第30話 違うかもしれない
何だかんだで一時間ほど続いた俺達の勉強会は、予想通り大体は俺が神籐さんに教える形となっていた。
膝立ちでずっと自分のノートを見ていると辛いというのもあって、時々立ち上がっては神籐さんの勉強を見たりしていたんだけど、途中からはほぼ立ちっぱなしで、自分の勉強はあまりしていなかった。
まあ、それがなければ勉強がちゃんとできたかというと怪しいから別にいいんだけど。
至近距離に誰かがいる時に集中するというのは結構難しいらしい。
「ふ~~~……」
というわけで、明らかに時間分以上の疲れを追った俺は「休憩しよう」と提案して一階まで逃げてきていた。
何だか、まだ心臓が異常な働きをしている気がする。
神籐さんが部屋にいるせいか、それとも隣にいたせいか……いや、どっちもか。全部神籐さんが悪いのははっきりしてる。
「栖原……リラックスできる飲み物がほしい」
「今は緑茶くらいしかないですね」
「うん……お茶なら何でもいい」
ひとまず何か飲めればいい。今なら「○○の美味しい水」みたいな飲料水も本当に美味しく飲める気がする。
「ふぃー……」
栖原からもらった緑茶を飲み干して、HPが10程度回復する。
喉がカラカラだったせいか体に緑茶が染み渡る。
「……今寝たらよく眠れるだろうな」
「緑茶のカフェインで数十分後には目が覚めるでしょうし良い昼寝になるでしょうね」
「それはいい昼寝になるなー……」
午後に元気よく活動するためには昼寝が効果てきめんらしい。
ここはこの後の勉強に備えて少し寝るのもアリかもしれない。
その場合結構回復した状態で夜まで過ごせる気がする。
あわよくば寝過ごして神籐さんには夜一人で――
「ただ、その場合家の中は全部見られるでしょうけどね」
「そうだった!」
全然リラックスしてる場合じゃなかった!
何だか神籐さんとの距離がいつもより近いせいでいろいろ気を取られてたけど、今日は俺の嘘に気づかせずに帰ってもらうという超絶重大ミッションがある。
気を抜いたらやられる。ヤバい、今何分休憩してた……?
「じゃあ行ってくる!」
「お菓子はもう必要ありませんか」
「うーん、まだわさび味が残ってるからいい!」
栖原が手に持ってた唐辛子味も気になると言えば気になったけど、別にそれは今じゃなくても食べられるからいい。
急いで階段を駆け上がって、自分の部屋の前に立つと、中からカチャカチャ音がした。
「神籐さん!?」
「なに?」
「あ、何もしてな――いやしてるか」
まるで何もしていないかのような「なに?」だったから一瞬騙されたけど、回り込んでみたら普通に机の引き出しを開けてた。
まあでも今回は大人しくしてるように言ってなかったから仕方ないな。
それに、俺は何も入っていないと思っていたけど、栖原が用意しておいてくれたのか、引き出しの中は別に空ではなかった。
「あー……眼鏡?」
「うん、優太郎のでしょ?」
「ああ、まあ。そこに入ってたんだ」
「え?」
「あ、何でもない」
驚いたりはしてないです。自分で入れたやつなので。
個人的には、俺の眼鏡じゃない、みたいな反応が出なかっただけマシだと思う。
ただ、それはそのはずで、ここに五つくらい並んでる眼鏡は全部、ちゃんと俺が持ってる眼鏡だった。
そういえばいくつか家(本物)から持ち出していいか栖原に聞かれてたな。
「なんでこんなに持ってるの? 眼鏡」
「……趣味、みたいな?」
「へぇ」
純粋に変人を見るような目で見られる。
神籐さんにだけはそんな目で見られたくなかった。
「……いや、と言ってもちゃんと使ってはいるんだけど……これとかはブルーライトカットでさ」
「ふーん」
そう言いつつ、神籐さんはレンズを見ながら「触っていい?」と聞いてくる
実は全部ブルーライトカットで実は全部度が入ってないことに気づかないなら触ってもいいよ、と言いたかったけど、ここで拒否するのも変だから渋々頷く。
一応、眼鏡に触っても神籐さんが何かに気づいた様子はない。
さっき、眼鏡をこんなに持ってるのは趣味と言ったけど、それはあながち嘘というわけでもなく、この眼鏡は全部高校に入る前に集めたものだ。
どういう眼鏡がよりオタクっぽく見えるか、試行錯誤した末のブルーライトカット眼鏡コレクションだったりする。
そう考えると普通に変人かもしれないな。
「これ、家でしか使わないの?」
「……んーまあ、そうかな」
一応家でもブルーライトカットのために眼鏡は掛けてるんだけど、学校に掛けていくのは、今掛けてるフレームが太めの丸メガネと決めていたりする。
こういうメガネはオシャレな人が掛けてると映えるけど、オタクが掛けると一気にいい感じにダサく見えるからオススメだ。
岩須と道下とはこの眼鏡で友達になれたと言っても過言じゃない。
そうやって眼鏡を見ながら話していると、神籐さんはいきなり振り向いて俺の顔を見てくる。
当然俺は顔を横に向けたけど、神籐さんはそんなこと関係なく椅子から立ち上がって、
「こっち掛けて見せてくれない?」
「……なんで?」
「見たいから」
神籐さんは「話したいから」と言う時と同じ顔でそう言う。
手に持っているのは普通の楕円形の黒フレームの眼鏡。丸メガネを買おうとした時に「こっちの方が似合いそうですけどねぇ?」と店員さんに丸メガネの代わりにオススメされた無難なやつ。
個人的には無難過ぎて何の感想も出てこなかった。
「……掛けても何の感想もないと思うけど」
「じゃあ見せてよ」
「じゃあ」の意味がよくわからなかったけど、掛けないと勉強に移ってもらえなさそうなことは理解できたから、渋々眼鏡を外す。
別に視力は悪くないから立ち上がった神籐さんの顔は変わらずよく見えるんだけど、神籐さんはよくわからない顔で俺の顔を見ていた。
……どういう心境で眺めてるのかわからないけど、なんか裸でも見られてるみたいで恥ずかしいな……。
「ん、そっちの眼鏡……」
とりあえず早く服を着たかったから、神籐さんの持ってる眼鏡を渡すよう手を出す。
「っああ」
――ただ、見上げてるせいでその手が見えなかったのか、神籐さんは急いで眼鏡をこちら向きに広げて。
目の横に眼鏡のつるが当たり一瞬目を瞑ってしまった後、神籐さんの手と顔が、すぐそこにあるのが眼鏡越しに見えた。
「…………」
「……どう?」
「…………いや、どう、は、こっちの台詞……なんだけど」
「あっ……確かにね」
「似合ってる」と神籐さんはすぐさま感想を言う。
それとは関係なく、俺は横を向きながら、神籐さんに掛けられた眼鏡を軽く指で押し上げる。
いつもはこうすると少し落ち着けるんだけど、今は全く落ち着けない。
「……じゃあ、ほら、休憩は、終わりで」
「うん……眼鏡はそのままでいいの?」
「別に……変わらないし」
「そうなんだ」
何故か嬉しそうに言う神籐さんを座らせて、俺はそこから少し離れたところに立つ。
とりあえず、何か別のことがしたくて休憩は終わりだと言ったけど、胸の鼓動は全く早さを変えない。
――迂闊だった。
……女子に眼鏡なんて掛けてもらうなんて体験したことあるはずないんだから、俺が落ち着かなくなるのも無理はない。
だが落ち着けラブコメマスター……目の前にいるのは神籐さんだ……。
「……優太郎?」
「いや、ごめん。何でもない」
想定外の事態はあったけど、やることは変わらない。だから俺はさっきまでと同じように机の右側に陣取る。平静を装って。
「じゃあ、正真正銘休憩終わりで」
ノートを確認した後教科書を見て、さっきまでどこを復習していたかを思い出す。
ああ、さっきはこのページの終わりで止めたから、次のページの――
「っ……」
「!」
――そこで無意識に出していた手が、左から出てきた手をぶつかり、俺は慌てて光の速さで手を引っ込める。
その反応は意識してるみたいでめちゃくちゃ恥ずかしくないか、と自分でも思ったんだけど、そんな俺の反応とは真逆に、教科書をめくろうとして俺と手がぶつかった神籐さんは、少しも動かず手を空中に浮かせて固まっていた。
「――あー……ごめん、次のページにしていいよ」
「…………」
「えー……」
恐る恐る隣を見ると、神籐さんは別に金縛りにあっているとかいうわけではないらしく、口を閉じて、まるで考え事でもしているかのような顔で固まっている。
「……神籐さん?」
「…………っああ、次のページ……」
そう言って、一応話は聞いていたのか、神籐さんは教科書のページをめくる。逆に。
「いや逆」
「っああ、こっちね」
「それをもう一枚」
「ああ……こうでしょ?」
「そうそう」
無事教科書のページをめくれたところで、大仕事を終えた神籐さんは「ふー……」と息を吐く。
それはきっと、これから始まる勉強に対して吐いた息で、一瞬手が触れたなんて小学生のような出来事には全く関係ないんだろう。
「ふー……」
……なんか、俺も同じ呼吸をしてるけど。
ただ、この距離に二人で異性といれば、ほんの少しでも意識してしまうのは仕方がないというもので。
それに一時的に惑わされて、心臓が鼓動を早くするのも、仕方ないことで。
「……じゃ、このページからで」
「うん」
――そんな、言い訳めいたことを考えながら、俺は一向に落ち着けないまま、無心でノートに文字を書き続けていた。
◇◆◇◆◇
「……わったぁ……」
午後六時。
国語のテスト範囲を軽く復習し終えたところで、窓の外は昨日道下と岩須が帰った頃と同じように暗くなり始めている。
とりあえず立ち上がり、俺は屈伸して足を伸ばした。
跡がついて赤くなっている膝が数時間の激闘を物語る。
「えー……」
ちらっと机の方を見ると、椅子に座って伸びをする神籐さんの姿。
勉強に疲れたのか、数時間前からずっと口数は少ない。
「神籐さん、もう、帰る?」
「えっ?」
素で驚いたような反応をした神籐さんは、時計を見て「ああ……」と納得したように呟いた。
ここで帰ってもらえないとなると俺は一体どうすればいいのか考えなければいけないところだったけど、神籐さんは意外と素直に立ち上がった。
「両親が帰ってくるから夜まで、って言ってたもんね」
「ああ……うん」
そんな設定あったんだっけ。
残念そうではあったけど、昨日の俺がいい設定を作っていたこともあり、神籐さんは鞄の中にノートをしまって鞄を持った。
「あ……ノート、本当にもらっていい?」
「ああ、もちろん。見直さないと意味ないし」
こういうのは思い出す時に頭に定着するって言うし。
まあ本当は神籐さんの苦手な教科を教えたかったけど、神籐さんが国語でだけ好成績を残していたら少しはいい気分になれる気がする。
当然、教室では誰にも言うことはないだろうけど。
「じゃあ。ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って、俺達は階段を下りて玄関へ向かう。
その間は疲れたからか特に会話もなかった。
そう考えて思い出したけど、今日は本当に夜まで勉強したせいで、神籐さんがいつも言っている「話す」時間は大してなかった気がする。
勉強を教える時にする会話は、神籐さんの中では会話にカウントされていなさそうだし。
そういう意味では、神籐さんにとってはつまらない日だったかもしれないな、と思ったけど、玄関で靴を履いてこっちを向いた神籐さんは、何だか清々しい顔をしていた。
――何か、新しい楽しみでも見つけたような魅力的な表情。そんな表情が直視できず少し目を逸らすと、その間に神籐さんが一歩近づいてくるのが見える。
「最後に言いたいことがあるんだけど」
「……『来週も来たい』以外なら聞くけど」
「そうじゃないから聞いてくれる?」
何だか真面目なことでも言われそうな雰囲気。
その雰囲気を嫌って少し話を逸らしたんだけど、今の神籐さんには通じなかった。
そんな神籐さんの姿を見ながら、俺はどこかに既視感を覚えていた。
あれは、なんだっけな。
「うん……聞くけど」
そう言うと、神籐さんは俺を見たままゆっくり口を動かし喋りだす。
ああ――と、それと同時に、俺はこの状況といつを重ねていたのかを思い出す。
俺に話しかける理由を、初めて神籐さんに聞いた時。あの時と似ているんだ。
興味があるから話したいと言われた、あの時と。
「――私ずっと、優太郎と『話したい』って言ってたでしょ」
「うん」
興味を満たすために、俺と話すこと。
それが今まで俺が認識していた神籐さんの目的だった。
ただ。今日。この時点で。それは「過去形」になっていたようで。
「あれ――違うかもしれない」
そう言って、照れ隠しのように微笑んだ神籐さんは、玄関の扉に手を掛けて「ばいばい」と帰っていってしまった。
そんな一瞬の出来事に脳が対応できず――俺は手も振らずにその場に立ち尽くしていた。
「…………その先は?」
違うなら――今は何が目的なんだ?
話す以外の何を――今日は求めていたんだ?
無事に終えたと思っていた自宅訪問。
しかし、その最後にヒントのないクイズを渡され、俺はその答えは見られないまま、俺と神籐さんの勉強会は終わりを迎えた。
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