3 お嬢様の正体(前)


 まだオープン前の準備にも早いとあって、『アフター・アワーズ』は人気のない倉庫のように暗かった。

 テーブルの上に逆さにして置いてあった椅子を四つ下ろして、鍋島と芹沢、ユウ、そしてハワイ帰りを強調しているかのように日焼けした森下千春は向かい合った。テーブルには、ユウが作ったソフトドリンクがそれぞれの前に置かれた。

「――刑事さんの尋問なんて、初めて。ちょっとワクワクするね」

 ストローでフレッシュオレンジジュースをかき混ぜながら、千春ははきはきした口調で言った。ホステスというより、フィットネスジムのインストラクターのように引き締まった小さな身体と、その上に乗った茶目っ気たっぷりの顔が魅力的な女の子だった。歳は二十二歳で、『ブルーローズ』ではなかなかの売れっ子らしい。

 その千春に芹沢が言った。「あなたは事件前夜、岡本さんが坂口さんと口論していたのを見ていたそうだけど」

「そう」と千春は顔を上げてにっこりと笑った。さすがに愛想がいい。しかも相手が芹沢だとなおさらだろう。

「そのときの話、刑事さんにしてあげてよ」

 ユウは隣の千春を肘でつつくと鍋島を見た。「この話が俺にはいまいち納得でけへんのです」

 鍋島は頷くと千春に振り返った。「森下さん、お話し願えますか」

「うん、あ、はい」千春も真顔になって頷いた。「事件の前の日、店が開く前に信哉が来て郁代さんと話してました。そのとき、その場にはあたしともう一人、エミリちゃんていうコも居合わせてたんやけど、あたしらの見る限りでは、二人は事件のあとで言われてたような険悪な雰囲気と違ったわ。確かに、郁代さんは信哉が前に借りたお金で機材なんか買わんと遊びに使ったことに怒ってたけど、呆れ半分って感じやったし。それでも信哉が性懲りもなくまたお金貸してくれって言うたから、聞いてるあたしらの方が怒って『ええ加減にしときや』って言うたくらい。それでも郁代さんは笑ってた」

「つまり、翌日になって殺そうと思うほど腹は立ててなかったと」

「そう。もちろん」

「説教してたとかいうのは本当?」芹沢が訊いた。

「説教――そうやね、あれはお説教やね。とは言うても、郁代さんが信哉にあれこれ注意するのはいつものことやから、信哉もまったく気にしてへんかったし」

「当初の捜査によると、それがかえって坂口さんを逆上させたって見解になってるんだけど」

「そのときになって逆上するくらいやったら、そっくの昔にしてると思うけど」とユウが口を挟んだ。

「そうよ。郁代さんは自分で、信哉に対しては菩薩の境地に入ってるって言うてたもの」

「でも、警察が訊いたママの話によると、岡本さんが帰る頃には二人は相当険悪やったとか」

「それなのよね……あたしもエミリちゃんも、出勤してきたママに言われて店の奥に引っ込んでしもたから、そのあとのことは見てないんです。せやから、ママがそう言うてたとしても、否定はできひんのやけど」

「なぜ店の奥へ行ったの?」

「開店準備。うちはそんなに大きなお店と違うから、みんないろいろ仕事の分担があって。あたしは常連のお客さんに営業の電話を掛けに、エミリちゃんはトイレの掃除に」

「かと言うて、千春らが引っ込んだ直後から二人のムードが一変したってのも不自然でしょ?」ユウが言って二人の刑事を見た。「解せんと思いませんか」

「ママが何かけしかけたんかな」鍋島が言った。

「何をけしかけるんだ?」

 芹沢はちらりと鍋島を見ると、千春に振り返った。「あなたとエミリさんは、ママが二人と話すのは聞いてましたか?」

「聞いてません」

「まったく、何も?」

「ええ。最初に『あら信哉くん、いらっしゃい』って言うたのは聞いたけど」

「じゃあ、お店が終わってから坂口さんは何か言うてませんでしたか? そのあとのこと」

「別に。いつも通り様子も変わらへんかったし……翌日はお店が休みやったから、その次の日に店で会うたときは、みんな信哉が殺された話でもちきりで、郁代さんは沈んでたけど」

「そう。彼女のそんな様子がまた、容疑者と疑われた状況証拠の一つとなってるんだ」

「でも、それは当たり前のことでしょ? 信哉は友達やもん」

 千春は俯きながら言うとベソをかいた。「けど、結局は郁代さんが捕まって――はっきり言うて、あたしら店のみんなはそっちの方がショックでした。信哉が死んだことより」

 ユウはそんな千春の肩に手を置き、心配そうに顔を覗きながら言った。「元気出しぃな。郁代ちゃんのアリバイが成立したらしいから、すぐに出てこれるって」

 そしてユウは二人の刑事に振り返り、「そうなんでしょ?」と訴えるような眼差しを向けた。

「……まあな」と鍋島は言葉を濁した。

「駄目なんですか?」

「まだいろいろと曖昧な点が多くてね」芹沢が釈明した。「それはそうと、岡本さんが坂口さんに金を借りようとしてたというのが、ちょっと釈然としない部分があるんだけど」

「何で?」とユウが訊いた。

「どうやら彼には飛び切りのパトロンと言うか、金蔓がいたらしい」と鍋島。

「カネヅル? スポンサー的な?」

「ああ。彼の言うてたことによると、お金持ちのお嬢さんだとか」

「知らんかったな」とユウは感心したように首を振った。「千春ちゃんは?」

「……知ってる。どこの誰かってことは、信哉は言わへんかったけど」

 ジュースを飲んでいたストローから口を離すと千春は低く呟いた。

「殺される十日ほど前やったかなぁ。店に来て、酔っぱらったついでにそんなこと言うてたの、ちらっと聞いた。信哉ったら、自慢気に言うてたわ。『取り柄の無い女がお目当ての男を自分に向かせるには、金の力に頼るしかないから、哀れなもんや』って。それであたしらに『おまえらもそうならんうちにええ男つかまえろよ』なんて言うてもいた。それを聞いた郁代さんにまた叱られてたけど」

「それが誰だか、まったく分からない?」

「ええ。それに関してだけは口が堅かった」

「でも、そんな相手がいるんやったらなんで郁代ちゃんに金を借りに来たんやろ」ユウが呟いた。

「……そう言えば、郁代さんにお金貸してくれって頼んでたとき、信哉は『あてが外れたんや』って言うてた」

「その金蔓から縁を切られたってことかな」鍋島が言った。

「ねえ、そのお嬢ってのが真犯人なん?」ユウが鍋島に訊いた。

「まだ分からん。けど、他の女性たちはどれも決め手がないし、その『お嬢さん』だけが正体不明やし、気にはなってるんや」

「でもそしたら、郁代ちゃんが逮捕された理由――証拠って言うのかな――それはどうなるわけさ?」

「そうそう。信哉のスマホに郁代さんからのひどいメッセージが入ってたってやつ。それって本当なんですか?」千春が訊いた。

「まあね」芹沢は頷いた。

「いつのこと?」

「事件の五日前。『金返せ泥棒』とか『詐欺師、警察にタレこむぞ』とか――『ヒモ野郎、女を何人泣かせたら気が済むんだ』とか」

「言うてるおまえがボディブロー食らってるんちゃうか」と鍋島が愉快そうに口を挟んだ。

「うるせえよ」

「……そんなこと、絶対に郁代ちゃんが言うはずないよ」ユウが大袈裟にかぶりを振った。

「そうよ。郁代さんはスマホなんかで友達をののしるような人と違うわ」と千春も怒ったように言うと芹沢を見た。「それに、信哉はあのとき何も言うてなかった。そんなひどいメッセージ送ってこられたら、本人に会ったときに何か言うはずでしょ?」

「ひどいと言えばひどいけど、気にしないやつは全然平気なんじゃないかな」

「そう。おまえもそうやもんな」鍋島はもっともらしく頷いた。

「だからうるせえって」

「坂口さんは否定してるけど、彼女から送られてたのは確かなんや。岡本さんのスマホにそれらのメッセージが残ってたから」

「そうなんや……」

 千春はがっかりという感じで俯いた。しかしすぐに顔を上げると、いくらか希望を含んだ眼差しを刑事たちに向けて言った。「……なりすましじゃないのかな」

「なりすまし?」と芹沢が言った。「そうか。アカウントを乗っ取られたってことなら――」

「うん。一時いっとき話題になってたでしょ。友達のふりしてメッセージを送ってきて、相手にプリペイドカードを買わせて、そこに書かれてる番号をどうにか操作してお金を騙し取るっていうの」

「それ、どうやったら乗っ取られるんやったっけ」鍋島が訊いた。

「確か、メアドとアプリのパスワードが分かったらできるんちゃうかな」とユウが答えた。

「じゃあ誰かが坂口さんのそれらの認証情報を盗み取って、彼女になりすまして岡本さんに中傷メッセージを送ったってことか」鍋島は言った。「どうやって盗んだんやろ」

「アプリの公式アカウントを装った偽メールとか、先に乗っ取った別の友達からの偽メールを送って、そこに情報を入力させて抜き取るって方法じゃないか」と今度は芹沢が答えた。「ITに精通した人間なら、難しいことじゃねえと思う」

「……えらい凝ったことするな」ユウが呟いた。

「坂口さんが疑われるような状況証拠を作るためだ。それくらいの完成度は必要だと考えたんだろ」

「岡本さんはそれを分かってたのかもな。せやから坂口さんには抗議しぃひんかった」鍋島が言った。

「どういうこと?」千春が訊いた。

「やった人物に心当たりがあったとか」鍋島は答えた。「もしかすると、それを追求しようとして殺されたのかも」

 鍋島の意見に、それぞれがううん、と考え込んで俯いた。

 やがてユウが顔を上げた。「偽メールを送るにしても、まずは郁代ちゃんのメアドを知ってる必要があるよね。ってことは、彼女とはそれなりに近い関係の人物?」

「必ずしもそうとは限らねえ。岡本さんの知り合いだったら、彼のスマホを一時的に入手して、そこから調べることだってできる」芹沢が言った。

「ってことはやっぱりその、お金持ちのお嬢ってのが怪しいのか」ユウは腕組みした。「そんな女と、信哉はどこで知り合ったんやろ」

「周りにそれらしい人物は知らない? 意外と、そうは見えねえのに実はお嬢さんだった、ってこともあるかも」

「……ちょっと待って……」

 ずっと俯いて考え込んでいた千春が呟いた。そしてゆっくりと顔を上げると、困惑を隠せないように目を泳がせながら言った。

「――まさか、あの女性ひとかも」


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