第3話 おはよう、優太郎?

 光永みつなが優太郎ゆうたろうは、光永グループ創業者である光永一郎いちろうの一人息子だ。


 光永一郎、いや、父さんは33歳の時に起業し、ITサービス業を中心に僅か数年で大成功を収めた。

 妻、いや、母さんの智恵とは35歳の時に結婚。37歳の時長男の優太郎、つまり俺が誕生。


 俺の誕生から16年が経つ頃には、父さんは日本有数の資産家として世間に知られるようになっていた。


 おかげで俺は、何一つ苦労することなく生きてきた。


 物心ついた時には家は子供心に恐怖を憶えるほど大きい豪邸で、欲しい物は勉強のご褒美として全て手に入り、やりたいことがあれば何でも専門の先生が家まで来て俺ができるようになるまで教えてくれた。


 資産家の息子だからと言って世間が思うような堅苦しい不自由があったわけでもなく、ゲーム、アニメ、スポーツに映画、いろんな娯楽に触れることもできた。


 まさに誰もが羨むような、自由かつ豪勢な生活だったと思う。


 ただ、そんな生活は、自分で言うのも何だけど、俺と父さんの関係だから成り立っていたんだろうな、とも思う。


 父さんは、勉強だけしっかりすれば後はいいという考えの人で、俺は勉強は得意で苦にはならない人間だったから。


 勉強すれば何でも手に入る、逆に言えば勉強をしなければ何も手に入らない環境の中で、俺はそれを苦にせず、父さんにも何一つ文句を言うことなく育ってきた。


 それは一般的な家族の形とはかなり違ったかもしれないけど、忙しく父さんに、迷惑を掛けないことに関してだけは、俺は少し自信さえ持っていた。


 だけど、そうして育ってきた中で俺はたった一度だけ、父さんと長い話し合いをして、ちゃんとした形で頼み事をしたことがある。


 今思えば、突拍子もなさすぎる頼み事だったけど、父さんはまともに俺のわがままに向き合ってくれた。

 そして、高校三年間を使った大規模なお願いも、父さんは勉強を条件に許してくれたんだ。


 ――『父さん俺、高校は普通に過ごしたいんだ。同じ趣味の友達を作って、遊びたい』



 ◇◆◇◆◇



「……ああ、いたのか、栖原すはら

「失礼しています」


 帰宅し、夕食をとった後のこと。


 自分の部屋へ戻ると、栖原がクローゼットの衣類を整理していた。


 栖原、栖原天音あまねは、この家の執事の一人だ。


 元々はこの家に15年ほど前から勤めていた栖原さんという、60代のおじいさんの孫で、今は16歳の高校一年生。

 子供の頃のことは知らないけど、数年前から祖父に憧れて執事になりたいと言い出したらしく、その練習という形で今はこの家に住み、祖父の手伝いをしている。


 ただ、今はそれだけじゃなく、彼女は俺と同じ学校で、同じクラスに通っている。

 だから今の彼女の役職は執事というより、俺の監視役と言ったところかもしれない。


「もう、終わるところか」

「申し訳ありません。ご夕食から戻るまでには終わらせるつもりだったのですが」

「いや、俺がちょっと気分が悪くて、早く戻ってきた。……というか、今はいいよ、言葉遣いは」

「そうですか」


 執事が言葉遣いに気を遣わなければいけない職業なのはわかっているけど、やはり普通に会話をするとなると話しにくい。

 特に最近は、何故か俺の周りに栖原ばかりいることもあって、そう感じることが多くなっていた。


 俺と家族は気軽に雑談できるような間柄ではないから、誰かと話したい時に栖原がいるのはありがたいことでもあるけど。


「ちなみに、気分が悪いというのは? 内容次第では医師を呼ぶことになりますが」

「いやそんな大げさな話じゃないんだけど。ちょっと部活で足捻って、調子悪いだけで」


 言いながら、左の足首を見せてみる。

 いや、本当に大した怪我じゃないんだけどな?


 ……あっ、なんかめっちゃ腫れてる。


「では、医師を呼ぶということで」

「いや待った待った! 今日は父さんもいるし……自分で処置するから、道具を持ってきてほしい」


 よりにもよって父さんが家にいる日に俺が高校で怪我してきてそのために医師を呼ぶなんて、俺の高校生活に嫌な印象を持たれかねない。


「はあ……それなら私がやりましょうか」

「ありがとう……助かる」


 そんな俺の思考を読んでか、栖原は呆れたような顔で俺を見ていたけど、最終的には短い黒髪を揺らして部屋の外へ出ていった。

 そして三十秒もしないうちに、治療道具を持って部屋に戻ってくる。


「こんなに腫れたまま、よく歩いて帰ってきましたね」

「高級車以外でなら迎えにきてほしかったけど」

「タクシーを呼べばよかったんじゃないですか」

「高校生が帰りにタクシーも見られたらおかしいだろ」

「高級車よりはマシだと思いますが」


 椅子に座らされ、包帯と氷で足首を圧迫と冷却されながら話す。

 栖原は俺の目的も、趣味もわかっているから、こういうような話を時々する。


 と言っても、役立つようなアドバイスはあまりしてくれないけれど。

 あくまで一歩引いたところから、栖原は俺を見ている。


「こんな怪我をするなら部活はやめた方がいいんじゃないですか。そもそも、やる理由もよくわかりませんでしたけど」

「栖原にはわからないだろうけど、オタクといえば卓球部なんだよ。岩須と道下とも、卓球部で出会えたし」

「出会えたならやめてもいいと思いますが」

「やめて話せなくなったら困る」

「でも、部活に奪われている時間を使えば二人の話にもついていけるのでは?」

「……そこは、俺が他の時間を短縮できれば何とかなる」


 同じクラスで俺達の話も聞いていることもあって、栖原は痛いところをついてくる。

 確かに、周りと比べて俺は勉強量が多く、娯楽に割く時間が足りないと感じることも事実だ。


 ただ、だからといって俺は勉強を理由に何かを諦めたくないし、高校生活においては、何一つとして妥協はしたくない。

 俺が勉強を早く多く終わらせられるようになれば、自然とアニメを見る時間や漫画を読む時間は増えていくんだから。問題はない。


「無理をして体を壊したりしたら、この足の腫れとは比にならないくらい、ご主人様に心配されると思いますけどね」

「……まあ、壊さなければいいだけの話だろ」

「頭は良いのにこういう時は頭の悪いことを言いますよね」

「うるさいうるさい……心配してくれるのは、ありがたいけどさ」

「別に、心配はしていませんが」


 そう言いながら、栖原は治療道具の片付けを始めた。

 さすがこういう手当ては俺がやるより何倍も早い。


「ありがとう。これ、あとは定期的に冷やしとけば明日までには治るか?」

「その腫れ方で治るとは思えませんけど。治らなかったら卓球部は休めばいいんじゃないですか」

「まあ、腫れてても部活はできるからいいんだけど」

「なら好きにすればいいんじゃないですか」


 呆れた様子で、ぶっきらぼうに言いながら、栖原は部屋を出ていこうとする。

 ただ、部屋を出る直前に思い出したように振り向いて。


「そういえば、神籐恋美とはどうだったんですか」

「……ああ、放課後の話か?」

「関わるのは嫌がっていたように見えましたけど」

「嫌っていうか……万が一仲良くなったら、クラスの立ち位置が180度変わっちゃうだろ。関わりたくないとか、そういうわけじゃなかったからさ」

「友人を助けるためなら関わるぜ、と」

「まあ、そうだよ。よく知ってるな、本当に」


 ただ同じクラスにいるだけで、別に露骨に近くにいたりするわけでもないのに。

 執事より忍者の方が向いてるんじゃないだろうか。


「盗み聞きをするくらいしか高校でやることがないので」

「悪いな、こんなことやらせて」

「別にそれは。ただ、てっきり私は、そういう生徒にはもっと警戒してるものだと思っていたので」

「いや……警戒って言ったって、同じクラスだし、関わることは避けられないだろ。それに、一回話した程度なら仲良くなることもないだろうし」

「それはどうでしょうね」


 真顔で意味深なことを言う栖原は、俺を怖がらせるためにそう言っているのか、素でそういう反応になったのか予想がつかない。

 確かに、今の俺の台詞には少し願望も入っているけど、実際に一回話した程度じゃ――


「あっ……? いや、うーん……」

「何かやましいことでもあったんですか」

「やましいことはないけどな!?」


 ただ、今日の俺は一回話す以上の関わりを神籐さんにした気がして、少し考えてしまった。

 まあ、それでも大きな違いではないとは思うけど……あ、そういえば。


「栖原、メガネ外した俺の顔って、何か変か?」

「ダサいメガネを外したら、ダサくなくなるだけじゃないですか」

「ダサ……オタクっぽいと言ってほしいな」

「伊達メガネなんて私はいらないと思います。それに、そのネタメガネを外した顔は普通に――」

「普通に?」


 不自然なところで言葉を止めた栖原は、扉の方に向き直って、ドアノブに手を掛けた。


「……まあ、そのメガネでオタクっぽくなるという目的は、達成していると思いますよ」

「なら、いいんだけど」


 最後にそれだけ伝えて、栖原は部屋を出ていった。


 包帯を巻いてもらった足の腫れが引く様子はなかったが、明日までには治るよう、俺はしつこいくらいに氷で足を冷やしながらその日を過ごした。

 そうして寝るまでの間、何だか余計な心配が頭の中を漂っていた気もするけど、明日になったら、それは杞憂だったとわかるだろう。



 ◇◆◇◆◇



 翌日。


「本ッ当に申し訳ないでござるッッッ」

「いや、大丈夫大丈夫。神籐さんも、怒ってなかったし」


 登校してきた道下は、俺の説明を聞くなり腰を直角に曲げて頭を下げた。

 説明、と言っても、無駄なところまで説明する必要はなかったから、俺が道下の代わりに荷物を運んだ、神籐さんもそれで納得していた、とだけ説明した。


「あれだけ気を張っていたのに最後の最後でやらかすとは恐ろしいでごわすなぁ」

「もう解放されたという気分で帰っていたでござる……もし、もしも優太郎殿が気づいていなかったら……」

「感謝しなきゃいけないでごわすな」

「ありがとうでござる優太郎殿ッッッ!」

「全然いいって」


 きっと、なんだかんだで俺が気づかなくても何とかなっていた気はするし。

 それに、友達を助けるのは俺がやりたいことでもあった。


「拙者は言葉以外でどう感謝を表せばいいか……」

「いやいいんだって……。あ、じゃあ、昨日言ってたオススメのアニメ教えてくれよ。それでチャラだ」

「優太郎殿おおおおおおおぉぉぉっ!」


 抱きついてきた道下を、席から立ち上がって受け止める。

 これが青春かぁ……周りの目が気になるけど、それが青春ってことだよなぁ……。


「うわっ……今日もやってる」


 ――なんてことをしていると、何だか昨日も聞いた声が俺の後ろから聞こえてくる。


「また~……やめときなって」

「ごめんってーでも驚くじゃん」


 昨日も俺達の友情を邪魔した二人の女子が丁度教室に入ってくるところだった。

 その二人の間には、昨日と同じく神籐さんがいる。


 気のせいだろうけど、一瞬目が合った気がして、俺はすぐに三人に背を向けた。


「またも邪魔されたでござるな……」

「気にするな気にするな……俺達には関係ないさ……」


 と言いつつひそひそ声にはなっているけど、実際に俺達には関係ない。

 向こうには向こうの世界がある。


 ということで、俺はまた今日もオタク話を展開しようとした。


「ん?」


 ――んだけど。


 唐突に俺の肩が後ろから叩かれた。

 そしていつの間にか、俺の方を見る岩須と道下の顔は驚愕に染まっていた。


「おはよう、優太郎?」

「…………」


 聞き覚えのある声に振り返ると、いたのは神籐さん。

 ちなみに神籐さんの隣にいる二人の顔も岩須と道下みたいになってる。


 驚いていないのは当然のように俺に挨拶をした神籐さんだけ。


 全くわからない。何がどうなってるのか、全くわからない。


 ――ただ、クラスのマドンナに挨拶をされたという事実がある以上俺ができることは一つだけで。


 考える時間もないまま、俺は口を動かすしかなかった。


「お……おはよぉう……? 神籐サァン……?」

「うん」


 俺の挨拶に満足して、神籐さんはまるで何もなかったように自分の席に戻っていく。


 ただ、周りの生徒はそうもいかない。

「なんで?」「どうして?」と神籐さんと俺を見ながら詮索。


 岩須と道下までもが、何かがあったのかと疑うように俺と神籐さんに目を向けていた。


 そして、当事者の一人である俺は、ただただ狼狽えていた。


「な、仲良かったでござるか……?」

「い、いやぁ? 全然……?」

「で、ごわすよね……?」


 まだ、周りは驚いているだけで、俺の立場は何も変わっていない。

 ただ、この時に、俺の高校生活が変わってしまう音が聞こえた気がした。

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