しいビールに手を伸ばす。

「いえーいかんぱーい」「かんぱーい」

 今日何度目かの乾杯を交わす。しこたま飲んでるはずだが、やっぱり普通のビールに比べるとIPA(インディア・ペール・エール)は一味違う。強烈な柑橘類の香りにびりっとくる苦味。いくらでも飲めそうだ。

「いやあでも、センパイさんが吐くなんてめずらしいっすね。どしたんすか。女の子になったせいすかね」

「いやー、酔っ払いかたね、かわんないけどぉ、お腹たっぷたぷで入んねえの。悔しいわー。なんだか腹いたいし」

「うんこっすか。だせばまだ飲めるっすね!」

 ただのバカふたりがベロベロになっている。

「ウイスキーに、切り替えていくぅ」

「あーいっすね。僕もこれ飲んだらくださいよ。飲みたひ」

「ああー、あっちいー」

 そう言うと、センパイが服を脱ぎ始めた。そういえば、この人は家で酒を飲むとすぐパンイチになる癖がある。それを見た僕はサッと酔いが引くべきところだが、あいにく昼間から深酒をしている。もうアルコールの引く場所がなかった。

「やったー! おっぱいだ! 神様ありがとう!」

「うるせー飲めー!」

 無事ブラとショーツだけになったセンパイからウイスキーの瓶をそのまま口に突っ込まれる。熱い液体が喉を焼く感覚が襲う。しかし、豊かな香りが後を追い気がつく。

 ——シーバスリーガルのミズナラだこれ! 微妙にもったいねえ!

 強いアルコール感にむせながら、瓶をもつセンパイの腕を押しのける。おかしい。こんなにセンパイって押しが弱かったっけ? まあいいや、目には目を、歯に歯をだ。ハンムラビ法典にもそう書かれている。瓶を奪い取り、センパイにもお見舞いする。見える範囲の肌色が真っ赤に染まっている。

「うえー! きっつい! ビールビール」

「やっぱチェイサーにはぁ、バドワイザーっすよねぇ!」

 お互いすっかり酒クズである。軽めのビールはチェイサー。いいね? 積極的に僕らは地獄を呼び込む。唸れ肝臓、命を燃やすんだ。


 ビールを一通り飲みきったセンパイは、不敵な笑みを浮かべ、紅白に塗られた缶を握り潰すともう一度ウイスキーを口に含み、ずいっと僕に迫った。

 僕は唇を奪われた。いや、奪われたというのは気取りすぎているかもしれない。大学生の定番、ウイスキーの口移しだ。しかし、液体だけではなく、柔らかな舌も僕の口内へ侵入してきた。瞬間、僕の頭の後ろの方で火花が散る。随分と細くなった指が僕のシャツごと肩を、二の腕をきゅっと掴む。

「んんっ」

 情けないことに、初めての感覚に僕の下半身は反応してしまった。随分と長く感じた一瞬のあと、センパイが唇を離す。口元を腕で拭い、僕の股間へ手を重ねる。

「うわー、なにこれ、ビンビンじゃん。そういうこと考えてたん?」

 煽られた僕は、反射的にセンパイの両手首を掴み、そのまま体格差にまかせ、ベッドへ押し倒していた。

「いっ、いや、センパイおかしいっすよ。酔っ払ってんすか! 本気にしちゃいますよ!?」

「うるせー童貞やろー! やるならやってみろぉ!」

「なっ、このやろ、もう知らねえからなっ!」

「……バーカ」

 そのあとのことは、よく覚えていない。



 ——意識が戻ってきた。死ぬほど頭が痛い。まぶた越しに伝わる陽光から、すっかり日が昇っていることを感じる。最悪だ。明らかに飲みすぎた。胃からせり上がって来る不快感に耐えようとするが、耐えれば耐えるほど大きな波が押し寄せる。

 口の中に唾液が溢れ出す。限界だ。僕は驚くほど俊敏に起き上がり、トイレへ駆け込んだ。なんとか便器の蓋を開けた瞬間、堰を切ったように嘔吐する。うまく吐けず、鼻からも汚物を吹き出す。一晩胃の中で消化された内容物は強烈だ。2度3度嘔吐を繰り返し、涙がにじむなか、もう金輪際二日酔いは勘弁だ、しかし翌日にはもう忘れているんだろう、などと思考を巡らす。


 まてよ、なんで僕はパンツ一丁なんだ?


 頭がガンガンする。駄目押しの不快感がこみ上げる。ほとんど胃液だけの嘔吐をした頃、なにがあったかを思い出した。

 ふらつく足取りで洗面所へたどり着き、顔を洗う。そこらへんのタオルを拝借し、水気を拭き取った。いや、まだ勘違いかもしれない。そう鏡の中の僕へ語りかけると、意を決して部屋に戻る。

 清潔な朝日が差しこむ部屋、壁際のシングルベッドには、ショーツ一枚のセインパイが眠っていた。白いシーツにはところどころに血が滲んでいる。開封されたコンドームの袋。

 僕はセンパイとセックスしてしまった。

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