いつか世界がおわるまで

そうしろ

第1話 時代と同じ棺桶に

 この夜空には平成最後の満月がぽかりと浮かんでいる、というのをSNSで知ったのはもう日付も変わろうという頃だった。TVでは愉快な怪盗もののアニメ映画がやっていたけれど、それに興奮しているのか月もやや朱に染まっていたらしい。

 俺はなんとはなしに、煙草と、七十年前から愛用しているダンヒルのライターだけ部屋着のポケットに放り込んで、不用心に鍵もかけずにアパートの部屋を出た。

 今日が満月らしい、ということだけはなんとなく知っていたけれど、わざわざそのために気だるいからだに鞭打って外に出ていく気にはなれなかった。ところが人間というのはゲンキンなもので、今日がピンクムーンのうえに一つの時代の終わりを締めくくる満月であることを知れば、案外すっと動いてしまうものらしい。

 例えば特売の最後、ひとつだけ残ったカップケーキ。

 ポテトチップスの最後の一枚、うまいワインの最後のひとしずく。

 ポックスに残った煙草の最後の一本、そういうのでもいい。

終わりというものは、分かりやすく何かを大切に扱うことのできる絶好の機会でもある。これがなくなれば終わりだぞ、しばらくは、あるいは永遠にこの今味わっている幸福を享受することは出来ない―――そんな言い訳が誰にでも、恥ずかし気なくできる。


ただそれは、「最後」がきちんと目に見えていればの話。


その日はまだ四月だというのに妙に暑かったのを覚えている。

煙草はあまり量を吸わない性質なのでまだボックスのなかにはたっぷり残っていたけれど、しばらく放置していたせいですっかり辛くなってしまっていた。

空は曇っていて、月なんて見えなかった。

がっかりして部屋に戻ってみると、充電器につないでいたままのスマートホンに新しく一件のSMSが届いているのに気づいた。


緑谷由加の訃報だった。


                        *


緑谷由加という一人の人間を語るにあたって、俺はどうしても言葉が多くなってしまう。たとえば俺がなにかの間違いで彼女の伝記を書かなくてはならない、そんな状況に陥ったとする。その場合、俺はきっと書き出しをこう始めるだろう。

『緑谷由加は人間ではない』

あるいはこうか。

『彼女は【今回】において日本人女性の緑谷由加として生まれ、生き、死んだ』

『その前にはモンマルトルで画材屋を営み、さらにその前はアメリカで蒸気機関を研究する技師として』

『彼女は人生を繰り返している。膨大な"前回"の記憶を保ったまま』


『筆者と同じように』


 俺の意思とは無関係に、俺の脳味噌は廻りだした―――緑谷由加。【今回】のあいつ。数時間前に亡くなったという、俺の旧友。あいつと初めに出逢ったのは、そう―――。


                  *


「こうして君と珈琲を飲むのも何年ぶりになる?」

 二〇一八年の夏、あいつと古書店街でばったり出くわしたのはほんとうに偶然で、俺があと三秒でも古い装飾が見事なボードレールの訳詩集を買う決心をするのが遅ければ、店を出た時にばったりなんてことも起らなかったに違いない。

 それでも俺たちは【今回】も出逢ったし、そしておそらくは今日出逢わなくともそう遠くない未来で出逢うのだろう―――きっと俺とあいつでいうところの「近い」未来は、一般の人々の常識からすると阿呆みたいに気の長い話なのだろうけれど。

 ともかく俺たちは再会を祝して、そのあたりの喫茶店に入ることにしたのだった。

「【前回】は俺が先に死んで、結局おまえが死んだのが―――」「一九五六年。そう、エルヴィスの新作を聴いてたんだ。これは名盤になるぞなんて思ってたら、そこでエステル婆さんは居眠りしたまま、七一歳でポックリ逝っちまったんだ」

 そこで俺たち二人は―――【前回】の俺たち二人は両者とも死んだことになる。ドイツ軍人ギュンター・アルブレヒト少尉はモンマルトル画商のエステル・ヴィヨン媼より一足早くノルマンディーで戦死した。四十二歳だった。気が付けば【今回】に移行していたところを見ると、銃弾の当たり所が悪かったのだろう。苦しまずに移行できた分、俺にとっては当たり所がよかったとも言える。

「で、そこから十七年のブランクがあった。その後一九七三年に、【今回】の俺は生まれた」

「嬉しいことに、【今回】は私の方が若い。今年でやっと二六歳になるからね」

「そうさ、俺は四五歳の先輩だ。長く生きた年月と経験に敬意を払ってここの勘定くらいは持つべきなんじゃないか」

「今時じゃ年功序列は悪習一歩手前らしいぜ、むしろ頼れる人生の先輩として、可愛い後輩に奢るくらいの気概はみせてもらわないと」

 そんな軽口をたたき合いながら、運ばれてきた珈琲に口をつける。たまたま入った店だったが予想以上に趣味のいい店だった。『イエロー・ウィンク・ポエム』はシックな飴色の木製家具で統一されており、建物二階の店内は騒がしくもなく静かでもなく、他愛のない雑談をするにはピッタリだ。メニューも正統派の深煎りからその他ブレンド、そしてリキュール入りなんかの変わり種まであって豊富だ。甘党の俺にはシュガーポットが各テーブルに常備されているのも嬉しい。

「だからといって蜂蜜入り珈琲に、ザラメ砂糖までざらざら入れるのはいかがなものかな。早死にするよ」

「おまえもな、半世紀以上口を酸っぱくして言っているが、ミルクを四つも入れるのはどうなんだ。それならいっそカフェオレかラテにすればいいだろうに」

「それならこっちだって半世紀以上口を酸っぱくして言わせてもらうけれどね―――私は、これが、好きなんだ」

 あいつはそう言ってにやりと笑うと、もうほとんど肌色と言っていいような液体が入ったカップを、すっと俺の方に差し出すようにして目の高さまで上げてきた。

 俺はそれを受けて、同じようにする。にやりと笑って。

「何度目かの『初めまして』に」

「乾杯」


                  *

 これが【今回】における、俺とあいつの初対面だった。

 俺とあいつは記憶を保ったまま、何回も、何十回も、ひょっとしたら何百回何千回と生まれ、死んで―――そして、そのすべてで必ず一回は出逢うようにできている。

 なぜ、どうして、なんて問いには答えられないし、むしろ俺たちが誰かに答えてほしいくらいだ。長い長い人生のなかで俺たちみたいな人間外の存在、そういう手合いが少なからずこの世にいることも知ってしまったが、俺たち二人ほど奇特な手合いには未だ出逢えていない。同じような輩がいれば、この問いにも答えが返ってくるのかもしれないが……結局考えても分からない事柄なので、俺とあいつは「そういう風にできている」のだと沈黙で疑問を黙らせ続けてきた。少なくともここ数百年間に渡っては。


 そんなあいつが、死んだのだという。それ自体は(俺たちにとっては)驚くべきことでも、悲しむべきことでもない。また俺がこの生を全うすれば、【次回】また逢うことは目に見えているからだ。

 ただ一つだけ。一つだけ、首を傾げたくなったのは―――あいつの、緑谷由加の死因だ。


 俺たちみたいな手合いに、「自殺」なんて逃げ道になんの意味もないことを、あいつは知っていただろうに。

 今更どうして、あいつは。

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